イラン高原とユーフラテス川以東のメソポタミア平原を主として支配したササン朝ペルシアは,帝王の絶対的権威とゾロアスター教を国家統一の精神的基盤とした。ササン朝美術は,宗教と一体となった帝王の権威を誇示することを目的としたもの,ないしは帝王を中心とする宮廷貴族文化に関係したものが大半を占める。ササン朝美術の形成にあたりアケメネス朝美術の伝統をふまえ,前代のパルティア美術,同時代のローマ,ビザンティン美術の摂取総合がなされた。そこにはイラン民族のすぐれた装飾感覚とササン朝独特の写実主義との調和がみられ,高い完成度に達して,イランの古典美術となった。ササン朝美術は重厚・雄大にして華麗典雅であり,簡潔・明快な造形感覚と象徴性に富んだ図像・意匠をそなえており,東西に広く伝播し愛好された。図像の主題には,帝王叙任図,帝王戦闘図,帝王戦勝図,帝王狩猟図など帝王関係のものが多く,ゾロアスター教の神アフラ・マズダの庇護のもとに地上を支配する帝王の姿が繰り返し表されている。また意匠には,ゾロアスター教関係の象徴動物である霊獣シームルグ,羊,イノシシ,ワシ,ニワトリなどや,連珠文やリボン,ハート形植物文などがよく用いられている。ササン朝美術の特色をよく表している分野は,帝王記念碑の磨崖浮彫,銀器や絹織物などの工芸品である。古代アジアにおいては,西にササン朝,ビザンティン帝国,東に中国の唐,日本の奈良朝とそれぞれ国際色豊かで共通性をもつ,宮廷貴族美術が開花したが,ササン朝美術はその中核的存在として重要な位置を占めた。またエジプトのコプト美術,バーミヤーンの仏教美術,中央アジアのソグド美術にもササン朝美術は少なからず影響を与え,日本の正倉院にはササン朝のガラス器や意匠などが伝わっている。イスラム美術の形成にあたっては,イスラム教徒が高度の芸術体系をもたなかったため,ササン朝美術は大幅にとり入れられ,長くその命脈を保った。
ササン朝の建築は,メソポタミアでは伝統のある日乾煉瓦と焼成煉瓦,イラン高原では小割石と,それぞれ入手しやすい材料を用いている。イラン高原ではこれに粘土やモルタルを併用し,壁面をしっくいやスタッコ,床をモザイクなどで装飾することも行われた。また切石の遺構も見られる。構造上の特色として,イーワーン(四方のうち一方が開放された方形ホール)とその上に架構されたバレル・ボールト(円筒形穹窿),方形ホールに架構されたドームとそれを支えるスキンチなどがあげられる。イーワーン形式はパルティアの伝統を継承したもので,典型的な例としてクテシフォンの宮殿があげられる。ドームもイーワーンも柱や梁の使用を最小限にとどめて,その下に儀式的な場にふさわしい広大な空間を構成する。建築遺構は宮殿,神殿,城砦,橋梁(きようりよう),堰堤(えんてい)などで,数も少なく,保存状態も概して悪く,ほとんどが廃虚と化している。
宮殿の遺構は13ほど知られるが,最も初期のものとしてフィルザバードの,ササン朝初代の王アルダシール1世(在位224-240)の宮殿址がある。103m×55mの長方形プランで,南北の長軸を中心に左右対称形にレイアウトされている。前方がドームやイーワーンのある公的区域で建物も高く,後方は中庭の周囲に小室を配した私的区域となっている。シャープール1世(在位240-272)のビシャープールBishāpūrやクテシフォンの宮殿,カスル・イ・シリーンKasr-i Shirīnのチャハル・カプ宮殿などはいずれも左右対称的なプランを示しており,ササン朝宮殿建築の一つの特色を示している。
