サティ(英語表記)Satie, Erik(-Alfred-Leslie)

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

サティ
Satie, Erik(-Alfred-Leslie)

[生]1866.5.17. オンフルール
[没]1925.7.1. パリ
フランスの作曲家。パリ音楽院に学ぶが,アカデミックな教育に反発して退学。カフェのピアニストをしながら秘密結社「バラ十字団」に入り,単旋聖歌などにひかれる。 1891年以後クロード・ドビュッシーと親交を結び,1905年スコラ・カントールム対位法を学ぶ。ジャン・コクトーやパブロ・ピカソの協力を得たバレエ『パラード』 (1916) や,交響的ドラマ『ソクラテス』 (1918) を作曲。またダダイズム劇『メドゥサの罠』 (1913) のための音楽,シュルレアリスム・バレエ『本日休演』 (1924) などで常に世に衝撃を与え,若い作曲家らの尊敬を集めながらもその反骨精神と奇矯さのゆえに,精神的に孤独な生涯を送った。

サティ
Sati

エジプト神話の女神ヘクトとともにクヌムの配偶者。瀑布地帯の守護神。「矢のごとく走るもの」を意味する名。エジプトの最南端部で崇拝され,ナイル川中のサヘルの島に主聖所があった。上エジプトの第1郡は彼女の名をとってタ・セテット (サティの土地) と呼ばれる。牛の角をつけた上エジプトの白い冠をもつ。空と雌牛の女神としてヌトハトルと結びついている。またシリウス星ソティスに名が似ていたので,のちにソティスとイシスに同化された。

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百科事典マイペディアの解説

サティ

フランスの作曲家。フランス北部の港町オンフルールに生まれる。6歳でスコットランド人の母をなくし,祖父母のもとで育った。1878年パリ音楽院に入学するが,その保守性に反発し,学業なかばで軍隊に志願。ほどなく除隊し,モンマルトルの酒場でピアノ奏者として生計を立てつつ,ピアノ曲《3つのジムノペディ》(1888年)など初期の代表作を作曲。1891年ドビュッシーと知り合い,長く友情を結んだ。1903年,形式への顧慮を忠告したドビュッシーに応え,古典的な音楽形式を皮肉るピアノ連弾曲《梨(なし)の形をした3つの小品》を作曲。以後,諧謔(かいぎゃく)の精神に満ちた多くのピアノ曲が書き継がれた。ダダを先取りする音楽喜劇《メデューサの罠(わな)》(1913年)を経て,1917年ディアギレフの依頼によりバレエ音楽《パラード》(台本コクトー,振付マシン,舞台美術ピカソ)を発表。管弦楽にサイレンやタイプライターなどを組み入れたこの作品で,ロマン派やドビュッシーの美学と訣別(けつべつ)し,以後〈六人組〉の作曲家と交流を深めた。その後の代表作に,交響的ドラマ《ソクラテス》(1917年―1920年),バレエ音楽《本日休演》(1924年)などがある。その簡潔で醒(さ)めた音楽表現,座り心地の良い椅子のようにさりげなく聴く者に寄り添う〈家具の音楽〉の思想は,のちのメシアンケージまで幅広い影響を及ぼしている。→シャブリエラベル
→関連項目アンセルメクレールストラビンスキートムソンプーランクモンポウルーセル

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世界大百科事典 第2版の解説

サティ【Erik Satie】

1866‐1925
フランスの異色の作曲家。パリ音楽院を中退して,生活のために世紀末のパリの芸術家のたまり場となった酒場〈黒猫〉などのピアニストとして働きながら,中世的な神秘主義の世界をうかがわせるピアノ曲《三つのジムノペディ3 gymnopédies》(1888),《三つのグノシェンヌ》(1890。のち3曲が発見され1968年に出版)などを作曲。また一時,文学者ペラダンが主宰した神秘主義的秘密結社〈カトリック薔薇十字団〉に入り,公認作曲家となり,同団の音楽や,ペラダンの戯曲《星たちの息子》の音楽(1892)を作曲する。

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大辞林 第三版の解説

サティ【Erik Alfred Leslie Satie】

1866~1925) フランスの作曲家。アカデミズムを嫌い作曲はほぼ独学。自作に奇妙な題を付けるなど奇行で知られたが、作風は新古典的で、純粋明晰めいせき。ドビュッシーらに影響を与えた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

