改訂新版 世界大百科事典 「アンコール朝」の意味・わかりやすい解説
アンコール朝 (アンコールちょう)
Angkor
カンボジアのシエムリアップ市近郊を王都に,9世紀から1432年まで栄えた古代クメール王国。アンコールとは〈都城〉を意味する梵語ナガラのクメールなまりで,王都の後世の呼称である。
アンコール朝は,群雄割拠状態の国内を統一し,802年に登位したジャヤバルマン2世に始まる(インドラバルマン1世の877年から,あるいはヤショーバルマン1世の889年から,という説もある)。ヤショーバルマン1世(在位889-910ころ)はアンコールに1辺4kmの環濠都城を造営し,王にちなんでヤショーダラプラと呼称した。以後,諸王がこの地に新王都,寺院などを次々に建設し(928-944年,コーケーに一時遷都した),その都城址が現在のアンコール・トムである。ヤショーバルマン1世はラオス南部からコーチシナまで領域を広げ,11世紀のスールヤバルマン1世はメナム川流域まで伸張し,12世紀前半のスールヤバルマン2世は,西はメナム川上流域のスコータイ,南はマレー半島北部,東はチャンパまでを版図とした。国内の混乱から,1177年にチャンパ軍がアンコール王都を攻略,破壊したが,81年に即位したジャヤバルマン7世は国内の混乱を収拾してチャンパを併合するなど,インドシナ半島を席巻する大帝国を建設した。アンコール・トムには最盛時には約12万人が居住したという。その後衰退へ向かうが,1296-97年に元朝使節団の一人として来訪した周達観は,当時の貴重な記録《真臘風土記》を著した。14世紀後半からタイのアユタヤ朝との戦争が始まり,ついに1432年にアンコール王都が陥落し,都は南方のバサンへ移された。
アンコール朝の政治は,王を中心に大臣,高官などによる寡頭制で,祭政一致的傾向が強く,集権的であった。王は登位すると,王族,臣下,地方の有力者をいかに統御,掌握するかが課題であり,王位奪がしばしば起こった。王の即位聖別式は,バラモンの宗務官が祭司となって行い,王権の神授的な意味を強調した。大臣などには報酬として封地が与えられ,後に地域割拠を助長することになった。王朝の立国の基盤は農業生産であった。王都には貯水と排水を兼ねた環濠,バライ(人工の大池)がつくられた。この治水の技術が耕地の開発に応用されて肥沃な田畑の拡大が進み,人口の増大を可能とした。商品的生産が未発達で,貨幣のない当時では,農産物などの現物納による税徴収(アーカラ)や賦役(ラージャカールヤ)が課せられた。賦役による動員体制が,寺院の建設,水路・道路網の敷設,土木工事,軍隊の組織化などを可能にした。軍隊には,歩兵,騎兵,象軍,輜車(ししや)軍などがあった。
アンコール朝の寺院には,ピラミッド型と平地展開型の二つのタイプがあり,前者は王と神が合体したデーバラージャ(神王)信仰の諸儀式などと関係し,後者は王の肉親,縁者を祭る寺院であった。アンコール・ワット,アンコール・トム,バイヨンなどで見られる建築や彫刻の数々に,クメール族の造形における天分がうかがえる。王都の基本構造は,当時の人々の宗教的宇宙観を地上で具現したものである。ピラミッド型寺院は世界の中心である須弥山(しゆみせん)(メール山)を模し,城壁はヒマラヤの山々を,環濠,バライは無限の大洋を,東西南北の参道と境内の経蔵,小寺院は神の顕在を象徴した配置となっている。
アンコール朝崩壊の主因は,先に述べたアユタヤ朝との一連の激戦にあるが,過酷な徴税と住民を賦役や戦争へ駆り出したこと,封地の授与による地方の自立と王権の弱体化,寡頭政治体制内での王室の内紛,古代ヒンドゥー的思想と体制の停滞と行詰り,上座部仏教(小乗仏教)の浸透なども社会構造上の原因としてあげられる。灌漑網破壊説,自然災害説などもあるが,上記の諸因が輻輳(ふくそう),重複し,崩壊を早めたと思われる。
執筆者:石沢 良昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報