神殿の遺構としてはゾロアスター教の〈拝火神殿〉が50ほど知られ,その大部分はファールス地方に残されている。ゾロアスター教の神殿は基本的には二つの方形建物からなり,一つは聖火を安置する閉鎖的なもの(アタシュ・カデーAtash-kadeh)で,もう一つは聖火を公開するときに用いる開放的な建物(チャハル・タークChahar-tāq)である。建築装飾のおもな方法としてモザイクとスタッコがあげられる。モザイクはローマ文化圏で発展をとげたもので,ビシャープールの宮殿址の床モザイク(3世紀)に見られる立体感を強調した写実的表現には,ローマ様式の影響が顕著である。スタッコはしっくいをベースに大理石の粉末などを混ぜ,型押しや型流し,または彫刻によって図柄を表したパネルを作り,そのパネルを組み合わせて壁面を埋めるものである。
都市プランには,アルダシール1世の建設したフィルザバードやダーラーブジルドDārābdjirdのようにパルティアの伝統を踏襲した円形都市と,シャープール1世の建設したビシャープールのようにヘレニズム風の長方形プランで道路が縦横に敷かれた都市とがある。
彫刻を代表するものは磨崖浮彫で,現在30余点が知られている。その大部分はササン朝の発祥地ファールス地方に残り,その他の例はクルディスターン地方のターク・イ・ブスターン,アゼルバイジャン地方のサルマースにあるだけである。年代もターク・イ・ブスターン以外はすべて4世紀前半までのものである。これらの磨崖浮彫の主題は,帝王がアフラ・マズダ神から王権の象徴である〈フバレナの環〉を授与される帝王叙任図,ローマや内敵に対する帝王騎馬戦闘図や帝王戦勝図,帝王を中心に王族・廷臣を従えた帝王謁見図など,いずれも帝王の権威を決定づける最も重要な事跡を象徴的に表現したものである。構図はほぼ同一の形姿の帝王と神とが向かい合う形式,帝王を中心に左右の均衡を保つ形式など,左右対称性を示すモニュメンタルな配置となっている。磨崖浮彫の帝王像は特定の帝王を表したものであり,製作年代もその帝王の在位期間に相当するとされている。帝王の比定は,浮彫に銘文があればそれによって判明する場合もあるが,銘文の付随する例は少ない。普通は銀貨に刻印された帝王像の王冠を基準にそれとの比較によってなされるが,両者の王冠形式が一致しない場合もあり,比定の問題がすべて解明したとはいえない。
初期の,アルダシール1世の時代の浮彫は,たとえば騎馬戦闘図(フィルザバード)が示すように,前代のパルティアの様式を踏襲した薄手の平板な表現がなされている。ところが次のシャープール1世のころから4世紀初めに至るまでは,立体感や量塊感を強調した厚手の高浮彫となる。そこにはローマ彫刻の影響がうかがわれるが,史実によればシャープール1世はローマとの戦いに勝ち,多数のローマの工人を都のビシャープールに移住させたという。その工人のなかに彫刻家が含まれていた可能性も十分ある。人体の比例が調和したローマの彫刻に比べると,ササン朝の人物像は頭部が大きく肩幅が広く,より堂々とした重厚な形姿で表されている。リボンや衣服の裾には繁縟(はんじよく)なほどの衣襞が彫り込まれ,静止的な構図の中に躍動感を与えている。シャープール1世の騎馬戦闘図(ナクシ・ルスタム,ビシャープール),シャープール1世の騎馬叙任図(ナクシ・ラジャブ),ワラフラン1世(在位273-276)の騎馬叙任図(ビシャープール)などがこの時期の代表作である。中期の4世紀の作品として,ターク・イ・ブスターンのアルダシール2世(在位379-383)の帝王叙任図,シャープール2世(在位309-379)と同3世(在位383-388)の立像を表した小洞などがある。ここでは浮彫は再び薄く平板になり細部は線彫で表され,生硬な表現となっている。後期の唯一の作品はターク・イ・ブスターンの大洞の浮彫群で,丸彫に近い奥壁の帝王叙任図と帝王騎馬像,狩猟の場面を具体的に描写した猪狩図と鹿狩図のように絵画的表現をなすものとがある。服飾文様の細部が克明に彫られており,衣襞よりも細部の文様に深い関心を示している。大洞の年代に関しては,ホスロー2世(在位590-628)時代とペーローズ(在位459-484)時代の2説が提唱されている。
