翻訳|Guernica
スペインの画家ピカソの大作(349.3センチメートル×776.6センチメートル)。スペイン内戦中の1937年4月26日、フランコ側を支援するナチス・ドイツの空軍が、バスク地方の自治と統一を象徴する町ゲルニカを爆撃した。同年夏のパリ万国博スペイン館の壁画を共和政府から依頼されていたピカソは、この事件に強烈に反応し、5月1日に構想を練り始め6月4日に完成した。しかしピカソは、ゲルニカには直接言及せず、この、愛する祖国の惨禍を、スペイン人の深層心理に根ざした闘牛の象徴性に託し、キュビスムが可能とした破壊的なフォルムと、黒、白、灰色という悲劇的な色調で描き、『ゲルニカ』に時空を超えたヒューマニスティックなメッセージを与えた。闘牛の象徴性に関しては、牡牛(おうし)をファシズム、馬を抑圧される人民とするアングロサクソン系の解釈と、前者を人民戦線、後者をフランコ主義ととるスペイン系の解釈がある。この作品はその後ニューヨーク近代美術館に展示されていたが、81年、63点のデッサンや関連作とともに初めてスペインに帰り、ピカソの遺言に従って、マドリードのプラド美術館付属の19世紀館に展示されたが、92年ソフィア王妃芸術センターに移った。
[神吉敬三]
スペイン北部、バスク地方ビスカヤ県にある町。人口1万5264(2001)。ビスケー(スペイン語名ビスカヤ)湾に注ぐムンダカ川の谷に14世紀の中ごろ建設され、1876年までバスク人の議会が支配していた。1937年4月26日、スペイン内戦中にドイツ空軍の爆撃を受けた。これをテーマに描いたピカソの絵画『ゲルニカ』によって世界的にその名が知られるようになった。
[田辺 裕・滝沢由美子]
スペイン北部バスク地方の都市名。スペイン内戦下の1937年4月26日,反乱軍を支持するドイツ空軍コンドル部隊とイタリア空軍による爆撃,機銃掃射を受け,少なくとも1600名の死者が出たとされる。ピカソは爆撃への抗議をこめて,同年開催されたパリ万国博覧会スペイン館展示用に「ゲルニカ」と冠した壁画を描いた。フランコ体制下「ゲルニカ」はピカソの意志によりニューヨーク近代美術館に寄託されていたが,81年スペインへ返還された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
スペイン北部,バスク地方ビスカヤ県の町。人口1万7271(1978)。ビスカヤ領の主都であった所で,中世カスティリャ王国の国王は,この町にある樫の木の下でビスカヤ領の特権擁護を宣誓した。平穏なこの町が,スペイン内戦でドイツ空軍の爆撃により破壊された(1937年4月26日)悲劇は,ピカソの同名の絵画により知られる。現在は再建され,フランコ体制時代に工業が急激に発展した。
執筆者:鈴木 昭一
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…以後,表現主義,シュルレアリスムなどの影響を自由にとり入れ,成熟した確定的な画面を生む(《鏡の前の少女》1932,ニューヨーク近代美術館など)。表現主義的,シュルレアリスム的傾向は,30年代後半の〈ミノタウロス連作〉,ドイツ空軍によるバスク地方の町ゲルニカの爆撃を契機に制作された大作《ゲルニカ》(1937,マドリード美術館)で頂点に達し,30年代西欧の不安や戦争への怒りを表現した。第2次大戦中はパリにとどまり,戦後,南フランスのアンティーブAntibes,ついでバローリスVallaurisに移る。…
…これらは一様にスペイン文化を評価し,さらに共和国陣営からの見聞であった。詩人ガルシア・ロルカの暗殺に関するセンセーショナルな話題の流布,ピカソの《ゲルニカ》をめぐる神話の創造などもこれにあたる。(5)諸外国の援助が戦いを長期化させた。…
※「ゲルニカ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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