共同通信ニュース用語解説 「コソボ」の解説
コソボ
旧ユーゴスラビア・セルビア共和国の自治州だった1990年代末、アルバニア系武装組織とセルビア治安部隊が戦闘。2008年2月、セルビアからの独立を宣言したが、セルビアは承認していない。人口約165万人のうち、アルバニア系が大多数でセルビア系は少数派。(プリシュティナ共同)
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旧ユーゴスラビア・セルビア共和国の自治州だった1990年代末、アルバニア系武装組織とセルビア治安部隊が戦闘。2008年2月、セルビアからの独立を宣言したが、セルビアは承認していない。人口約165万人のうち、アルバニア系が大多数でセルビア系は少数派。(プリシュティナ共同)
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ヨーロッパ南東部、バルカン半島に位置する共和国。正式名称はコソボ共和国。セルビア、モンテネグロ、アルバニア、北マケドニア共和国と国境を接する。長くセルビア共和国南部の一自治州であったが、2008年に独立を宣言した。面積1万0887平方キロメートル、人口約190万(2002年推計)、212万(2008年推計)。首都はプリシュティナ。政体は共和制、元首は大統領、議会は一院制。流通通貨はユーロ。住民は、アルバニア人が92%を占め、ほかにセルビア系5%、その他(スラブ系ムスリム、ロマ、トルコ系など)3%から構成される。旧ユーゴスラビア時代から開発の遅れた地域で、後進地域の開発基金が導入されて、社会主義時代にかなりの改善はみられた。そのため従来の圧倒的な農耕社会のなかに工場が建ち並び、近代的なアパートも出現した。とくに首都プリシュティナには大学図書館などモダンな建物が多い。
中世以来の伝統をもつ鉱業は依然、コソボの重要な産業で、鉛、銀、錫(すず)などのほか、大量の褐炭を産する。後者を利用した火力発電所、化学、木材、金属、電気、織物の工場、あるいは伝統的な金銀細工や製靴の家内工業もみられる。農業では小麦を筆頭に、タマネギ、ライ麦、大麦、エンバク、テンサイ(サトウダイコン)、ジャガイモ、インゲン豆、タバコ、麻などを栽培し、果樹園やブドウ園も拡大されつつある。また畜産にも力を入れている。
[田村 律]
長い間ビザンティン帝国の支配下に置かれていたが、12世紀にセルビアが占拠し、後に王国が成立するとその舞台となり、中世の黄金時代を築いた。それには各地の鉱山(トレプチャTrepčaの亜鉛やノボ・ブルドNovo Brdoの銀)が重要な役を演じた。1389年、コソボ平原でオスマン・トルコ軍とセルビアを中核とするバルカン連合軍との戦い(コソボの戦い)に敗れ、トルコのバルカン進出が決定的となった。コソボに居住していたセルビア人は、主として宗教的な理由から、17~18世紀にかけ、ドナウ川を越えて北上し、ハプスブルク帝国支配下のボイボディナ地方に移住した。過疎化したコソボにはアルバニア人が移住し、このためコソボには多くのアルバニア人が居住するという現代の民族構成が生じたのである。1912~1913年の第一次バルカン戦争の結果、セルビアに編入されたが、開発は遅れ、農業を主とした最貧地域で、住民の大半は非識字者であった。
第二次世界大戦後の1945年、旧ユーゴスラビアを構成するセルビア共和国のコソボ・メトヒアKosovo i Metohija自治区(1963年に自治州)となり、改善が進んだ。しかし旧ユーゴの解体を経て新ユーゴスラビアとなっても最後進地であることに変わりはなかった。ここからアルバニア系住民の不平不満が爆発し、いわゆる「コソボ紛争」が発生し、しばしば流血の惨事に至ったのである。1990年アルバニア系住民は独立を宣言し、その後、独自の議会をもち独自の大統領を選出しているが、セルビアはこれを認めず、一触即発の危機をはらみ、一種の厳戒体制下にあった。1998年2月に両者の武力衝突が激化し国際問題化したため、1999年、米ロ英仏独伊による調停工作が行われた。しかしセルビア側の拒否をきっかけに1999年3月NATO(ナトー)(北大西洋条約機構)軍によるユーゴ全土への航空爆撃が始まった。1999年6月ユーゴ側が和平案を受諾したことによりNATOは空爆を停止したが、逆にコソボのアルバニア系住民が大量に難民となるなど泥沼の状況を呈し、国際社会に大きな動揺をもたらした。
