最新 心理学事典「コンプレックス」の解説
コンプレックス
コンプレックス
complex
自分自身の父親を失って深刻な神経症に陥ったフロイトFreud,S.は,自分の夢を要素分析していくことで,心の中に父親を殺して母親と近親相姦的な関係を結ぶという願望を中心として,自分の中に抑圧していた複雑に絡み合った感情作用としてのコンプレックスを発見した。これを彼はエディプス・コンプレックスOedipus complexとよんだ。
ヒステリーの治療から始めたフロイトは当初,患者たちが外傷体験を実際に体験していて,それが原因で神経症になると素朴に考えていた。それが心の中に共通のパターンをもつ内的な組織があると確信するようになったのは,エディプス・コンプレックスを発見して,それが多くの患者たちに共有されてきたものと考えたからである。その意味でエディプス・コンプレックスを神経症の中核と考え,他のコンプレックスをその亜種とした。さらに彼はこれを性心理発達のモデルの中に組み込んで,口唇期,肛門期を経て,男根期とエディプス期が幼児期の発達の統合的な役割をするものだと考えた。神経症は,このエディプス期における葛藤が分離の不安や去勢の不安から強くなり,それを抑圧することがもともとの出発点になっている。またフロイトはこのコンプレックスの起源を文化人類学や歴史に求め,系統発生的な人類の進化の中で親族構造の形成に重要な役割を果たしてきたものとみなした。つまりコンプレックスの着想は,フロイトを単なる外傷説から,より複雑な内的世界の探索への道に導いたのである。
【コンプレックスの諸相】 心の中で複雑な感情を呼び起こすコンプレックスは,精神分析を長期的に行なって,転移と逆転移の実演のうちに,そして抵抗と防衛の解除に従って明らかになっていくが,それがフロイトの指摘のようにエディプスのみかどうかという点に関しては異論がある。フロイトと交流のあった時代,ユングは男性のエディプス・コンプレックスに対して,ギリシア神話のエレクトラの物語に着想を得て女性がもつエレクトラ・コンプレックスElectra complexを提唱した。ユングによれば,女性が母親を亡きものにして,父親と結びつきたいという願望を心の中にもつという意味だが,フロイトは心の中で重要なのはエディプスであるとしてこの議論を認めなかった。後に父母の関係性を早期の幼児体験に還元しようとしたクラインKlein,M.は,同じエレクトラ神話の中で母親殺害をするエレクトラの弟オレステスの方こそ,深刻なコンプレックスを構成していると述べる。
エディプス・コンプレックスに対して,コンプレックスを父親と母親の関係に還元しないという立場は,深層心理学の早い時期から存在している。器官劣等性の概念から出発したアドラーAdler,A.は,力への闘争が人間の動機として重要であるとみなしたので,父親と子どもとの関係を重視したフロイトよりも,むしろ父親,あるいは兄弟関係が生み出す優位性,あるいは劣等性の問題がより深刻なコンプレックスを生み出すと考えた。アドラー自身は劣等コンプレックスinferiority complexという概念を特別に重視しなかったが,アドラーの影響を強く受けたアメリカの教育理論では,コンプレックスという語が劣等感に関することばとして使われてきた。コンプレックスが,エディプス・コンプレックス以外,広く使われるようになった経緯には,こうしたさまざまな概念を複合感情として理解してきたからである。
コンプレックスのどこに力点をおくかも,分析家によって異なる。アドラー以外に同時代のランクRank,O.は,人生において最も外傷的な体験は出生だと考えたが,彼によれば,出生はその後続く別離や分離の体験の原型であるという意味で,最初のトラウマであり,コンプレックスを構成するものは母子分離体験であって,それが去勢コンプレックスを基盤において構成している。
コンプレックスが個人によって異なるように,文化によって異なるか,という議論がある。フロイトのもとを訪ねた三人の日本人の一人である古澤平作は,フロイトに「罪悪感の二種」という題名の自分の論文を提示した。そこで彼は仏典に語り継がれているアジャセ(阿闍世)の物語を使って,フロイトのエディプス・コンプレックスとは異なるコンプレックスを説明しようとした。フロイトはやはり他のコンプレックスに関心をもたなかったが,のち古澤,そしてその分析と指導を受けた小此木啓吾がアジャセ・コンプレックスの理論を発展させた。アジャセの物語は次のようになる。マガダ国の王妃がある仙人が自分の子どもに生まれ変わるということを知り,急いでその仙人を殺してしまう。仙人は死に際に「その子どもが王を殺す」という予言をする。それを恐れた国王と王妃は,子どもを殺そうとするが,子どもであるアジャセは生き残る。成長した彼は,出生の秘密を知り,父親である王を幽閉し食物も与えないが,牢獄の中で父親の王がいたって元気にしているのを不思議に思ったアジャセは,母親が彼を助けていたことを知る。怒った彼は父親を殺してしまい,母親も殺そうとするが,家臣がそれを思いとどまらせる。その後国を治めていた彼は後悔の念とともに,体中から悪臭を出す皮膚病に苦しむ。母親は献身的に看病するが治らず,父なる王の声が天から聞こえてきて,釈迦への帰依を勧められる。そして彼は名君になっていく。この物語を古澤は,母子関係と父母の関係の問題として説明するために,王妃イダイケ(韋提希)が年老いて容姿が衰え,王の寵愛が薄れることを恐れて,急いで仙人を殺したと作り変えているが,子どもは母親の性を垣間見て,自分の出生にかかわる裏切りとみなすので,未生怨とよばれる憎しみをもつ。このアジャセ王の物語は,もう一方でエディプスの物語と同じく,父親殺しの話でもある。エディプスが自分の犯した罪に対し,あくまでその真実を見て自分の眼を刺すことで罰を受けるが,アジャセの場合は,許されて終わる。古澤のアジャセ・コンプレックスの概念は,小此木啓吾によって日本人論の観点から「日本的一体感=甘えとその相互性,日本的恨みとマゾヒズム,日本的許しと罪悪感」というかたちで,国際的に広く紹介されるようになっている。 →精神分析
〔妙木 浩之〕
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