絵画の作例はほとんど残されていないが,ササン朝の宮殿は豪華な壁画やモザイクで飾られていたという。唯一の資料はスーサ南方のイワン・イ・カルハの宮殿址出土のフレスコ(4世紀)である。この作品は王侯狩猟図を表し,輪郭線を強調した図式的・平面的描法はドゥラ・ユーロポスなどパルティア時代の伝統を受け継いだものであろう。
金属器,ガラス器,染織などに見るべきものが多く,そのほか玉石細工,土器・陶器なども作られた。
金属器を代表するものは銀器である。いわゆるササン銀器とされているものは,イラン北部,ウラル・カフカス両地方などから出土しており,その中にはイスラム初期のものや製作地がソグド,バクトリアなどの中央アジアと思われるものも含まれている。銀器の製作技法は,まず鍛造あるいは鋳造により器形を作り出す。これに図柄を加える方法として彫金や打ち出しの技法が使われた。打ち出しは裏面から表に図柄を浅浮彫で打ち出し,細部を彫金で仕上げる技法であり,裏面のくぼみを隠すために2枚張りにしたり,図柄の一部分を切り取り,そこに銀板を高浮彫で打ち出したものをはめ込む技法を用いた。さらに鍍金,七宝,象嵌などの技法が加えられることがあった。器形には円皿,舟形杯,八曲長杯,十二曲長杯,水さしなどがある。円皿の主題には帝王狩猟文が多く用いられ,水さしには水に関係のある豊穣の女神アナーヒターなどがよく表された。
ガラス器を代表するものはカット・グラス(切子ガラス)である。これは型吹きによって形成した厚手の器体に円,楕円,亀甲などの単純な文様を砥石などで刻出したものである。碗,台付き杯,壺などが作られている。製作地,製作年代などはいまだ確定されていないが,カスピ海沿岸のギーラーン州などから多く出土している。一部は古代の日本にもたらされ,安閑天皇陵,上賀茂神社出土品や正倉院宝物などに含まれている。
アラブの史料によれば,ササン軍は戦勝時にシリアのアンティオキアから多数の織工を移住させ織物業を発展させたという。玄奘三蔵の《大唐西域記》(7世紀)には,イランの〈工織大錦〉と記され,織物の技術上の進歩もめざましかったようである。現存する織物としては,西欧の教会に伝わった聖人の屍衣や聖遺物を包む絹織物,中央アジアやエジプトの墓から出土した絹織物などがある。文様は鳥獣文を連珠文で囲んだもの,鳥獣文を横に一列に並べた形式のものが多い。ターク・イ・ブスターンの大洞の浮彫に見られる帝王や従者の服飾文様からもササン朝の織物文様の一端を知ることができ,服飾文様によって身分階級などを区別することも行われていたようである。ササン朝の絹織物のほとんどすべてが緯錦(ぬきにしき)の技法で織られている。緯錦は地と文様が緯糸を主体に織り出されたもので,中国の唐代の染織品にも多く,地と文様が経糸を主体に織り出された漢代の経錦(たてにしき)とは対照的技法である。
→イラン美術
執筆者:道明 三保子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…しかし,その内容が聖俗両面にわたっているため,たとえイスラムの発展と歩みを共にしたとはいえ,キリスト教美術や仏教美術などと同列に置いて考えることはできない。 イスラム美術は,ササン朝ペルシア(ササン朝美術),古代地中海世界などの美術を母胎として出発し,征服地の土着的伝統を吸収しながら,独自の様式を確立した。それは,きわめて抽象性,平面性の強い,装飾性に富んだ様式である。…
※「ササン朝美術」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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