クック(読み)くっく(英語表記)James Cook

日本大百科全書(ニッポニカ) 「クック」の意味・わかりやすい解説

クック(Sam Cooke)
くっく
Sam Cooke
(1931―1964)

アメリカのゴスペルソウル・ミュージックシンガー。アメリカの黒人音楽史において、欠かすことのできない重要なボーカリストである。ミシシッピ州北東のクラークスデールの牧師の家に生まれ、幼いころからゴスペル合唱団の一員として歌いはじめる。クックの名が知られるようになったのは、ゴスペル・カルテットの名門グループ、ハイウェイQCズに加わり全米の黒人教会などで公演するようになってからである。その後QCズを脱退し、1950年にソウル・スターラーズに加わったことにより、クックの人気は黒人コミュニティで絶大なものになっていった。

 アメリカにおける黒人音楽は、ブルースやジャズなどの世俗的な音楽と、キリストの教えにもとづいた宗教音楽(ゴスペル・ミュージック)とに大きく二分される。一般のヒット・チャートにあまり登場しないゴスペルだが、全米各地で強固な人気を獲得してきた。ゴスペルの第二次世界大戦後における際立った特徴は、ゴスペル・カルテットというコーラス・グループを成熟させたことだった。このカルテットによるドラマチックなハーモニーは、50年代のドゥーワップ・グループやソウル・ミュージックのコーラス・グループだけでなく、日本の黒人音楽系コーラス・グループに至るまで無数の追従者を生むことになった。クックはその頂点に立つシンガーの一人である。

 ハイウェイQCズやスターラーズのリード・ボーカリストとして壇上に上ったクックは、その甘いマスクだけでなく、上品でメロディアスボーカルを聴かせたかと思えば、一転、激烈なシャウトで声を荒げるといった絶妙の歌唱力で聴衆を圧倒した。そして、クックのこのような歌い方は、第二次世界大戦後の黒人音楽における新しいボーカル・スタイルの雛型となり、その後のソウル・ミュージックに大きな影響を与えるのである。ゴスペル時代の代表曲としては「ニアラー・トゥ・ジー」「タッチ・ザ・ヘム・オブ・ヒズ・ガーメント」などがある。

 56年、デール・クックDale Cookeという名で、初めて世俗的な歌「ラバブル」を発売する。名前を変えたのは、それまでのファンの拒絶反応を恐れたからで、事実、翌57年に自作の「ユー・センド・ミー」を自分の名で発売し200万枚という大ヒットになったときも、クックを金に目がくらんだ堕落した歌手として批判する人たちもたくさんいたのである(ゴスペル界からポップ・ミュージックの世界へ身を投じる黒人歌手はたくさんいるが、そのほとんどがある種の「後ろめたさ」を感じているといわれる)。

 しかしクックは、その後も「ワンダフル・ワールド」「チェイン・ギャング」「ブリング・イット・オン・ホーム・トゥ・ミー」といった白人層にも広く受け入れられるヒット曲を量産していった。注目すべきは、こういったヒット・シンガーとしての活躍と並行しながら、SARという音楽制作会社、音楽レーベルを設立したことだった。この行動は60年代前半という公民権運動の渦中にあって、黒人は雇われるだけではないという主張を、歌手として具現化した重要な一歩として評価されており、実際にSARからはジョニー・テーラーJohnnie Taylor(1938―2000)や、ボビー・ウーマックが在籍したバレンティノスなど、優れたソウル・ミュージック・シンガーやグループが巣立っていった。

 ナット・キング・コールと同じように人種の壁を超え、大きな人気を得たクックだったが、64年12月11日、宿泊していたロサンゼルスモーテルの女性マネージャーによって撃ち殺される(この事件に関しては未だに不明の点が多い)。亡くなった直後に発売された「シェイク」と「ア・チェンジ・イズ・ゴナ・カム」も大ヒット。時代はクックら先人たちに影響されて歌い出した黒人歌手によるソウル・ミュージックが全盛を迎えようとしていた。

[藤田 正]


クック(James Cook)
くっく
James Cook
(1728―1779)

イギリス海軍軍人、探検航海者。キャプテン・クックとして知られる。ヨークシャーの小作人の子に生まれる。水夫生活ののち、1755年海軍に入った。七年戦争中、カナダで敵フランス軍の面前で危険な水深測量を敢行し、上官に認められた。その後、測量術のほか、天文学、幾何学などを学び、68年学士院により金星の太陽面通過観測のための調査隊員に選ばれ、エンデバー号艦長として調査隊を率いてタヒチ島に赴き、観測を成功させた(1769)。さらにニュージーランド、オーストラリア東岸、ニューギニア南東岸などを探検し、西回りに世界を周航して、71年帰国。翌年、レゾリューション号とアドベンチャー号を率いて第2回周航に出帆、南航して南極圏に達し、当時一部に信じられていた南方の「未知の大陸」テラ・アウストラリス・インコグニタTerra Australis Incognitaが実在しないことを立証した。そのあとニュー・カレドニア、ソロモン諸島など、太平洋の多くの島を訪れ、東回りに周航して、75年帰国。76年レゾリューション号とディスカバリー号を率いて三たび出航、ニュージーランドから北上してサンドイッチ諸島(ハワイ諸島)に至り、さらに北上を続けて北アメリカ西岸からベーリング海峡の北に達した。のちサンドイッチ諸島に引き返したが、同地で住民に襲われ、79年2月14日非業の死を遂げた。彼は優れた船乗りであっただけでなく、ニュージーランドやオーストラリア東岸などの精密な地図を作成し、また長年船員の職業病とされてきた壊血病の予防に成功するなど、優れた科学者でもあった。

