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クシャン朝 クシャンちょうKushan Dynasty

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

クシャン朝
クシャンちょう
Kushan Dynasty

古代,アフガニスタン,中央アジア,インド北西部を支配したクシャン族の王朝。大月氏 (→月氏 ) 支配下のバクトリアのクシャン (貴霜) 侯クジューラ・カドフィセースが1世紀に大月氏を倒して創始。彼はパルティアに侵入し,ヒンドゥークシ山脈を越えてガンダーラに進出した。その子ウィマ・カドフィセースはインド内部まで領土を広げ,王朝繁栄の基礎を築いたが,この2代を第1クシャン朝という。中心地はバクトリア。2世紀なかばカニシカ王 (第2クシャン朝創始者) の時代,首都はガンダーラのプルシャプラ (現ペシャワル) におかれ,版図は東西トルキスタンからガンジス川中流域に及んだが,3世紀なかばイランのササン朝シャプール1世により征服され,5世紀後半新興のエフタル族に滅ぼされた。領土が当時の四大文明圏 (インド,中国,パルティア,ローマ帝国) を結ぶ要地にあたり,東西の経済,文化交流に大きな役割を果した。文化面ではガンダーラ美術の発生と仏教の興隆が目立つ。

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デジタル大辞泉の解説

クシャン‐ちょう〔‐テウ〕【クシャン朝】

Kushan》前1世紀後半、大月氏諸侯の一つ、イラン系のクシャン族が現在のアフガニスタンを中心に建てた王朝。カニシカ王のころが最盛期で、トルキスタンから北および西インドまでを支配した。3世紀以降ササン朝ペルシアに服属し、6世紀に至りエフタルに滅ぼされた。貴霜(きそう)。クシャーナ朝

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大辞林 第三版の解説

クシャンちょう【クシャン朝】

中央アジアから北西インドにかけて支配したイラン系王朝。紀元前一世紀頃バクトリアの王侯の一人が大月氏の支配から独立して成立。二世紀カニシカ王の時全盛期となり、大乗仏教・ガンダーラ美術が栄えた。クシャナ朝。中国文献には貴霜きそう朝と記される。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

クシャン朝
くしゃんちょう

古代、中央アジア、インドの王朝。中国文献では貴霜(きそう)と記されている。クシャンKushan民族はイラン系民族で、バクトリアで半農半牧の生活をしていた。1世紀前半、その族長(ヤブグ)のクジュラ・カドフィセス(丘就郤(きゅうしゅうげき))がバクトリアの支配権を握り、ついでヒンドゥー・クシ山脈を越えてアフガニスタンを征服した。その子ビーマ・カドフィセス(閻膏珍(えんこうちん))のときには、ガンダーラ地方から北インドのマトゥラまで勢力を拡大した。ややしばらくして、130年ごろカニシカ1世が現れて、中央アジアから北インドにかけての大国家を建設し、それからフビシカの治世まで約70年間、この王朝の最盛期を迎えた。この領土には、イラン、インド、ギリシアといった諸民族が居住しており、またそこは東西貿易の要衝にあたっていたため、この帝国はコスモポリタン(国際国家)的な性格をもち、商業国家として隆盛を極め、その統治下で東西文明が融合して、仏像などの特色ある文化を生んだ。仏教が中央アジアと中国に伝わったのはこの時期である。だが、カニシカ1世のときから、王朝の勢力の中心はしだいに西北インドに移り、インド文化に同化するようになった。3世紀になると、イランのササン朝ペルシアによって中央アジアの領土を奪われて、この王朝は衰え、やがてグプタ朝によって残存勢力も滅ぼされた。[山崎利男]
『山崎利男著「クシャーン朝とグプタ帝国」(『岩波講座 世界歴史3』所収・1970・岩波書店)』

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