百科事典マイペディア 「コンゴ動乱」の意味・わかりやすい解説
コンゴ動乱【コンゴどうらん】
→関連項目アフリカ|国際警察軍|国際連合|コンゴ民主共和国|ハマーショルド|ルブンバシ
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アフリカ中部のコンゴ(現,コンゴ民主共和国)で,1960年7月から63年1月にかけて起こった紛争。これにつづいて64年6月から65年3月にかけて起こった紛争まで含めてコンゴ動乱と呼ぶ場合もある。
コンゴは1885年にコンゴ自由国の名でベルギー国王レオポルド2世の私的植民地となり,1908年以降正式のベルギー領へと変更されたが,その父権主義的支配のもとでコンゴ人が政治から隔離されていたため,ナショナリズムの発展が著しく遅れたままの状態で,60年6月30日に独立を迎えることとなった。しかもコンゴはコンゴ族,ルバ族,モンゴ族,ルンダ族その他多数の部族を擁して統一性に乏しく,独立に際して中央集権制と地方分権制のいずれをとるかが最大の争点となっていた。結局ルムンバのコンゴ国民運動の主導下に形式的には単一国家制(したがって中央集権制)をとりながら,実質的には州の権限を大幅に認めた擬似連邦制ともいうべき制度を採用し,集権派のルムンバが首相,分権派のカサブブJoseph Kasavubu(1910-69)が大統領に就任するという,無理な妥協が目だつなかで独立を達成した。しかし独立から1週間もたたない7月上旬,首都で起こった軍隊の反乱が地方に拡大すると,その機をとらえて分権派のチョンベMoise Tshombe(1919-69)はカタンガ州(現,シャバ州)の分離独立を宣言し,9月にはカロンジAlbert Kalonjiも南カサイの分離独立を宣言して,本格的な内乱の幕が切って落とされた。
旧宗主国ベルギーは同胞の保護を理由にカタンガ州に軍隊を進駐させ,国連はその撤退を要求して,内乱は国際紛争的様相をも呈し始めた。また同じ9月,ルムンバ首相とカサブブ大統領は互いに相手の罷免を声明するなど,中央政府内の対立も激化し,陸軍参謀長モブツ大佐が一時実権を握って委員制内閣を組織した。根拠地スタンリービル(現,キサンガニ)へ脱出をはかったルムンバは61年2月に虐殺されたが,これより先,ルムンバ派のギゼンガAntoine Gizenga副首相が60年12月にスタンリービルで中央政府の樹立を宣言した。このように政局は混迷の度を強めたが,61年8月に中道派のアドゥラCyrille Adoulaを首班とする挙国一致内閣が発足してスタンリービル政権は自主的に解消し,南カサイも62年9月に分離独立を撤回した。他方,カタンガだけは国連,アメリカなどの調停でコンゴの不可分性の原則を認めながらも分離の状態をつづけたが,62年末に始まる国連軍の総攻撃に屈し,チョンベが63年1月同州の分離を撤回してコンゴの一体性は回復された。この間,東側諸国はルムンバ派を支持し,カタンガ州の豊かな鉱物資源に利権をもつ欧米諸国はあいまいな態度をとりつづけたため,紛争は長期化した。
64年6月に国連軍が引き揚げると,ルムンバ派の指導する反政府勢力が武装闘争を展開し,国土の半分を制圧した。亡命先のスペインから戻って同年7月に首相に就任したチョンベは,アメリカ,ベルギーの軍事的支援を受けるなどして65年3月までにこれを鎮圧し,第2次紛争も終息した。
執筆者:小田 英郎
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コンゴ共和国(のちザイール共和国、現在のコンゴ民主共和国)で、1960年7月から1963年1月、1964年6月から1965年3月と、二度にわたって起こった紛争をいう。前者だけに限定していう場合もある。コンゴは、植民地時代にベルギーの父権主義的支配の下に置かれ、コンゴ人の政治的活動が認められていなかったため、ナショナリズム運動の発展が極度に遅れたままの状態で1960年6月30日の独立を迎えることとなった。そのうえコンゴ、ルバ、モンゴ、ルンダの四大部族その他多数の部族のモザイク社会ともいうべき同国は、著しく統一性を欠いており、独立国としての前途には大きな困難が横たわっていた。この困難に正面から対決するために、中央集権主義をとるか、それとも妥協して地方分権主義をとるかは、独立時の最大の争点となったが、結局コンゴ国民運動(MNC)の指導下にコンゴは中央集権的色彩の強い国家として独立した。しかしルムンバ首相(コンゴ国民運動)とは対照的に、カサブブ大統領(アバコ党)は地方分権派であったため、中央政府の足並みは当初から乱れていた。
