アンコールワット(読み)あんこーるわっと(英語表記)Angkor Vat

デジタル大辞泉 「アンコールワット」の意味・読み・例文・類語

アンコール‐ワット(Angkor Wat)

《「寺院町」の意》カンボジア北部、アンコールにある石造寺院遺跡。12世紀初め、クメール王朝スールヤバルマン2世の治下に建立。南北1300メートル、東西1500メートルの環濠かんごうに囲まれ、三重の回廊の中心に祠堂が建つ。ヒンズー教の神々やマハーバーラタラーマーヤナなどの古代インドの叙事詩を描いた精緻な浮き彫りが残っている。1992年、アンコールの他の遺跡とともに世界遺産文化遺産)に登録された。

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精選版 日本国語大辞典 「アンコールワット」の意味・読み・例文・類語

アンコール‐ワット

  1. ( Angkor Wat 「寺院町」の意 ) カンボジア北部にある石造寺院遺跡。アンコール王朝の最盛期一二世紀前半の建立。戦国時代から江戸初期の日本では祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)と同一視した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「アンコールワット」の意味・わかりやすい解説

アンコール・ワット
あんこーるわっと
Angkor Vat

古代カンボジア王国(別名アンコール朝。9世紀~1432)の王都に付属した寺院。カンボジア北西部、シェムリアップ市近郊にある。アンコール・ワットとはクメール語で「寺院(によってつくられた)町」の意味。スールヤバルマン2世(生没年不詳。在位1113~1150年ごろ)治下、1113年ごろから約30年かかって建立された寺院である。寺院は、環濠(かんごう)が四周5.4キロメートル、濠(ほり)の幅190メートル、西参道540メートル、三重の回廊、本殿の中央祠堂(しどう)(高さ65メートル)を中心に5基の塔堂から成り立っている。寺院の規模が途方もなく大きいにもかかわらず、クメール建築の整然たる幾何学的平面展開と塔堂の立体的な配置がなされ、調和と円熟を示していて壮大な伽藍(がらん)である。西参道には石畳を敷き詰め、両側にナーガ(大蛇)の欄干が続き、参道を挟んで左右に経蔵、聖池がある。東参道は土塁のまま残され、南北の参道跡もある。寺院建立の思想的背景は、5基の塔堂が世界の中心山須弥山(しゅみせん)(メール山)を、周壁がヒマラヤの霊峰を模し、環濠は深く無限な大洋を象徴するというように、クメール的神の世界(宇宙観)を地上で具現したものである。

 この寺院の主神はビシュヌ神であるが、王とビシュヌ神の合体した特別な神像(ビシュヌ神王)が礼拝されていた。当時王は存命中から諡号(しごう)をもち、神の化身と考えられていたし、神の顕在と王の死後の墳墓として建立されたといわれる。墳墓寺院説は、第3回廊が葬送巡礼用と考えられること、中国人周達観の「魯般(ろはん)(アンコール・ワット)の墓」(『真臘風土記(しんろうふどき)』)の記載、参道の西向き(西方浄土)などから出ている。

 第1回廊(200メートル×180メートル)には、帯状内壁面に薄肉彫りの巧緻(こうち)な浮彫りが刻まれ、立体的な絵巻物を見るような観がある。題材は、主神ビシュヌとその化身クリシュナ、さらにラーマ王子、神と合体したスールヤバルマン2世などである。西正面から右回りで浮彫り画面を点描するならば、インドの叙事詩『マハーバーラタ』から取材した大戦争絵図(西面南側)、クリシュナが暴風雨から牧人と家畜を守る場面(南西隅塔)、スールヤバルマン2世の偉業をたたえた歴史物語回廊(南面西側)、天国と地獄の場面および死と裁判をつかさどる神琰魔(やま)天(南面東側)、天地創造に関する乳海攪拌(かくはん)の図(東面南側)、ガルダ(神鷲(わし))の肩に乗り敵を打ちのめしているビシュヌ神(東面北側)、クリシュナと怪物バーナの戦闘(北面東側)、『ラーマーヤナ』から採話したラーマ軍と悪魔ラーバナ軍との熾烈(しれつ)な争闘場面(西面北側)などが見どころである。

