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こよみcalendar

翻訳|calendar

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説


こよみ
calendar

語源は日読み (かよみ) 。1日を単位として数えることにより,週,月,年と時間を分割した体系,また,この体系の基礎となる天体の知識,年間の予知すべき事項を記載したものをいう。分割の基礎になるものは,月の公転周期 (朔望月 29.531日) および地球の公転周期 (太陽年 365.242日) であり,前者を採用したものを太陰暦,後者を採用したものを太陽暦,両者を併用したものを太陰太陽暦という。純粋太陰暦はイスラム諸国のイスラム暦 (マホメット暦) が現在唯一の例。太陰太陽暦は日本では旧暦とも呼び,バビロニア,インド,ギリシア,中国などで用いられた。太陽暦の起源はエジプト暦 (シリウス暦) で,ナイル川の洪水予知のため古くから用いられた。カエサルにより1年を 365日とし,4年ごとに1日の閏日をおくユリウス暦が制定され (前 46) ,また教皇グレゴリウス 13世により,さらに 400年ごとに3回閏日を省略する修正が加えられた (1582) 。これが現行のグレゴリオ暦である。日本では明治5 (1872) 年 11月9日改暦の詔書が出され,同年 12月3日を翌年1月1日として,現行の太陽暦が実施された。それ以前は6世紀頃から中国暦を使用したが,貞享改暦 (1684) から日本独自の太陰太陽暦を使用した。江戸時代には社寺の権威を背景に各地で暦が出版された。現在世界的に通用するのは西暦紀元である。特殊なものとしては,フランス革命中に使われた革命暦がある。天体の運行を精密に知るためには天体暦を使用する。

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デジタル大辞泉の解説

こ‐よみ【暦】

《「日(か)読み」の意》
時の流れを年・月・週・日の単位で区切り、わかりやすくした体系。日本では推古10年(602)百済から伝えられた中国暦、貞享元年(1684)渋川春海によって作成された貞享暦などの太陰太陽暦を用いてきたが、明治5年に12月3日を明治6年1月1日(1873年1月1日)とし、以後、太陽暦の一種のグレゴリオ暦を採用。
1年の、月・日・曜日祝祭日干支(えと)日の出日の入り月齢・日の吉凶・主要行事などを日を追って記したもの。七曜表。カレンダー。「をめくる」
[補説]書名別項。→

れき【暦】

こよみ。「グレゴリオ」「ユダヤ

れき【暦】[漢字項目]

常用漢字] [音]レキ(漢) リャク(呉) [訓]こよみ
〈レキ〉
巡ってくる日・月・季節をしるしたもの。こよみ。カレンダー。「暦日暦年暦法陰暦改暦還暦新暦西暦太陽暦
天体の運行を計算すること。また、天の巡り合わせ。「暦象暦数
〈こよみ(ごよみ)〉「絵暦花暦
[名のり]とし

こよみ【暦】[書名]

壺井栄中編小説。昭和15年(1940)、「新潮」誌に発表。翌年、第4回新潮社文芸賞受賞。

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百科事典マイペディアの解説

暦【こよみ】

1日を単位として長い時間を年・月・日によって数える体系。それを構成する方法(暦法)またはそれを記載したもの(暦表,暦書)をいうこともある。語源は日読(かよみ)とする説もある。
→関連項目季節天皇

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占い用語集の解説

日常生活で活用するために、時間の流れを年・月・週・日といった単位に当てはめて総体化したもの。月齢や、日の出・日の入り・月の出月の入り時刻潮汐の時刻などの予測値を記したり、日本では、曜日・行事・九星六曜などを記したもの。占いにおいては、生年月日時で見る命術で使われる。

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世界大百科事典 第2版の解説

こよみ【暦 almanac】

1日を単位として長い時間を年,月,日によって数える体系。その体系を構成する暦法,またはそれを記載した暦表,暦書をいうこともある。光陰百代過客にしてと李白の詩にもあるように,時間は無限の過去から無限の将来へと連続して流れていく。この無限の時の流れに自然的周期をもとに句読点ともいうべきものをつけ,日常生活に便利なように時間的基準を作る。これが暦を必要とするゆえんであり,社会生活が高度になれば,共通して使用できる便利な暦が求められる。

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大辞林 第三版の解説

こよみ【暦】

〔「日読かよみ」の転か〕
時の流れを年・月・週・日などを単位として区切った体系。暦法。
1年間の月日・七曜・祝祭日・干支えと・月齢・日の吉凶などを日を追って記したもの。カレンダー。

れき【暦】

こよみ。
天体の位置や天体の現象の毎日の値を記したもの。天体暦。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説