ミロシェビッチ政権の崩壊後、2001年に自治州議会選挙が行われ、コソボ暫定自治政府が立ち上げられたが、1999年以来コソボは国連コソボ暫定統治機構(UNMIK)の暫定統治下にある。さらに、2004年3月にはアルバニア系勢力による大規模な暴動が発生、セルビア人施設などへの破壊活動が行われ、死者19名、負傷者954名、3600名以上の非アルバニア系住民が避難民となるなど、衝突は続いている。なお、空爆で使用された劣化ウラン弾によるとみられる被害(白血病や癌(がん)などを発症する健康被害)が「バルカン症候群」とよばれ問題となっている。2005年、国連安保理が関係当事者によるコソボの地位交渉の開始を決定した。
[田村 律]
国連の暫定統治下におかれたコソボ自治州であったが、2008年2月17日コソボ議会がコソボ共和国として独立宣言を採択、アメリカやEU諸国が独立を認め、日本も同年3月コソボ共和国を国家として承認した。なお、セルビアはコソボの独立を承認していない。
[編集部]
『柴宜弘編『バルカン史』(1988・山川出版社)』▽『千田善著『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか――悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任』(1999・勁草書房)』▽『梅本浩志著『ユーゴ動乱1999――バルカンの地鳴り』(1999・社会評論社)』▽『町田幸彦著『コソボ紛争――冷戦後の国際秩序の危機』(1999・岩波ブックレット)』▽『岩田昌征著『ユーゴスラヴィア多民族戦争の情報像』(1999・御茶の水書房)』▽『中津孝司著『南東ヨーロッパ社会の経済再建――バルカン紛争を超えて』(2000・日本経済評論社)』▽『長倉洋海著 写真集『コソボの少年』(2000・偕成社)』▽『ペーター・ハントケ著、元吉瑞枝訳『空爆下のユーゴスラビアで――涙の下から問いかける』(2001・同学社)』▽『百瀬宏・今井淳子・柴理子・高橋和著『国際ベーシックシリーズ5 東欧』(2001・自由国民社)』▽『大石芳野著『コソボ破壊の果てに 大石芳野写真集』(2002・講談社)』▽『千田善著『ユーゴ紛争――多民族・モザイク国家の悲劇』(講談社現代新書)』▽『柴宜弘著『ユーゴスラヴィア現代史』(岩波新書)』
基本情報
正式名称=コソボ共和国Republic of Kosovo
面積=1万0887km2
人口(2010)=183万人
首都=プリシュティナPristina(日本との時差=-8時間)
主要言語=アルバニア語,セルビア語
通貨=ユーロEuro
バルカン半島中部に位置する共和国。正称Republic of Kosovo。面積1万0887km2,人口211万(2007)。首都プリシュティナPriština(日本との時差=-8時間)。セルビアの自治州であったが、2008年2月17日にコソボ議会が独立を宣言し,同年3月18日に日本も国家として承認した。民族構成はアルバニア人92%,セルビア人5%,トルコ人など諸民族3%(2007)。言語はアルバニア語,セルビア語など。宗教はイスラム(主にアルバニア人),セルビア正教(セルビア人)など。大統領はセイディユFatmir Sejdiu(2006年2月就任),議会は一院制で定数120人,2007年11月の選挙でコソボ解放軍を母体とする独立急進派のコソボ民主党が37議席を占め,25議席のコソボ民主同盟と連立内閣を発足させた。セルビア系6政党も10議席を確保した。通貨はユーロEuroで,一人当り国内総生産(GDP)は1150ユーロ(2007)。