 これら回廊浮彫りには、構図、描出、図像などの点で精粗の差がみられるが、躍動的な描写と波打つ図像的な表現で、西面と南面の回廊が美術的に優れている。美術手法では、遠方のものを画面上部に重ねていく方法、および複数のものを二重、三重に描き立体感をみせていく技法など、未熟な技量も目につくが、数キロメートルに及ぶ回廊壁面を少しの空白も残さず彫り刻み、その制作意欲はすさまじく、美術手法の巧拙を乗り越え、壁面を手練と技巧により絶妙にまとめている。

 3層の盛り土の上に第1回廊が建てられ、さらに十字型中回廊(プリア・ポアン=千体仏)の階段を登り、第2回廊へ少しずつ高くなっていく。内庭を通り抜けると、眼前に急傾斜の大階段が迫り、高くそびえる5基の塔堂と第3回廊へと続く。設計者は、人間の目の錯覚と渇仰の気持ちを巧みに計算しながら、崇高な世界へ導こうとしている。

 アンコール・ワットの造営に至るまで、約10回の建築様式の変遷と展開があったが、建築技術の改良や習熟、経験が集積され、美術様式の発展とともにこの大伽藍の建立となった。この建物の壁面の空間を埋め尽くしたあでやかな容姿のデバター(女神)像、楣(まぐさ)、破風(はふ)などの秀逸な彫刻、列柱や方柱の表面に彫り込まれた精緻な装飾模様、円柱窓や砲弾形の塔堂など、独創的な造形と美術的天分を発現している。莫大(ばくだい)な石材(灰色砂岩)は、北東へ約40キロメートルのプノン・クレーン丘陵の石切場から切り出された。この寺院の建設には数十万人の村人や捕虜が駆り出され、数千人の石屋、石工、彫工、仏師、大経師などの技能集団が動員された。アンコール王都の遷都(1432)後、上座部(小乗)仏教の寺院となり、中央祠堂には5メートルの大きな仏像が安置され、現在まで存続している。

 朱印船貿易の時代に日本人がこの寺院に参詣している。墨書跡が十字型中回廊などに14か所発見され、年代は慶長(けいちょう)17年(1612)から寛永(かんえい)9年(1632)まである。参詣者の一人森本右近太夫一房(うこんだゆうかずふさ)(加藤清正の旧臣の子)は、父の菩提(ぼだい)を弔うため仏像4体を奉納したと書いてある。当時の日本人はこの寺院を「祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)」と考えていたらしく、その絵図面は現在水戸(みと)の彰考(しょうこう)館が所蔵し、アンコール・ワットの実測図とほぼ一致する。

 アンコール・ワットは、1908年からフランス極東学院により修復が始められたが、1971年から内戦のため中止となり、この内戦で回廊壁面などに銃弾が射ち込まれ、一部が損壊するなど荒廃した。1991年にカンボジア和平協定が調印され、1993年には総選挙、新生カンボジア王国が成立し内戦は終結した。その後、修復、調査研究が進められている。アンコール・ワットは、アンコール遺跡中の白眉(はくび)の寺院であり、最高傑作といわれている。なお、この寺院のあるアンコール遺跡群は1992年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。

石澤良昭

『石澤良昭監修『埋もれた文明―アンコール遺跡』(1981・日本テレビ)』『石澤良昭著『古代カンボジア史研究』(1982・国書刊行会)』『石澤良昭著『甦る文化遺産アンコール・ワット』(1992・日本テレビ)』『重枝豊著『アンコール・ワットの魅力』(1994・彰国社)』『内山澄夫撮影、写真集『アンコール・ワット物語』(1999・集英社)』『石澤良昭著『アンコール・ワット』(講談社現代新書)』


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改訂新版 世界大百科事典 「アンコールワット」の意味・わかりやすい解説

アンコール・ワット
Angkor Vat

カンボジアに栄えたアンコール朝(9~15世紀)の首都に建てられた,クメール族による代表的な建造物。シエムリアップ市の北約5kmにある。砂岩のブロックを積み上げて建てられた巨大な聖殿で,その全景のシルエットが美しいため,クメール建築の最高傑作としてたたえられている。12世紀前半にスールヤバルマン2世によって造営されたヒンドゥー教(ビシュヌ派)の霊廟寺院である。すなわちこの寺院はスールヤバルマン2世の死後,葬儀を行う所として建設され,王は死後の幸福を願って,ビシュヌ神に帰依している。この寺院の中央塔堂には,そのビシュヌ神を本尊とする石像がまつられてあったはずと思われるが,現在ではそれが消失してしまっている。王の死後,王の霊をまつる霊廟として,後世に残された。