こよみ

こよみとは『和訓栞(わくんのしおり)』に「暦日をいふ、日読(かよみ)の義、二日三日とかぞへて其事(そのこと)を考へ見るものなれば名とせるなり」とあり、「また古語にコといひしは詳細の義あり、ヨミとは数をかぞふる事をいひけり、歳月日時を細かにかぞへしるせしものをいふに似たり」ともある。本居宣長(もとおりのりなが)はその著『真暦考』で「又日を数へていくかといふも、幾来(いくけ)経、暦をこよみとつけたるも、来経数(けよみ)にて、一日(ひとひ)一日とつぎつぎに来経(きふ)るを、数へゆく由の名なり」と述べている。日本語の「こよみ」は日を数える意である。長い時の流れを数える法が暦である。これに対し漢字の「暦」が意味するのは、日月星辰(せいしん)の運行を測算して歳時、時令などを日を追って記した記録である。
 和漢いずれも時を数える方法が暦法である。この暦法によって推算して将来予知される公の時令を記したのが暦書であり、暦にはこの二つの意義がある。
 暦は時の流れを計り数える方法である。時という目に見えない抽象的な概念は哲学的に興味ある問題であるが、その本質は暦について考察する場合には重要なことではない。
 科学的に測定するには単位が必要である。長さ、質量を測るには、基準となるメートル尺や、1グラムの分銅と比べてそれの何倍として測るのであるが、永遠に流れてやまぬ「時」は、あらかじめ定められた一定の基準物と比べて測ることはできない。
 時の流れを知るのは一つの事件の発生の前後感覚からである。そこで、基準となる時の物差しとしては、物体が位置を変える運動から、同じ状態が繰り返されるような周期的自然現象を選ぶか、あるいはこれと同じように正確に繰り返す機械をつくることである。前者の条件を満たすものは地球の自転運動であり、後者としては時計がある。地球の自転は、昼夜の明暗と、人間の日常生活を繰り返すところの1日である。1日から導かれる1秒という時の単位は、自然に存する物理学的基本量の一つであって不変なものと考えられた。ところが天文学の発達は、地球自転の1日という周期にわずかではあるが変化があることを明らかにし、地球が太陽を回る公転運動による1年をもって時の単位と決めることにした。暦においては、日・年という周期のほかに、月の満ち欠けする周期をもって組み立て、これに人工的な週、旬といった補助的な周期が用いられる。1日を細分して時を数える時制が時法であり、1日を単位として月・年を用い長い時の流れをくぎって人間の生活にあわせて時を計り数える方法が暦法である。[渡辺敏夫]