1999年6月以降,コソボは国連の暫定統治下に置かれ,その最終的地位をめぐり交渉と調停が続けられた。2007年3月,アハティサーリ国連特使(元フィンランド大統領)が国際社会の監視下でのコソボ独立を国連に勧告した。法の支配の確立とセルビア系住民との融和が,内政上の緊急課題である。
執筆者:編集部
領域は西部のメトヒヤMetohija地方と東部のコソボ地方に大別され,州名の正称はかつてはコソボ・メトヒア自治州(1945年以来の自治区が63年に州に昇格)であった。2500m級のプロクレティエProkletije山塊で北と西部を限られたメトヒヤは,ベーリBeli川,ドリムDrim川流域に広がる豊かな土地柄で,地中海式気候の影響から二毛作も可能である。おもな作物はタバコ,果物,野菜,ブドウ。地下資源は褐炭,クロムなど。中心地はペーチPeć(人口9万)で,中世セルビアの総主教座が置かれた修道院ペーチカ・パトリアルシア(13~14世紀)がある。ジャコビツァ(人口7万)近くにはデチャーニ修道院(14世紀)が建つ。プリシュティナのあるコソボ平原は標高600mで,鉱物資源に富み,褐炭,鉛,亜鉛,ニッケルは国内の50%近くを埋蔵する。イバルIbar川をはじめ多くの川で灌漑され,小麦,トウモロコシ,大麦が栽培されている。戦後プリシュティナは大学,飛行場をもつ中都市に変貌した。他に製材・化学工場のあるコソブスカ・ミトロビツァ(人口9万),中世の古い町ブチトルン(5万),グニラネ(7万),ウロシェバツ(9万),ステファン・ドゥシャン帝が建てた聖アルハンゲル修道院(14世紀)とシナン・パシャ・モスク(16世紀)が共存する古風なプリズレンPrizren(10万)がある。
コソボ地方の先住者はイリュリア人であるが,それは現代のアルバニア人の一部を形成したと思われる。やがてローマ帝国,ビザンティン帝国の支配下に入り,後者の弱体化に乗じて12世紀末セルビア人が占拠,先住者をアルバニアへ追放するかたちで中世セルビア王国を築いた。だが1389年オスマン・トルコ軍に大敗を喫し(コソボの戦),その汚名をそそいだ1912年の第1次バルカン戦争まで5世紀にわたるオスマン帝国の支配がつづく。この間イスラムに改宗したアルバニア人は,オスマン帝国のなかで,軍人などの形で出世し特権を享受するようになり,キリスト教徒(ラーヤ)にとどまったセルビア人を支配する形で故地へ戻りつつあった。さらに17世紀末に,オスマン帝国の支配を逃れるセルビア人のボイボディナ地方への集団移住がおこり,18世紀には,人口の激減したコソボへアルバニア人の大量移住が行われ,民族構成はいっそう複雑化した。
第1次バルカン戦争で勝利を得たセルビア軍は,オスマン帝国側について敗れたアルバニア人の多数居住するコソボを再び手に入れ,彼らの怨恨をかった。こうした歴史的背景が災いして,王国時代のユーゴスラビアにおいてはもちろん,第2次世界大戦後の社会主義ユーゴスラビアにおいても,コソボは最も開発が遅れ,大量の失業者を生んでいる。住民の大半を占めるアルバニア人は,これを経済的にも社会的にも差別されている結果であるとして強く反発し,しばしば騒乱を起こした。とくに1981年4月の事件では,一種の戒厳令がしかれたほどはげしいデモが相ついだ。自治州の共和国への昇格あるいは分離独立まで要求したといわれ,チトー亡き後のユーゴスラビアが抱える最も厄介な民族問題の一つとなった。
87年にS.ミロシェビッチがセルビア共和国幹部会議長に選出されて以後,コソボの少数派であるセルビア人の不満を吸収する政策を展開したため,アルバニア系住民の反発を呼び,90年1月の死者20人をだすデモを経て,同年9月アルバニア人の州議会議員は〈コソボ共和国〉樹立を宣言するにいたった。その後,分離独立をめざすコソボ解放軍(KLA)が結成され,98年春以降セルビア軍と武力衝突するにいたった。
執筆者:田中 一生
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