1960年7月6日首都で起こった軍隊の反乱が地方に拡大すると、これに乗じた地方分権派のチョンベは同月11日カタンガ州の分離独立を宣言し、9月にはカロンジも南カサイ州の分離独立を宣言して、コンゴの内乱は本格化した。またベルギーは同胞の保護を理由にカタンガに出兵し、国連はその撤兵を要求して、動乱は国際紛争に発展した。9月には中央政府内の対立が激化したのをみてモブツ軍司令官が実権を奪って委員制内閣を組織し、スタンリービル(現キサンガニ)へ脱出を図ったルムンバは1961年2月に虐殺され、この間ルムンバ派のギゼンガがスタンリービルで中央政府の樹立を宣言するなど、政情は混迷の度を強めたが、1961年8月に中道派のアドゥラを首班とする挙国一致内閣の発足によって、スタンリービル政権は自主的に解消し、南カサイも1962年9月に分離独立を撤回した。他方カタンガも、1962年末に始まる国連軍の総攻撃に屈し、1963年1月に分離の撤回、コンゴ共和国への復帰を宣言した。この間、東側諸国はルムンバ派を支持し、西側諸国はあいまいな態度に終始した。
その後1964年6月に国連軍が撤退すると、ムレレ、グベニエなどのルムンバ派反政府勢力が武装闘争を強め、国土の半分を制圧したが、中央政府はアメリカ、ベルギーの軍事支援を得て、1965年3月までにこれを鎮圧し、動乱は終息した。
[小田英郎]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
独立直後のコンゴ民主共和国で起こった政治混乱をさす。宗主国ベルギーが十分な準備のないまま独立を決めたため,独立時のコンゴは国内諸勢力間に激しい利害対立を抱えていた。特に鉱物資源の収益配分をめぐる対立は深刻で,中央集権的な統治をめざすルムンバ首相に対して,主要な鉱産物生産地カタンガ州の指導者層は強い敵意を抱いていた。国内諸勢力はそれぞれ国外に支援勢力を求め,冷戦体制のもとで内乱が国際化した。1960年7月初め,待遇改善を求める兵士の反乱が全国で起こると,混乱に乗じてカタンガ州が分離独立を宣言し,コンゴは四分五裂の状況に陥った。カタンガ州はベルギーの支援を受けており,これに反発したルムンバは東側諸国に接近した。コンゴの共産化を恐れるアメリカは,より穏健なカザヴブ大統領や陸軍参謀長のモブツを支援し,失脚したルムンバはカタンガ州勢力の手で暗殺された。カタンガの分離独立は国連軍の介入により1963年に終止符が打たれたが,その後も地方で反乱が続いた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…59年1月初旬のレオポルドビル(現,キンシャサ)暴動はベルギーにコンゴ独立の最終的決断を迫り,その結果60年1月下旬にはブリュッセルでMNC,アバコ党,コナカ党その他諸党派の代表を集めて独立のための円卓会議が開かれ,同年6月30日にコンゴは共和国として独立を達成した。 しかしナショナリズム運動が未熟であるうえに,独立のための準備期間が短すぎたこともあって,独立後1週間足らずの7月6日,軍隊の反乱を契機にコンゴは大動乱(コンゴ動乱)に突入した。カサブブ大統領とルムンバ首相の対立,チョンベによるカタンガ州(現,シャバ州)の分離独立宣言,ベルギーの軍事介入と国連軍の派遣,モブツ大佐の政治介入,ルムンバ首相の逮捕と虐殺,カサブブ派のレオポルドビル政権とルムンバ派のギゼンガを盟主とするスタンリービル(現,キサンガニ)政権の対立といった諸事件を織り込みながら,情勢は悪化の一途をたどった。…
…コバルト,銅その他の鉱物資源の大規模開発を行ったばかりでなく,鉱業以外にもカタンガのほとんどの分野の企業の管理権を握り,コンゴ経済に支配的な影響力を及ぼした。コンゴが1960年に独立したのちもその影響力は保たれ,第1次コンゴ動乱(1960年7月~63年1月)では,背後にあってカタンガの分離独立を支持したともいわれている。その後67年にモブツ政権のもとで国有化され,ジェカミンGÉCAMINES(ジェネラール・デ・キャリエール・エ・デ・ミン・ドゥ・ザイールGénérale des Carrières et des Mines du Zaïre)という名称の国営企業へと改組された。…
※「コンゴ動乱」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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