暦の歴史


暦の発生
人類に限らず地球上にある万物は、地球の自転に起因する明暗に左右される。人類が地球上に生まれると同時に1日の生活が始まったことは明らかであろう。そこから1日が暦法の基本周期となった。人類が大自然の環境に順応し、自然を利用して生存を維持するために季節を知り、月光を利用することから年・月の概念が発生し、ひいては日・月・年の関係をうまく調整する暦法が発生してきた。暦の発生、発展の過程は、その土地の地理的位置、気候、風土といった自然環境と、民族の習俗、宗教などにより異なるが、いかなる民族も自然現象に対して無関心ではありえない。自然現象の影響が大きいほど、なおのことである。
 暦は人類の生活の必要から生まれたものであり、生活を支配するのが1日、1月、1年の長さである。まず生活は1日から始まる。昼夜の交代は活動と休養である。しかし初めから1日の正確な長さを知ったわけではない。太陽の出没による明暗から、やがては太陽の南中から南中までの1日を知るようになる。[渡辺敏夫]
太陰暦の発生
月の満ち欠けによる月の形相と明暗の変化は、未開の人類には大きな関心を与えたことは容易に理解できよう。現代と違って、太古において月光を利用することは、昼夜の変化と同様、生活には重要なことであって、月の満ち欠けの周期を求めてやまなかったであろう。いつ月が西天に見え始めるかを知るために見張り人を立て、西天に新月が初めて見えたことを叫んで知らせた。ローマ暦で月の初日を「カレンデ」というが、これは叫ぶことに由来したといわれ、カレンダーという語はこれに由来するものである。月の満ち欠けによって日を数えているうちに、人はその周期の近似日数29日あるいは30日を知るようになる。月が新月から半月へ、半月から満月へ、満月から光を失ってふたたび半月へ、そして消失する形相の繰り返しは、だれもが見られる印象的な現象であって、月は自然に「時の支配者」となった。しかしこの状態では、まだ満ち欠けによって日を数えるにすぎなかった。
 一方において、人類は寒暖の繰り返しや、それに伴う草木の開花結実、鳥獣の生活状況の変化などにより、さらに進んでは太陽高度の変化、それによって生じる日影の長短、昼夜の長さの周期的変化、あるいは星辰(せいしん)の出没、季節によって夜空に見える星の違いなど、いろいろの天文現象に気づき、月の満ち欠けより長い時のくぎりがあることを知るようになる。何回かの月の満ち欠けの間に季節にも周期的変化があることを知るようになる。かくして、まず最初に発生した暦法は、月の満ち欠けによって日を数え、これを12回繰り返すとだいたい季節も元に戻る太陰暦法であった。月の満ち欠けに関係のない太陽暦法でさえも1か月が30日であることは、暦の初めは月によって日を数えた名残(なごり)と考えられる。
 また人類は、季節の循環を自然現象の変化によって知ったのである。狩りや漁(すなど)りに生活の糧(かて)を求めながら場所を移り変わる遊牧民族では、自然暦でも十分にまにあったであろう。しかし、人類が一定の土地に居住し、農耕、牧畜の生活へと移行すると、種播(ま)きや収穫のためにも、作業に必要な道具や種を用意するためにも、それらの時期をあらかじめ知っておくことが必要となる。この段階になると人は太陽の運行に注意し、季節を知るようになるが、まだいわゆる自然年であって、確かな暦法は存在しない。穀物や果実の熟す時期は、年ごとの天候状態に左右されるし、樹木の開花、黄葉、鳥の回遊も一定したものではない。自然暦では季節に早晩があり、天文学的に決まる1年とはほど遠いものがある。人が豊かな収穫を祈念し、また感謝するための手段として、神への祭りと生贄(いけにえ)を必要とするようになると、その祭りをもっとも適当な季節に行うために、季節の循環周期の長さを正しく知る必要が生じた。この段階に達すると、人類の文化はかなり進んでいなければならない。正しい季節の周期は天文学的知識を必要とするからである。[渡辺敏夫]
太陰太陽暦と太陽暦の発生
生活の基礎となる農耕は季節と切り離すことはできない。月の満ち欠けで日を数えることは季節とはなんの関係もない。季節は太陽の運行による太陽暦を必要とする。月の満ち欠けの周期と季節の移り変わる周期を精密に知るには天文学的知識を必要とする。暦法は数を離れては存在しない。月の満ち欠けの周期も季節循環の周期も、1日の整数倍でなく、端数がある。これをうまく組み合わせていくためには、かなり高い水準の文化に達していなければならない。暦法の早く発生した国家、民族は、早く文化の開けた国家、民族であった。
 季節の循環する1年の長さは、太陽の出没時刻や、その方位の変化、水平な地面に垂直に立てた棒の太陽南中時における影の長さの変化、あるいは日の出前の暁天に、日没後の宵空に出没する恒星を観測することによって知ることができる。たとえば、地平線上の一定点に沈む太陽を繰り返し観測することにより、特定の季節を定めることができる。イギリスに残るストーンヘンジはその遺跡といわれている。中国、インド、ペルシア、アラビアでは、黄道(こうどう)に沿って28または27の星座を設けて月の運行を観測し、これから太陽の位置を推定した。エジプト、バビロニアなどでは、黄道を12等分した十二宮を設けて太陽の位置を知り、季節を正した。またエジプトでは、ナイル川の氾濫(はんらん)期の日の出直前にシリウス(おおいぬ座のα(アルファ)星)が出現することを観測して1年の長さを知った。バビロニアでは、日の出前に出現するカペラ(ぎょしゃ座のα星)によって1年の初めを定めた。古代中国では、季節を定める星を辰とよんだ。殷(いん)の時代アンタレス(さそり座のα星。中国では大火)を辰とし、夕方南中をもって夏5月とした。また北斗七星の柄杓(ひしゃく)の柄がさす方向によって季節を定めた。
 こうして文化の発展とともに月・太陽の運行の精確な研究が進み、それに伴って時の測定は発展していった。その結果として、月の満ち欠けによって日を数え、季節を調節していく太陰太陽暦法(陰陽暦法)が、また直接に太陽の運行だけで日を数え、季節にあわせていく太陽暦法が発生、発展した。いずれの暦法も人間生活に必要な農耕生活と関連して発生したものであって、暦法の進歩は天文学の発展であり、人類文化の発展の歴史でもある。[渡辺敏夫]