 寺院は,一番外側が幅190mの水濠によって囲まれている。その南北の長さは1300m,東西は1500mある。その水濠の内側に沿って回廊が設けられ,入口のある西側から入って参道を東へ進むと,第一回廊(南北180m,東西200m)が現れる。さらにその内側に第二回廊(南北100m,東西115m)が設けられている。第二回廊の内側は,高い基壇からなるアンコール・ワットの中心部にあたり,その基壇上に第三回廊(1辺60mの正方形)がある。この第三回廊の内側中央に,ビシュヌ神像を安置していた中央塔堂(地上高65m)がそびえたつ。したがってこの中央塔堂を囲んで,方形の回廊が全体で四重ということになる。これらの回廊の特徴は,その入口,もしくは回廊の四隅に,中央塔堂と同じ形のクメール式塔堂(プラサートと呼ばれる五階層の塔堂)が建てられていることである。

 アンコール・ワット芸術の第1の重要性は,第一回廊の内壁に表された〈物語浮彫〉の存在である。これはクメール族が世界に誇りうる最も偉大な文化遺産といえる。この第一回廊は内側の壁面が閉ざされ,その大壁面が余白を残すことなく,薄肉の浮彫で彫りつくされている。この回廊は1周760mあり,巡礼者はそこに見る浮彫の絵巻物を通じて,人生の教訓を身につけていく。まず西面の南側は,古代インドの叙事詩《マハーバーラタ》からの場面で,カウラーバ軍とパーンダバ軍との戦いが示されている。南面の西側は,スールヤバルマン2世の功績をたたえる場面で,王の肖像と彼の軍隊の行進の姿で占められる。次に南面の東側はきわめて教訓的な場面で,ヤマ神(夜摩天)によって裁かれる人間の天国と地獄の世界がまざまざと表されている。壁面の上段には善行によって導かれる平和な人間世界が,またその下段には悪行によって地獄におち,裁きを受け,責苦にあう悲惨な人間たちの姿が見られる。この裁判官たるヤマ神は18本の手を持ち,牡牛に乗る姿で表されている。東面の南側は,この回廊浮彫のうち最もみごとな作品で,有名なヒンドゥー教神話の〈乳海攪拌〉の場面である。これはヒンドゥー教の天地創造神話で,ビシュヌ神の化身である亀クールマの背の上にマンダラ山を乗せ,その山に大蛇バースキをまきつけ,その蛇の胴体をデーバ(神)とアスラ(阿修羅)によって左右に引かせている。このようにして大洋がかき混ぜられ,ついに繁栄の女神でビシュヌ神の妻であるラクシュミーが誕生する。次に東面の北側には,ビシュヌ神とアスラとの戦いの図があり,中央に霊鳥ガルダに乗ったビシュヌ神が堂々と表されている。そして,北面の東側には,《マハーバーラタ》の付録《ハリ・バンシャ》物語からとった,ビシュヌ神の化身クリシュナと怪物バーナとの戦いの図がある。さらに北面の西側には,先の乳海攪拌によって得た不老不死の妙薬をめぐっての,ヒンドゥー教の神々とアスラとの戦いが表されている。そして西面の北側に至って,古代インドの叙事詩《ラーマーヤナ》からとった,その主人公ラーマ王子の率いる軍隊と悪魔ラーバナ軍との戦いの場面が展開する。王子を助けた猿ハヌマーンたちがダイナミックに描写されている。

 また,アンコール・ワットの回廊等の壁面には,高さ1m前後の女神が高浮彫で彫られている。彼女らは〈アプサラス(舞女)〉もしくは〈デーバ(女神)〉とみなされ,すなわち本尊に対する霊をなぐさめる供養女たちで,1700体以上数えられている。さらに,聖殿内にはかつて1632年(寛永9)にここを訪れた日本人の森本右近太夫の墨筆の跡があったが,1970年代の戦乱中に,惜しくも損傷した。
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百科事典マイペディア 「アンコールワット」の意味・わかりやすい解説

