改訂新版 世界大百科事典 「クメール美術」の意味・わかりやすい解説
クメール美術 (クメールびじゅつ)
クメール族による美術をさし,ほとんどが石彫で,青銅製の作品も残っている。クメール美術が散在する地理的な範囲はきわめて広く,現在のカンボジアのほか,タイ北東部,ラオス南部,ベトナム南部にまで及んでいる。〈クメール・プラサート〉(クメール遺跡の意)と称する石造寺院建築とともに,古くから高い芸術性が注目されてきた。石彫は先の遺構にともなって発見されており,傑作の大半は,おもにプノンペン国立博物館で見ることができる。クメール族は長い歴史を通じてヒンドゥー教(特にシバ派)と仏教を信仰したため,美術はその両者に奉仕した尊像ばかりである。量的にはヒンドゥー教の神像が多く,12世紀後半より13世紀初めころになって,仏像が多量に現れる。クメール美術は一般に政治史と関係づけて,〈先アンコール期〉(5~8世紀)と〈アンコール期〉(9~15世紀)の二つの時代に区分される。前者は中国史料が伝える扶南(ふなん)国,真臘(しんろう)国の時代にあたり,後者はアンコール(今日のシエムリアップ市の北)を首都としたアンコール朝の時代をさす。先アンコール期の美術はインド美術の模倣期,インド化の時代であり,アンコール期の初期はきわめてジャワ的性格が濃く,後期に至ってまったくクメール独自の作品を生み出したといえる。しかしその根底に流れるものは,いかに海外からの影響を受けていてもクメール美術に一貫したものを感じさせる。それは常にクメール族の体形を写して,神や仏を表現したからであろう。特に肩のはりに一種独特なものを感じさせ,このクメール的性格は時代が新しくなるほど濃くなってくる。
先アンコール期
作品は数が少ないが,きわめて格調高い石彫が残っており,いかにもインド的で,写実性に富んでいる。古いところからあげると,南カンボジアのワット・ロムロック出の仏頭は南インドのアマラーバティー様式の仏像と類似し,おそらくインドから持ち込まれた扶南国時代のものであろう。当時の都アンコール・ボレイに近い聖山プノム・ダから発見されたさまざまなビシュヌ神は,6世紀初めころの作品でインド美術を基調としている。真臘国の時代に入って第1に注目すべき作品としては,7世紀作のハリハラ神像があげられる。これはコンポン・トムのプラサート・アンデット出の砂岩製の石像で,全体の肉付けが実にみごとにまとめられている。クメール美術の最高傑作の一つといえる。
アンコール期
802年より始まるアンコール朝になると,その初期は特に浮彫と建築構造にジャワ的な性格がみられる。例えば,王朝の最初の都ハリハラーラヤ(ロルオス)に残る遺跡と美術がその例である。彫像は9世紀初めより10世紀中ごろまで,直立した動きのない神像が造られた。そのつくりは時代とともに胴がしだいに太くなっていく。この胴が太った重たいつくりからの解放によって,新しい芸術活動が誕生する。すなわち967年に建立されたバンテアイ・スレイ寺(アンコール・トムの北東21km)の石彫がそれである。ここの神像は先アンコール期への復古をはかった作品で,クメール美術に再び新鮮さを呼びもどした。その後12世紀に有名なアンコール・ワットが建てられ,クメール美術独自の魅力を十二分にその回廊浮彫に残した。12世紀後期より13世紀初めころにかけては,蛇の上に乗った仏陀像が多く出現する。これと同時期,密教系の仏像が大量生産的に造られ,作品はいわば下半身が短い,重たい作品になっていく。この時代の王ジャヤバルマン7世以降,アンコール朝は,西側のタイ族のアユタヤ朝の侵略を受けて国力は低下し,それとともにクメール美術も衰退の一途をたどることになる。そして15世紀のアンコール朝崩壊以後,クメール美術はタイ美術の模倣期に入る。
執筆者:伊東 照司
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報