暦法の原理


 天文学では月の満ち欠けの周期を朔望月(さくぼうげつ)といい、季節の循環する周期を太陽年(回帰年)という。暦法は人類の生活に必要な朔望月、太陽年をいかに調節していくかにある。朔望月は29.530589日、太陽年は365.24220日(いずれも1900年初めの値)である。この両周期は1日の整数倍ではなく、端数がある。暦法の原理は、この端数を適当に組み合わせて、どのようにして、月の満ち欠けにも、季節にも狂いが生じないようにして便利な暦をつくるかということにある。[渡辺敏夫]
太陰暦
最初に発生した暦法は、月の朔望月による太陰暦法であった。朔望月の日の端数を切り捨て、または切り上げて29日、30日とし(前者を小月、後者を大月という)、大小の月を交互に繰り返すと、平均の1月の日数は29.5日となり、朔望月との違いは0.030589日であるから、何回か繰り返していると、端数が積み重なって1日に達する。そこで、この分を小月に繰り入れて大月とする。一般にこの調整のために挿入される1日あるいは1月を閏日(うるうび)、閏月(うるうづき)といい、閏日または閏月を含む年を閏年という。その置き方を置閏法(ちじゅんほう)という。いま12朔望月を1太陰年とよぶことにすると、その総日数は29.530589×12=354.367068日で、その端数は2太陰年または3太陰年でほぼ1日となるから、大月から始めて大小月を繰り返すと、12か月では354日となり、2太陰年目の最後の小月に1日の閏日を挿入して大月とする。これでは1-0.367068×2=0.265864日だけ入れすぎる。したがって8太陰年ごとに0.265864×4=1.063456日となり、1日置きすぎるので、8太陰年には閏日を1回省いて、8太陰年の間に3日を挿入する。すなわち、8太陰年に354日を5回、355日を3回置くことによって総日数2835日とする。同じように30太陰年(1万0631.01204日)のうち、355日の閏年を11回置くと1万0631日となって、その誤差は0.01204日で、うまく調整できる。トルコ人は8太陰年に3回の閏年を置く置閏法を採用した。30太陰暦年に11回の閏日を挿入する置閏法を採用したのはイスラム暦である。
 月の運行だけを考える太陰暦法では、太陽年よりは約11日ほど短いから、太陰暦法で日を数えていると、この暦の日付は太陽暦ではだんだんずれて、1年に10日あるいは11日ずつ早くなっていく。[渡辺敏夫]
太陰太陽暦
次に太陰太陽暦法について考えてみる。朔望月と太陽年の端数を調整するには 29.530589i=365.24220jを満たすような整数ijを求めればよい。上記の条件を書き直すとi/j=12.36827であるから、1太陽年は12朔望月ごとに0.36827の端数を生ずる。この端数をなくすように閏月を挿入すればよい。この端数を近似する分数で表すと1/2、1/3、3/8、4/11、7/19、……を得る。分数1/2は、2太陽年に一度30日の月を挿入して13か月とすることである。そうすると1太陽年の平均日数は369日となり、調整は不十分である。1/3は3太陽年に1か月の閏月を挿入することで、1太陽年の平均日数は364日となり、まだ不十分である。3/8は8太陽年に3回の閏月を挿入するもので、1太陽年の平均日数は365.25日、1朔望月の平均日数は29.515日となり、かなり真の値となる。7/19の分数は19太陽年に7回の閏月を置くもので、十九年七閏法という。紀元前433年ギリシアの天文学者メトンMetonの発見によるものでメトン法という。また、これを中国では章法という。19太陽年は6939.6018日で、これは12か月の太陰年に13か月の閏年7回を含む235朔望月の日数6939.6884日にほぼ等しい。19年の4倍の76年を周期とするカリポス法は紀元前334年ギリシアのカリポスCallipusによって発見された。ただし76年の総日数を2万7759日とし、1太陽年の平均日数を365.25日とするもので、中国ではこの暦法を四分法という。太陰太陽暦法はその置閏法により多種多様の暦法が生ずる。おもなものとしてユダヤ暦、ギリシア暦、バビロニア暦、インド暦、中国暦などがある。日本の古代からの暦法は中国暦法を移入したものである。[渡辺敏夫]
太陽暦
太陽暦法は月の運行にはまったく無関係であるから、季節調整の暦法としては非常に簡単である。太陽年は365.24220日で、この端数を切り捨てた365日の暦年を用いていると、1500年で約1年の違いを生ずる。このような1年を用いていると、季節と暦とは毎年いくらかずつずれていく。このような1年を移動年という。エジプトやペルシアの太陽暦は移動年を用いていた。太陽年の端数0.24220日は4年で1日に達するから、365日の平年3回の次の4年目に1日の閏日を挿入して1暦年366日とすると、1年の平均日数は365.25日となる。この4年に1回閏年を置く太陽暦はローマのユリウス・カエサルによるもので、ユリウス暦とよばれている。この暦法は置閏法は簡単であるが、128年に1日の狂いを生ずる。そこで128年に31閏日を挿入すると、1年平均の日数は1太陽年とわずか1秒ほどしか違わない非常に精密な暦法を得るが、置閏法が少し複雑で、年代学的計算に対して便利でない。ユリウス暦の1暦年は太陽年と0.00780日違う。これは1000年で8日ほどの相違をきたし、4年に1日ずつ閏日を置くと、置きすぎるので、400年に97回の置閏法に改良した暦法が、ローマ教皇グレゴリウス13世によって定められた。グレゴリオ暦とよばれるものである。グレゴリオ暦では1年の平均日数は (365×303+366×97)÷400=365.2425日となり、太陽年との差は0.00030日で、1万年に3日である。これくらいの相違は実際問題として日常生活になんの妨げとなるものではなく、置閏法も簡単で、現在世界各国が採用している暦法である。[渡辺敏夫]

暦書


 暦書とは一定の暦法で組み立てられた1年間の月日に対して、(1)将来おこるであろうと予知される事項、(2)公然または恒例として実施される事項、を日に配し記載したものである。普通、暦というときには暦書をさしていっている。(1)には、天体の位置や日食・月食などの天文現象を記載した天体暦が属し、(2)に属するのは、日常の市民生活に使われる常用暦で、年中行事などの事項が記載された暦書である。暦書にはその使用目的に応じていろいろの種類がある。
 天体暦は天文家用に編纂(へんさん)されるもので、天体の位置、距離、明るさなどや、その年におこる天象が記載された純学術的なものである。航海暦や航空暦は、航海者、飛行家のために便利なように天体暦から編纂されたものである。天体暦のおもなものとしては『フランス暦』(1679年以降毎年刊行。パリ天文台子午線を基準として経度局で編纂される)、『イギリス暦』(1767年以降刊行。グリニジ天文台子午線を基準にしてグリニジ天文台編纂発行)、『アメリカ暦』(1855年以来アメリカ海軍天文台で編纂発行)、『ドイツ暦』(ドイツ天文計算局で1776年から編纂発行。ただし1959年廃刊)がある。日本では1943年(昭和18)から海軍水路部が、第二次世界大戦後は海上保安庁水路部が『天体位置表』を刊行していたが、平成22年(2010)版で終了。これらの暦書は、その精度は0.1秒(角)以下で専門家用である。東京天文台で編纂される『理科年表』中の「暦象年表」は、精度は落ちるが簡略化されて一般向きである。
 日常生活に必要な常用暦は、この天体暦を基礎にしてつくられるもので、生活上必要な行事、歳時、暦注などが記入される。そして、学校という小さな社会には学校を運営していく学事暦、神社では毎年行われる祭祀(さいし)を記した祭祀暦、農事を営む人にはいつ種を播(ま)くか、収穫するかを知らせる農事暦があり、サラリーマンにとっては七曜、休日を知るためのもっとも簡略なカレンダーがある。個々の小社会から、大は国家の行う年中行事や歳時などが記載される国暦というようにいろいろな常用暦がある。そのほか、人間の生年月日によってその人の運勢などを占う運勢暦とか御家宝暦とか称する非科学的事項を記入した雑暦もある。[渡辺敏夫]

