改訂新版 世界大百科事典 「オーストリア社会民主党」の意味・わかりやすい解説
オーストリア社会民主党 (オーストリアしゃかいみんしゅとう)
オーストリアの政党。正称は,オーストリア社会民主労働党Sozialdemokratische Arbeiterpartei Österreichs。1888年12月30日から翌年1月1日にかけてハインフェルトの党大会で創立された。この党大会でV.アードラーは,急進的社会主義的グループと穏健的グループとを統一した。党大会で決定されたハインフェルト綱領は,労働者を経済的従属,政治的無権利状態から解放すること,労働手段の社会化,労働者保護立法の制定,8時間労働制の実施,選挙法の改革などを要求していた(創立時の党員数1万5000)。同年,党中央機関紙《アルバイター・ツァイトゥング》発行(1889-1936)。97年の選挙ではじめて帝国議会に選出された(議席数14)。オーストリア・ハンガリー二重帝国内の民族問題を〈民主的民族連邦国家〉の設立(1899年のブリュン民族綱領)によって解決しようとしたが,民族間の対立,紛争は根深く,1911年,チェコ社会民主党がオーストリア社会民主党を脱退。1905年のロシア革命の影響と選挙法改革闘争によって成立した07年の普通平等直接選挙によって,党は87議席を有する強大な政党に成長した。同年,党中央機関誌《闘争Der Kampf》発行(1907-38)。
第1次世界大戦が勃発すると大戦前の党内の非戦論は後退し,社会民主党指導部は帝国支配層の帝国主義戦争を〈祖国防衛戦争〉の名のもとに支持した。大戦中の戦時絶対主義下における労働者の無権利状態,食糧危機,国民の平和への願望などを反映して,大戦末期には党内の社会愛国的潮流は後退し,左派勢力が台頭した。17年10月のロシア革命の勃発,平和を要求する労働者の1918年の1月ストライキ,帝国の軍事的敗北により,18年秋,ハプスブルク帝国は崩壊の危機に直面していた。18年10月帝国崩壊後,社会民主党はオーストリア共和国(正称はドイツ・オーストリア国)の創立に指導的な役割を果たした。19年2月の選挙で社会民主党は,全投票数の40.8%(69議席)を獲得し,K.レンナー首相のもとでキリスト教社会党と連合政権を樹立したが両党の対立は激化し,20年の選挙後,社会民主党は連合政権から脱退した(1919年の党員数33万2000)。
この時期,社会民主党は党の牙城である〈ウィーン市〉の行政・社会政策に積極的に取り組むとともに,23年には民兵組織である〈防衛同盟〉を組織した。オーストリア・マルクス主義の模範的綱領と呼ばれる26年のリンツ綱領は,民主主義を階級闘争の基盤とし,民主主義の手段によってブルジョアジーの階級支配を粉砕すると規定するとともに,ブルジョアジーが反革命によって民主主義を破壊しようとした場合,労働者階級は国内戦により国家権力を掌握することを確認した綱領であった。しかし,多数の死傷者を出した27年7月の労働者のデモと警官の衝突事件は,国家権力の側からの社会民主党と労働者大衆に対する公然たる弾圧であり,社会民主党は後退を余儀なくされるにいたった。
30年代におけるナチスの台頭のなかでおきた34年2月の社会民主党と〈防衛同盟〉による武装蜂起,すなわち支配階級に支持された反動的右翼的〈護国軍〉の挑発・攻撃に対する社会民主主義者の蜂起,市街戦は失敗し,社会民主党は禁止され,幹部は逮捕された。党指導部の一部は国外に亡命し,〈革命的社会主義者〉グループを組織,《アルバイター・ツァイトゥング》《闘争》を地下出版し,非合法活動に従事した。45年5月,ヒトラー・ドイツ崩壊の後,〈革命的社会主義者〉と社会民主主義者は統一し,レンナーを中心に現在の〈オーストリア社会党Sozialistische ParteiÖsterreichs〉を結成した。
執筆者:酒井 晨史
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報