古代エジプトで使用された暦。古代エジプト人は1年を太陽の運行に必要な周期としてではなしに,彼らの農業生産物を得るのに必要な期間と考えた。雨の降らないエジプトでは,生命はすべて〈ナイルの賜(たまもの)〉なのである。したがってナイルの洪水が彼らにとって最大関心事であった。ヘリオポリス,メンフィス地方では7月下旬よりナイル川の増水が始まり,これと時を同じくしてシリウス(ソプディットSopdit)の日の出直前の出現(ヘリアカル・ライジング)を見ることができた。これは通常ユリウス暦7月19日のことで,この二つの現象を結び付けて古代エジプト人は,イシスに同化されたソプディット女神の涙によりナイルの洪水が起こるものと考え,イシスを年の守護神とし,この日を〈ウプ・レンピット〉すなわち新年とした。古くからヘリオポリスでは太陽の軌道とシリウスの位置について正確な観測がなされ,〈偉大なる観測者〉の称号が高位の神官に与えられた。彼らは1年を4ヵ月よりなる三つの季節とした。第1の季節は,エジプト全土に生命の水があふれ,死せるクムの復活の季節=洪水季(アクト),第2は,農耕地・灌漑水路網の整備,土が堅くなる前に行われる耕作・播種・発芽の季節=播種季(プルト),第3は収穫の季節=収穫季(シュムウ)であった。1ヵ月は30日より構成され,1年は360日,それにオシリス,ホルス,セト,イシス,ネフテュスの5神の誕生日を祭日として付加して365日とした。この暦では4年ごとの閏(うるう)年が計算されなかったので,4年目に天文暦より1日早くなり,365×4=1460年目でこの暦と一致する。これを〈ソティス周期〉といって,後139年にこの一致をみたので,逆算すると前1321-前1318年,前2781-前2778年,前4241-前4238年に両方の暦日が一致することになり,エジプト年代学の礎石となった。また古王朝期の初めより年の単位で記録する方法が行われていたことから,この暦法の導入を前4241-前4238年とする説が有力である。前238年プトレマイオス3世は4年目に5日の祭日にさらに1日を付加すべきことを命じ,暦の調整をはかった。エジプトでは古い時代から太陰暦も用いられていたことは明らかで,月を構成する30日の日の名称からも理解されよう。このほかに祭礼・宗教行事のための奉献カレンダーや吉凶暦などが使われた。
執筆者:中山 伸一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
古代エジプトで行われた暦。世界各地で暦法が発生した初期の時代、その多くが太陰暦法であったと考えられるが、ひとりエジプトでは太陽暦法であった。初めは1年を12か月、1か月を30日、1年を360日としたが、紀元前20世紀ごろから365日の移動年(年始が年ごとに移動する)とし、30日ずつの月12か月に5日の余日を最後に付加する太陽暦法であった。そしてこれを洪水、種蒔(たねまき)、収穫の3季に分け、各季を4か月とした。
エジプトではシリウス(おおいぬ座α(アルファ)星)が日の出の直前に東天に昇るころの一定時期に、ナイル川が氾濫(はんらん)し、農業や生活に重大な影響を与えた。そのためシリウスの日の出直前の出現を予知する必要から1年365.25日を知り、シリウスの出現の日は元日とされた。この1年をシリウス年とよぶ。しかしエジプト暦では、年は移動年であるから、季節はしだいにずれていく。1461暦年は1460シリウス年に等しく、季節は1461移動年で元に戻る。この周期をシリウス周期とよぶ。前238年にプトレマイオス3世(在位前246~前221)は4年ごとに1日を歳末に加えるよう法令を出したが、実際には行われなかった。古代エジプト人の子孫であるコプト人の間で使用されたコプト暦は、エジプトと同じ太陽暦で、エチオピアでも用いられた。
[渡辺敏夫]
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