日本における暦


 古代日本に暦があったかどうかは問題になるところであるが、今日では本居宣長(もとおりのりなが)が『真暦考』でいう「天地おのづからの暦」、いいかえれば自然現象に従う自然暦であったと考えられ、したがって確かな暦はなかったということである。『日本書紀』によると、欽明(きんめい)天皇14年(553)6月、「内臣(うちのおみ)を百済(くだら)に遣わし医・易・暦の博士を番によって相代って上下せしめ、また卜書(ぼくしょ)暦本種々の薬物を付送」するようにと詔(みことのり)され、翌年、暦博士固徳王保孫(おうほうそん)が来朝した。これが暦の伝来した初めであろうと考えられるが、まだ一般に暦が行われたのではない。602年(推古天皇10)に百済の僧観勒(かんろく)が暦本を献じた。このとき陽胡史祖玉陳(やこのふひとのおやたまふる)が暦法を学んだとあるが、どのような暦法であったかはわかっていない。
 正史に初めて暦が公に採用され施行されたのは690年(持統天皇4)のことで、同年11月初めて勅して元嘉(げんか)、儀鳳(ぎほう)の2暦(いずれも大陸移入の中国暦)を行うとある。しかし、一つの朝廷で2暦が並び行われたということには問題があり、江戸時代の中根元圭(げんけい)は、692年(持統天皇6)から元嘉暦を、697年(文武天皇1)から儀鳳暦を用いたとしている。続いて763年(天平宝字7)8月、儀鳳暦を廃して大衍(たいえん)暦を用いた(『続日本紀(しょくにほんぎ)』)。780年(宝亀11)遣唐使録事羽栗臣翼(はくりのおみたすく)が『五紀(ごき)暦』を持ち帰り、781年(天応1)からこれにより暦をつくるよう勅命があったが、習学する者がなく、大衍暦を続行、『三代実録』は大衍暦を用いて100年におよぶと伝えている。856年(斉衡3)大春日朝臣(あそん)真野麻呂は『五紀暦』により暦をつくることを上奏したが、翌年「大衍五紀両存して相兼ぬべし」と命ぜられた。859年(貞観1)『長慶宣明(せんみょう)暦経』が渤海(ぼっかい)から貢献されるに及んで、861年(貞観3)真野麻呂の申請で『宣明暦』を行うことになった。『宣明暦』は、渋川春海(はるみ)による『貞享(じょうきょう)暦』が採用されるまで823年間という長期にわたって用いられた暦法である。『宣明暦』は唐の善暦といわれる暦法であるが、いかに優れた暦でも800有余年も用いると季節も狂ってくる。たとえば、この暦法の1暦年の平均日数は365.2446日で、1太陽年より0.0024日ほど長いから、その誤差は2日にも達し、暦のうえの季節は実際よりも2日も遅れたのである。以上、日本は中国暦法をそのまま1000年にわたって用い、独自の法をもたなかった。
 暦が初めて用いられた時代にはまだ暦の制度はなかったが、文武(もんむ)天皇の大宝(たいほう)年間(701~704)中務(なかつかさ)省の管轄下に陰陽寮(おんようりょう)を置き、暦道、天文道はここでつかさどった。『令義解(りょうのぎげ)』によると、暦博士1人を置き、暦をつくると同時に、暦生10人を養成した。暦博士は『具注御暦(ぐちゅうぎょれき)』2巻(6月以前を上巻、7月以後を下巻)、そのほかあわせて166巻をつくり、11月1日、陰陽寮から中務省に申送すると、中務省は宮中に参り南殿においてこれを送進したもので、これを「御暦(ごりゃく)の奏」と称した。この儀式ののち、大臣は内外の諸司に暦を配布した。
 律令(りつりょう)制が敷かれたころは暦博士、天文博士はそれぞれ登用されたが、のち、吉備真備(きびのまきび)6世の孫に陰陽術に長じた賀茂忠行があり、子の保憲(やすのり)が陰陽頭に任じられたが、その子の光栄(みつよし)に暦道を、弟子の安倍晴明(あべのせいめい)に天文道を伝えてから、賀茂家は暦道を、安倍家は天文道を世襲することになって、江戸時代末まで続いた。『宣明暦』が2日に及ぶ狂いを生じながらいかんともすることができなかったのは、戦乱が相次ぎ、朝廷が衰微し、学識が衰退したことにあり、また大陸から新暦書を求めることもなかったことにもよるが、世襲となった暦家が家職に安んじ、秘して外に出さなかったため、司暦にその人を得られなかったことによるものと考えられる。
 徳川家康が天下を統一し、文教の興隆に力を注いだ結果、諸学は隆盛をきたし、暦学の研究者も続出するに至ったが、そのなかの一人に渋川春海があった。17世紀末になると、日月食が暦に記載されながら実際には不食であったり、その逆の場合もあって世人の注意をひくことになり、『宣明暦』の不正が取り上げられるようになった。春海もその一人で、自ら天体を観測し、中国・元の『授時(じゅじ)暦』に倣って新暦『大和(やまと)暦』を作成し、三度改暦を上奏していれられ、1684年(貞享1)10月29日『貞享暦』と名を賜り、翌年から施行された。ここにおいて初めて日本人の作成になる日本の地に適した暦が実施されることになった。しかし暦法そのものは中国流の太陰太陽暦法である。春海は改暦の功により幕府の天文職に任ぜられ、これより作暦の権は暦博士の手から幕府天文方の手に移り、暦家賀茂家は暦注を記入するだけとなった。