サティ
さてぃ
Erik Alfred Leslie Satie
(1866―1925)

フランスの作曲家。5月17日ノルマンディー地方オンフルールで、海運業の父とスコットランド人の母の間に生まれる。8歳のとき生地の教会オルガニストからピアノを学んだ。1878年パリに出て、79年パリ音楽院に入学、86~87年兵役につくが、除隊後は復学せず、モンマルトルの文学カフェ「黒猫」に出入りし、ピアノを弾いて生計をたてた。当時のピアノ作品『三つのサラバンド』(1887)、『三つのジムノペディ』(1888)には彼の生涯を貫く教会旋法(長短調ではなく)の利用がすでにみられる。小節線を廃したピアノ曲『三つのグノシェンヌ』(1890)もこのころの作品。90~92年、J・ペラダン率いる「カトリック・バラ十字団」の公認作曲家となり、ピアノ曲『バラ十字団の鐘』(1892)などを作曲。91年には「黒猫」から「旅籠屋(はたごや)・釘(くぎ)」の専属ピアニストとなり、ここでドビュッシーと知り合う。98年パリ南部郊外アルクイユに転居、モンマルトルまで毎日歩いて通う貧困な生活を続けるが、いつも山高帽に正装であったことから、ベルベット・ジェントルマンとあだ名される。パントマイムの音楽『びっくり箱』(1899)、人形劇『ジュヌビエーブ・ド・ブラバン』(1899)、四手ピアノのための『梨(なし)の形をした三つの小曲』(1903)などで、カフェ音楽と芸術音楽の障壁を取り払う。1905~08年、スコラ・カントルムに入学し、ルーセル、ダンディに対位法を学んでいる。14年に一幕喜劇『メデューサの罠(わな)』を初演して以降、サイレン、タイプライター、ピストルなどの騒音をコラージュしてスキャンダルとなった17年のバレエ『パラード』(コクトーの台本、ピカソの装置と衣装、ディアギレフのロシア・バレエ団上演)、18年の交響的ドラマ『ソクラテス』、24年のバレエ『メルキュール』(ピカソの装置と衣装、マシーン振付け)、同年のバレエ『本日休演』(ピカビアの台本)とその幕間(まくあい)に上映された映画『幕間』(ルネ・クレール監督)を作曲し、ダダ、シュルレアリスム運動の先鞭(せんべん)をつける。晩年の彼の周囲にはデゾミエールらの若い作曲家が集まったが、25年7月1日、肝硬変と肋膜(ろくまく)炎により、独身のままの生涯を閉じた。
 一つのテーマを840回繰り返す『ベクサシオン』Vexations(1893ころ)、環境音楽を先取りする「家具の音楽」musique d'ameublementの思想、譜に書き込まれたことば、非ロマン主義、印象主義的なユニット構造の音楽、風刺と皮肉に富んだ軽妙洒脱(しゃだつ)な文章などにより、近年(ことにジョン・ケージが1948年にサティ擁護の講演を行って以降)再評価の気運が高まっている。[細川周平]
『中島晴子著『睡れる梨へのフーガ エリック・サティ論』(1977・東京音楽社) ▽『音楽の手帖 サティ』(1981・青土社)』

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世界大百科事典内のサティの言及

【梨の形をした三つの小品】より

…フランスの作曲家E.サティの初期のピアノ連弾のための作品で,1903年に作曲された。独特な神秘思想をもっていたサティは,小節線を取りはずした自由な形式のピアノ曲などを作曲していたが,あるときドビュッシーに形式について配慮するように忠告され,その忠告に対する回答としてこの作品を完成した。…

【フランス音楽】より

…このほかデュカース,F.シュミット,C.ケクラン,A.カプレの名をあげておこう。 サティは,ドビュッシーとほぼ同年輩であるが,第1次世界大戦後その単純でむきだしな音楽が,戦前の美意識――ワーグナー,ロマン派,ドビュッシー――への反逆の先鞭をつけた。そしてJ.コクトーを仕掛け人としてオネゲル,ミヨー,プーランクらの〈六人組〉が戦後最初の前衛活動をおこし(1918),次にきたソーゲHenri Sauguet(1901‐89)はR.デゾルミエールらとサティを先達と仰ぐグループ〈アルクーユ楽派〉を結成した。…

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