アンコール・ワット

カンボジア,シエムリアップ市の北約5km,アンコール・トムの南郊にあるクメール族の残した遺跡。12世紀初めアンコール朝のスールヤバルマン2世のとき完成したもので,当初はヒンドゥー教の祠堂(しどう)であったが,14世紀に仏教寺院に変わった。東西1500m,南北1300mで,幅190mの濠(ごう)を巡らした中に,3重の回廊で囲まれた中央祠堂が中心。第1回廊の壁面は〈マハーバーラタ〉〈ラーマーヤナ〉などの図の浮彫で飾られ,細部の装飾にはインド的なものと,非インド的なものとの交錯が見られる。アンコール遺跡群として1992年世界文化遺産に登録。ワットはカンボジア国旗にも描かれ,民族統合の象徴とされている。
→関連項目カンボジアクメール美術真臘

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「アンコールワット」の意味・わかりやすい解説

アンコール・ワット
Angkor Vat

カンボジアのアンコール遺跡の1つで,12世紀中葉,クメール王国のスーリヤバルマン2世によって建設された寺院。アンコール・トムの南方に位置し,敷地は長方形で,四周を囲む幅約 190mの水濠を含めると南北約 1.3km×東西約 1.5km。建物はラテライトと砂岩を用いた組積造。敷地の中央部に3重の回廊をもつ寺院本体がある。回廊ごとに基壇が高まり,それぞれ床面は地上4,12,25mとなる。第1回廊の内側に十字形の廊があり,交点に紡錘状の塔をいただく中央祠堂がそびえたつ。また,各回廊とも四隅に塔,辺の中央に門や階段を備え,壁面にさまざまな浮彫を施している。創建当初はビシュヌ神を祀るヒンドゥー教寺院であったが,のちに仏像を祀った形跡もみられる。 16~17世紀には日本人が「祇園精舎」の跡とみなして参詣し,墨の落書を残しており,将軍徳川家光は島野兼了を派遣して見取図を作成させた。 1860年,フランス人博物学者 A.ムオーが密林に埋没していた遺跡を再発見して以来,世界的に有名になった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「アンコールワット」の解説

アンコール−ワット
Angkor Vat

カンボジアにある石造大寺院遺跡
「寺のある街」の意。アンコール−トムの南方1500mにある。クメール王スールヤヴァルマン2世(在位1113〜52 (ごろ) )が建立。東西1500m,南北1300mで,幅150mの堀に囲まれ,中央の60mの主塔を中心に5塔3層の石造建築が各層回廊に全長600mにわたる。『マハーヴァーラタ』と『ラーマーヤナ』を主題とした浮き彫りは,クメール芸術の傑作である。ヴィシュヌ神に神格化された王スールヤヴァルマン2世を祭り,王の死後はその墓所としてヒンドゥー寺院となった。14世紀ころからシャム(タイ)人が侵入し,仏教寺院として使用された。20世紀後半からのカンボジア内戦などでも放置され,現在,世界文化遺産としてその保存・修復が急務となっている。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「アンコールワット」の解説

アンコール・ワット
Angkor Vat

スールヤヴァルマン2世(在位1113~50頃)が王都の中心寺院として建立したヴィシュヌ寺院。現在のカンボジア,シエムリエプ市北郊外に位置する。敷地は南北1.3km,東西1.4kmで,幅約200mの環濠(かんごう)が取り囲む。寺院本体は5基の砲弾形の塔と3重の回廊を備え,壁面は細緻な浮き彫りによって飾られている。アンコール都城放棄後も,長く仏教寺院として信仰されてきた。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界遺産情報 「アンコールワット」の解説

アンコールワット

アンコール・ワットはクメール王国における宗教施設の集大成といえる大寺院。12世紀前半にスールヤヴァルマン2世により創建されたヒンズー教寺院で、ヒンズー教三大神の中のヴィシュヌ神に捧げられました。アンコール・ワットとは「大きな寺」という意味で、環濠を含む大きさは東西約 1,500m、南北約 1,300mもあります。三重の回廊の上に5つの祠堂が建てられており、神々が住むといわれるインド神話の霊峰メール山をイメージして造られたといわれています。シェム・リアップ市の中心部から約6?の所にあります。

出典 KNT近畿日本ツーリスト(株)世界遺産情報について 情報

世界大百科事典(旧版)内のアンコールワットの言及

【スールヤバルマン[2世]】より

…また南宋へ朝貢し,その版図はメナム川上流域からマレー半島北部にまで及び,アンコール文明の輝ける時代を築いた。王はまたアンコール・ワットの建立者としても有名である。その回廊内壁の浮彫には王の偉業が描出されており,中央塔堂内では王を神格化した〈ビシュヌ・ラージャ(〈ビシュヌ即王〉の意)〉神像が礼拝されていたという。…

※「アンコールワット」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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