 徳川8代将軍吉宗(よしむね)は天文暦術に興味を抱き、江戸城中吹上御苑(ふきあげぎょえん)に観測器を備えて自ら観測するほどの熱意をもち、早くから西洋の天文学の流儀に従って改暦せんとの意図をもっていた。そこで当時、長崎にあって天文地理学に精通した西川如見(じょけん)の子正休(まさやす)が家学を継ぎ、江戸にきて、天文学を講じて糊口(ここう)をしのいでいるのを登用して天文方とし、正休は春海の後継者渋川六蔵則休(のりよし)とともに江戸・神田佐久間町に設けられた天文台で測量を実施、改暦の準備を整え、陰陽頭土御門(つちみかど)(安倍)泰邦(やすくに)に相談した。泰邦は、京において再三実測したうえでなければ定めがたい、ということで、正休らは上京、梅小路天文台で観測を進めた。しかし、この間に吉宗は死去し(1751)、泰邦との不仲から、正休は退けられ、泰邦の一存により、貞享暦法に用いた数をわずかに補正した『宝暦甲戌(こうじゅつ)元暦』が1755年(宝暦5)から施行された。このような暦法であったから、1763年9月1日、食分5分の日食があったにもかかわらず暦には記載がなく、問題を引き起こした。このこともあって幕府は、佐々木文次郎を登用して宝暦暦法を修正させ、1771年(明和8)から『修正宝暦甲戌元暦』を施行することになった。しかしこれも用数を少し改めただけで、吉宗の意図した西洋天文学によるものではなかった。
 このころ杵築(きつき)藩(大分県)を脱藩した麻田剛立(あさだごうりゅう)が、大坂で天文暦学者として名を高めていた。幕府は1795年(寛政7)、吉宗の遺志を継いで西洋流天文学により改暦を行うことを決め、麻田剛立を起用して行わせることとした。剛立は老齢を理由に高弟の高橋至時(よしとき)、間重富(はざましげとみ)の2人を推挙した。至時は天文方に任ぜられ、先任の山路徳風(よしつぐ)、吉田秀升(ひでのり)両天文方と京都で実測し、重富は江戸・浅草の暦局で天文方奥村邦俊と実測、改暦の準備も終わって1797年(寛政9)10月19日土御門泰栄(やすなが)から上奏して改暦宣下(せんげ)があり、翌年から『寛政(かんせい)暦』が行われた。寛政暦法は、中国から舶来した『暦象考成後編』を通じて間接的に西洋天文学を取り入れたもので、日、月の運行に関してはケプラーの楕円(だえん)軌道説を導入した。
 1803年(享和3)高橋至時はフランス人ラランドJoseph-Jrme Lefranois de Lalande(1732―1807)の天文書のオランダ語訳書を入手、その解読に全力を傾注し、『ラランデ暦書管見』11冊をわずか半年でつくったが、翌年41歳で没した。至時の長子景保(かげやす)は20歳の若さで父の後を継いで天文方に任ぜられたが、シーボルト事件で獄死した。弟の渋川景佑(かげすけ)が兄の後を受け継ぎ、1836年(天保7)『新巧暦書』40冊を完成させた。幕府は41年これによる改暦を天文方に命じた。景佑ら天文方は改暦準備を進め、翌年改暦宣下があって、44年から『天保壬寅(じんいん)元暦』が施行された。『天保暦』は日本における最後の優れた太陰太陽暦法であって、定朔定気(ていさくていき)法を取り入れたものである。
 幕末になると外国との交渉も頻繁となり、外交、通商上から太陽暦を必要とし、明治新政府が樹立されると、旧習を捨て、1日も早く文明開化を進めるためにも、太陽暦の施行は重要なこととなった。1872年(明治5)11月9日、改暦詔書が発せられ、太陽暦を採用、同年12月3日をもって明治6年1月1日とした。なんの前触れもなく突如12月という年末に改暦に踏み切った大きな理由は、明治6年は旧暦では閏(うるう)年になり13か月であるが、官吏の給与を月給制に切り替えたばかりの明治政府は、太陽暦採用により、1か月分の給与を浮かすことができ、また12月は2日で打ち切るため、このほうからも1か月分を節約できるという財政上の見地からであった。しかし、太陰太陽暦とはまったく異質の太陽暦への改暦は、予備知識をもたない一般民衆には迷惑きわまりないことであった。
 改暦詔書には4年に1回の閏年を置くとだけあって、ユリウス暦かグレゴリオ暦かの明示はされていなかった。明治33年は西暦1900年にあたりグレゴリオ暦では平年となるので、1898年(明治31)5月11日勅令をもってグレゴリオ暦の置閏法にすることが明示され、今日に至っている。日本では採用された太陽暦を新暦と称し、これに対して改暦前の『天保暦』を旧暦と称している。[渡辺敏夫]