[松村 赳]

『クック著、荒正人訳『太平洋航海記』(1971・社会思想社・現代教養文庫)』『アリステア・マクリーン著、越智道雄訳『キャプテン・クックの航海』(1982・早川書房)』


クック(Sir William Fothergill Cooke)
くっく
Sir William Fothergill Cooke
(1806―1879)

イギリスの電気技術者。ダーラム、エジンバラ両大学を経て、軍に入隊しインドに赴任。除隊後パリ、ハイデルベルク大学で医学を学んだ。シリングPaul von Canstadt Schilling(1786―1837)の電信機や物理学者ミュンケGeorg Wilhelm Muncke(1772―1847)に触発され電信を研究し始めた。1837年3針電信機を完成、続いてホイートストンと共同で4針電信機、5針電信機を製作、特許を得て試験電信線をユーストン―キャムデン間に設置した。翌1838年イギリス初の電信線をパディントン―ウェスト・ドレイトン間に2針電信機で建設、1845年単針電信機を発明した。技術協会アルバート金賞を受賞。

[木本忠昭]


クック(Thomas Cook)
くっく
Thomas Cook
(1808―1892)

近代的な意味での旅行業を創始したイギリスの旅行代理業者。ダービーシャーのメルボーン生まれ。若いころバプティスト教会の伝道師として、工場労働者の飲酒の弊害を痛感し、禁酒運動に努めたが、禁酒大会の集まりをよくするため、当時はまだ珍しく高価でもあった鉄道に目をつけ、列車を借り切って割安で乗れるようにし、大好評を博した。史上初の公募団体列車は、1841年に開催された禁酒大会のため、レスター―ラフバラ間で運行された。これがきっかけとなって一般の団体旅行も扱うようになり、55年のパリ万国博覧会のときからはヨーロッパ大陸その他への団体旅行も始め、大成功を収めた。またホテルや乗り物の予約代行など、今日の旅行では不可欠なさまざまな業務を創始した。会社名はトマス・クック・アンド・サンズ社で、73年には画期的な『ヨーロッパ鉄道時刻表』を発刊している。

[紅山雪夫]


クック(Sir Edward Coke)
くっく

コーク

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「クック」の意味・わかりやすい解説

クック
Cook, James

[生]1728.10.27. ヨークシャー,マートンインクリーブランド
[没]1779.2.14. ハワイ,ケアラケクア湾岸
イギリスの探検家。通称キャプテン・クック。貧しい家に生れ若年にして船乗りになる。 1755年海軍に入り,68年ロイヤル・ソサエティが企てた金星観測のための太平洋探検の際,『エンデバー・バーク』号の艦長となり第1回航海に出発。タヒチの北の群島をロイヤル・ソサエティにちなんでソシエテ諸島と命名。ニュージーランドに向ってクック海峡を見出し,イギリスのオーストラリア領有を宣言。インド洋を経て帰国 (1771) し,西回りの世界周航を成就。次いで 72年の第2回航海では南緯 71°10′まで南極圏を航海し,ニューカレドニア島ノーフォーク島など多数の島々を見出して帰国 (75) 。南極大陸について明らかにした功績により大佐に昇進し,ロイヤル・ソサエティからメダルを授けられた。 76年の第3回航海では,北アメリカ太平洋岸の探検を目的とし,クック諸島クリスマス島,サンドウィッチ (ハワイ) 諸島を見出し,ベーリング海峡から北極海に入り,北緯 70°44′まで達したが,帰途ハワイで先住民との紛争に巻込まれ,非業の最期をとげた。

クック
Coke, Sir Edward

[生]1552.2.1. マイルハム
[没]1634.9.3. ストークポージェンス
イギリスの法律家。コークとも呼ばれる。法務長官,民訴裁判所や王座裁判所の首席裁判官を歴任。コモン・ローの解釈をめぐって,王権神授説に立ち解釈権を主張するジェームズ1世と対立し,法律家・司法権の独立を唱え続けた。 1621年下院議員になったが国事犯として9ヵ月間投獄され,以後,下院において国王反対派の指導者として活躍する。権利請願の起草者でもあり,彼の王権との闘争史はアメリカ合衆国憲法にも影響を与えた。王権との闘争の間にベーコンエルズミアらと激しく対立したことは有名である。

クック
Cooke, Jay

[生]1821.8.10. オハイオ,サンダスキ
[没]1905.2.18. ペンシルバニア,オゴンツ
アメリカの金融業者。南北戦争の際北軍の戦費調達に活躍。 1861年フィラデルフィアに銀行を開業,ペンシルバニア州のために 300万ドルの戦時ローンを発行。 62年連邦財務省の特別代理人として5億ドルの債券の売却に従事し,65年には8億 3000万ドルの銀行券を売払った。戦後 70年にはノーザン・パシフィック鉄道建設に融資を企てたが,73年の金融恐慌の襲来により失敗。 80年までに借財を返済し再び財産を築いた。

クック
Cooke, Rose

[生]1827
[没]1892
アメリカの女流作家,詩人。旧姓 Terry。ニューイングランドの田園生活を扱った地方色豊かな作品が多い。短編集に『幸福なドッド』 Happy Dodd (1878) ,『ニューイングランドの山で集めたハックルベリー』 Huckleberries Gathered from New England Hills (91) 。

クック
Cook, Donald

[生]1901
[没]1961
アメリカの俳優。ボードビルを経て,洗練された喜劇俳優として活躍。代表作『パリ行き』 Paris Bound (1927) など。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

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