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オイレンブルク オイレンブルクEulenburg, Botho, Graf zu

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

オイレンブルク
オイレンブルク
Eulenburg, Botho, Graf zu

[生]1831.7.31. バルテンシュタイン近郊
[没]1912.11.5. ベルリン
ドイツの政治家。プロシアの古いユンカーの家門の出。 1878年プロシア内相として社会主義者鎮圧法の制定に尽力。 92~94年 L.カプリビの後任としてプロシア首相となった。

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オイレンブルク
オイレンブルク
Eulenburg, Friedrich Albrecht, Graf zu

[生]1815.6.29. ケーニヒスベルク
[没]1881.2.4. シェーネベルク
プロシアの政治家。遣日使節。ナポレオン解放戦争の功により鉄十字勲章をプロシア王から受けたフリードリヒ・レオポルト伯の子。ケーニヒスベルクとベルリンで法律学,政治学を学び,1835年司法官となり,各地に在勤,44年行政官となり,48年大蔵省,49年内務省につとめ,52年以降外交官に転じ,アントウェルペン総領事となり,59年ワルシャワ総領事に任命されたが,任地におもむく前に東アジア遠征隊の全権公使に起用された。

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オイレンブルク
オイレンブルク
Eulenburg (und Hertefeld), Philipp, Fürst zu

[生]1847.2.12. ケーニヒスベルク
[没]1921.9.17. リーベンベルク
ドイツの外交官。 1877年より外交畑に入り,94~1902年ウィーン駐在大使。また 1886年より皇帝ウィルヘルム2世の側近として,その気まぐれな対外政策をしばしばいさめた。友人 B.ビューローの帝国宰相就任にも力があったが,芸術家肌で真の政治家ではなく,1902年以後は引退。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

オイレンブルク Eulenburg, Friedrich(Fritz)Albert, Graf zu

1815-1881 ドイツの外交官。
1815年6月29日生まれ。万延元年(1860)プロイセンの東アジア遠征隊公使として来日し,日本との通商条約を締結した。帰国後,ビスマルク内閣の内相となる。1881年6月2日死去。65歳。著作に「日本遠征記」。

出典|講談社
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朝日日本歴史人物事典の解説

オイレンブルク

没年:1881.6.2(1881.6.2)
生年:1815.6.29
幕末に来日したプロイセン(ドイツ)の外交官,政治家。東プロイセンの名家の出。法律学,政治学を学び,1835年末より公職に就く。大蔵省,内務省を経て外務省へ移り,アントワープ総領事,ワルシャワ総領事を経て,1859年通商条約締結を目的とする東アジア遠征艦隊派遣計画の全権使節に起用された。万延1(1860)年7月19日品川に来航。和宮降嫁実現を目指す幕府は締約交渉の先送りを図るものの,アメリカ公使ハリスの斡旋で開港開市予定地は一切記載しないことで折り合いが付き,12月14日日本プロイセン修好通商条約を調印。締約国として関税同盟加盟各国およびハンザ都市などをも入れることは日本側の強い抵抗で断念。1861年9月清,翌年2月シャムとも条約締結。帰国後1862年12月ビスマルク内閣の内相に抜擢され,ドイツ統一の完成期15年間その職務を遂行した。<参考文献>『オイレンブルク日本遠征記』上下(新異国叢書12・13巻)

(廣瀬靖子)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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