日本の暦書


 日本の太陰太陽暦時代、初めて暦が用いられた当時の暦書は具注暦である。これは漢字で手写して、宮廷をはじめ、官庁、地方の国衙(こくが)に頒布した暦で、のちに出現する仮名(かな)暦に対して真名(まな)暦ともいう。具注暦の名称は、具(つぶさ)に日の吉凶、禍福、禁忌などの事項を注したことからおこったものである。このほかに、日月五星の毎日の位置を記載した七曜暦があったが、これは天体暦の一種である。またその正体は明らかでないが、70年に1回出される中星(ちゅうせい)暦とよばれるものがあり、これも一種の天体暦であった。
 仮名文字の普及とともに、具注暦を和語により平仮名で手写した仮名暦が頒行されるようになり、暦の需要も増えていったが、印刷術の発達に伴って各地に暦師が発生し、仮名暦が版行され、民間に暦が行き渡ることになった。版暦で現存する最古のものとしては1332年(元弘2)の暦がある。江戸時代以前には『大宮暦』『大坂暦』というような今日では幻の暦書もあったが、江戸時代に入って渋川春海の『貞享暦』の施行に伴い、各地の公認された暦師が版行した暦書には『京暦』『丹生(にゅう)暦』『伊勢(いせ)暦』『南都(奈良)暦』『泉州暦』『三島暦』『江戸暦』『会津(あいづ)暦』『薩摩(さつま)暦』などがあり、幕末には『仙台暦』『秋田暦』『盛岡暦』などがある。このうち泉州暦は中絶し、薩摩暦は他の暦と異なった独自の内容をもっていた。
 明治維新ののち、しばらくは土御門家で造暦し、旧幕時代の暦師を弘暦者と称して暦を版行させたが、その後、土御門家の手を離れ、変遷して、1883年(明治16)の暦からは伊勢神宮から出されることになった。88年東京帝国大学理学部に天文台が付設されると、暦の編纂は天文台が行い、伊勢神宮が刊行した。1900年(明治33)からは、伊勢神宮神部署が刊行する本暦と、これを抄略した略本暦が国の認めた公暦であった。第二次世界大戦後は編暦も天文台の手を離れ、伊勢神宮で編纂、刊行されるようになった。
 伊勢神宮刊行の本暦は常用暦の基準となるべき暦であるが、このほかに、地方の神社その他から刊行される運勢暦などと称する民間暦や、常用暦を簡略した一枚刷の柱暦、その他多種の雑暦がおびただしく刊行されている。柱暦は柱や壁に張って見やすくした略暦である。江戸時代、ことに明和(めいわ)~天明(てんめい)時代(1764~89)に流行した『大小』または『大小暦』とよばれたものや、文字のかわりに絵をもって暦日を判読する『盲(めくら)暦』や『判じ絵暦』のような民俗学的に興味ある暦もある。[渡辺敏夫]

