アメリカの化学者。ナイロンの発明者として有名。アイオワ州バーリントンに生まれる。商業高校教員を父にもち、薄給による貧しい生活をしつつ苦労しながらターキオ大学とイリノイ大学を卒業した。両大学を選んだのも学費のための収入を保証されたことが条件であった。イリノイ大学では接触還元の研究で1924年に学位をとり、同大学で講師の口を得、のちにハーバード大学の講師となった。1928年、デュポン社が基礎研究部門を拡充するにあたり、請われてその部長の職についた。そのとき32歳であった。以降10年近くの研究が発展をみせ、企業がその恩恵によって躍進を遂げている最中に、その職についたまま41歳で自ら命を絶った。それは企業活動の荒々しさを示す一つのしるしであったし、また、科学者が研究に自主性を貫くことを許さない、企業というものの性格について、見通しの甘かったことからおこった不幸な例でもあった。
科学思想の面では、ラングミュアやルイスの電子理論を有機化学の分野に応用する、というはっきりとした目的意識をもっていた。このことが、彼の研究を、新しい領域であるにもかかわらず成功に導いた要因であった。デュポン社の基礎研究所には高分子化合物の合成というテーマをもって就職した。そこで初めに成功した合成物質がクロロプレンゴム(1929)である。当時合成ゴムは、軍需物資としての緊急性があるとして強く求められており、天然ゴムのイソプレン、イー・ゲー・ファルベン社のブタジエンを手本に構造が設計された。完成した合成ゴムはデュプレンと名づけられた。次の成功はポリアミドの合成(1934)である。設計はエステル類をモデルにし、酸とアルコールの縮合に目標が置かれた。さらに数多くの原料物質が試みられ、多くの重合研究が繰り返された結果、アジピン酸とヘキサメチレンジアミンから目的物が得られた。それがナイロンである。
[川又淳司]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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