自然暦と農漁業


 暦の知識が普及する以前には、月日の経過を自然の運行によって知った。月の満ち欠け、草木の開花、候鳥の渡来、山の雪などによって季節を知る、いわゆる自然暦が行われた。今日においても農業や漁業などでは、これが仕事の計画を進めるうえの重要な知識となっている。自然暦の知識は、庶民の長年の経験に基づいたもので、伝承的に継承されてきた。そのなかには全国一様に通ずるものと地方的なものとがある。
 農業では、稲作にとってまず最初にたいせつなことは苗代種播(ま)きの時期を知ることである。東北地方では、コブシの花を種播桜(たねまきざくら)といっている所が多い。この花の咲く時分が種播きの好期であるからである。秋田県山本郡などでは、種播桜というのはヤマザクラの一種で、コブシの花は田打桜(たうちざくら)とよんでいた。佐渡(さど)では、コブシの花が咲くと畑豆(ダイズ)を播かねばならぬといい、また漁業では、この花が咲くとイワシがとれるという。島根県鹿足(かのあし)郡では、コブシが咲くと籾(もみ)播きをし、散ると田植を始めなければならないという。ムギについては、関東・中部でセキレイのことを麦蒔鳥(むぎまきどり)とよび、隠岐(おき)島では麦蒔雁(かり)の語がある。いずれもこれらの鳥の現れることがムギ播きの時を表しているという。
 春先に山の雪が消え残った形、あるいは雪が消えて土が黒く出た形によって農作の開始期を知ることが各地で行われている。信州(長野県)の白馬(しろうま)岳は、頂上の雪が消えて代馬(しろうま)の形となったとき田の代掻(しろか)きを始めることからの名称という。静岡県大井川上流地方や山梨県北西部では、農鳥(のうとり)岳の雪が消えて鳥の形だけ残って見えるとき代掻きを始める。宮城県栗駒(くりこま)山に雪が坊主の形に残っているのを種蒔坊主(たねまきぼうず)といって籾播きの時期としている。岩手県と秋田県との境にある駒形(こまがた)山についても、山の八合目あたりに白馬の形が現れるのを種播きの時としている。
 海の生活にもまた自然暦が行われている。伊豆(いず)では麦烏賊(むぎいか)といって、ムギの熟するときイカがとれる。秋田地方では、ハタハタ雷(かみなり)といって10月下旬から11月上旬にかけて遠雷のするときハタハタがとれるので、漁師は雷鳴を聞いて出漁する。島根県簸川(ひかわ)郡では麦藁鯛(むぎわらだい)といって、麦藁のとれるときはタイ漁があるという。
 星も自然暦の一つとなっている。静岡県下では「すばるまん時粉八合」といって、すばる星が中天に達したときソバを播けば、1升(1.8リットル)の実から8合(1.44リットル)の粉がとれるという。以上のように、自然暦は暦と違って、年々の気候の変化に適合しているので、農業や漁業にはいまでも生産計画の目安として利用されている。[大藤時彦]
『渡辺敏夫著『日本の暦』(1976・雄山閣出版) ▽渡辺敏夫著『暦のすべて』(1980・雄山閣出版)』

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世界大百科事典内のの言及

【年鑑】より

…社会全般または特定分野の1年間のできごとを記録,解説した年刊形式の便覧で,将来の研究調査の便に資することを目的とする。政府機関や学会では〈年報〉ということもある。年鑑の起源はイギリスやスカンジナビア諸国で中世まで用いられた原始的な棒暦clog almanacである。これは短冊形の木片に日月星辰の運行を記したものであった。航海者には,航海暦nautical almanacが必須のものであった。イヤーブックという書名が最初に用いられたのはイギリスの《法律年鑑The English Legal Year Books》で,1292‐1534年までの判例を収録している。…

【御暦の奏】より

…〈ごれきのそう〉〈こよみのそう〉ともいった。毎年11月1日に,陰陽(おんみよう)寮が作成した明年の暦を中務省に送り,中務省はこれを太政官を経ずに直接天皇に奏進する儀。南殿庭上において行ったため,庭立(にわたち)の儀ともいうが,降雨や天皇が出席しないときは,内侍に付して奏進した。…

【チベット族】より

… 占いや降神術は盛んで,国政の大事を決めるのにネーチュンやサムイェーの護法神の神託が重んじられ,答を書いた紙片を複数のツァンパ団子にこめ,護法神の前で碗の中に回転させ,飛び出したものを答えとするタクディルもよく行われた。暦は各流とも時輪タントラに由来し,1027年を第1回の火のと(丁)卯として60年で一巡させ,32.5ヵ月に1度閏月を置いた。夜明けの月齢によってその日の名とする月齢日(ツェシャク)が行われ,同一日が重なったり,ある1日が欠けたりする特徴があった。…

【天皇】より

…家康が法度を作って,天皇をはじめ公家の権限,行動を強く規制しても,朝廷がこれになんら抵抗できなかったのも当然である。天皇にわずかに残された権能である官位授与権,元号制定権,暦制定権すら,形式的・名目的な範囲を出なかったし,朝廷内部の公卿,廷臣らの支配さえ,幕府の干渉をまぬがれることができなかった。しかし泰平がうち続き,文運が興隆するなかで,学者の間に,天皇の立場の過去と現在を調和させる試みとして,武家は天皇から政権を委譲されたものとする大政委任説があらわれた。…

【丙午】より

…丙午を迷信として排除する常識も一方には存在するが,なお丙午の年には婚姻を避けたり,丙午の年の生れの女性の縁談を気にする風潮が現代社会にも伝承されている。 日の吉凶を含め,暦注の中でとくに凶にかかわる俗信が民俗知識として発達したが,いずれも都市を中心としている。都市生活の中に生じている災害の原因や,日常生活の不安に対する理由づけを,暦の知識に求めようとする思考によっており,合理的に説明できる根拠はまったくない。…

【暦道】より

…日本古代・中世の暦学。天皇の命令によって暦を作ること,またその技術。…

【暦】より

…1日を単位として長い時間を年,月,日によって数える体系。その体系を構成する暦法,またはそれを記載した暦表,暦書をいうこともある。光陰は百代の過客にしてと李白の詩にもあるように,時間は無限の過去から無限の将来へと連続して流れていく。…

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