サーディー(読み)さーでぃー(その他表記)Musharrif al-Dīn Sa‘dī

デジタル大辞泉 「サーディー」の意味・読み・例文・類語

サーディー(Sa‘dī)

[1213ころ~1292]ペルシア詩人。30年間に及ぶ諸国放浪の体験に基づいて著した「果樹園」「薔薇ばら園」は教訓詩の傑作とされる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「サーディー」の意味・わかりやすい解説

サーディー
さーでぃー
Musharrif al-Dīn Sa‘dī
(1213ころ―1292)

ペルシアの詩人。イラン南部の都市シーラーズの学者の家に生まれる。郷里で基礎学問を修めたのち、バグダードニザーミーヤ学院に留学して高度の学問を学ぶ。1226年ごろ留学を終えたが、郷里に帰らず、放浪の旅に出立托鉢(たくはつ)僧として約30年間西アジア各地を遍歴、神秘主義の修行に努めた。56年郷里に帰り、地方王朝サルガル朝君主やイル・ハン朝の太守の知遇を受ける。晩年はシーラーズ郊外に庵(いおり)を結び、隠遁(いんとん)生活を送り、静かな余生を過ごした。その墓は「サーディーエ」として知られ、シーラーズの名所になっている。

 長い放浪の旅を終え帰郷直後に執筆した二つの名作『果樹園』(1257)と『薔薇(ばら)園』(1258)によってペルシア文学史上不朽名声を得た。約4000句の『果樹園』は序と10章からなる叙事詩で、正義、良策、恩愛、愛、諦念(ていねん)、満足などの表題で詠まれ、豊かな人生経験と学識に裏づけられており、教訓詩の極致として評価される。『サーディー全集』には多くの優れた叙情詩も収める。叙情詩は現実生活の愛や酒を好んで歌い、自然な感情の表現を特色としている。

[黒柳恒男]

『黒柳恒男著『ペルシアの詩人たち』(1980・東京新聞出版局)』

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改訂新版 世界大百科事典 「サーディー」の意味・わかりやすい解説

サーディー
Sa`dī
生没年:?-1292

イランの詩人。サアディーとも呼ばれる。生年は1213-19年の間といわれる。シーラーズに生まれ,幼少の頃父を失い,当時の文化の中心バグダードのニザーミーヤ学院に学ぶ。20年以上,インドから北アフリカまで放浪し,さまざまな経験を得て故郷に帰り,《果樹園》《薔薇園Gulistān》を執筆する。とくに《薔薇園》は散文の中に韻文を交えた書で,教訓,警句,逸話,比喩の宝庫として名高い。彼の廟サーディーエはシーラーズの名所である。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「サーディー」の意味・わかりやすい解説

サーディー
Sa`dī, Muṣliḥ al-Dīn

[生]1213. シーラーズ
[没]1291.12.9. シーラーズ
ペルシアの詩人。ペルシア四大詩人の一人で実践道徳の最高詩人。幼くして父を失い,郷里で基礎的な教育を受けたのち,バグダードのニザーミア学院に学んだ。留学を終えたのち長い放浪の旅に出立し,20年余にわたってイスラム圏各地を遍歴,1256年に郷里に帰った。雅号サーディーは帰郷後に仕えたサルグル朝王子サードにちなんだという。多年にわたる旅での経験と知識に基づき,帰郷からまもなく,叙事詩形による『果樹園』 Bustān (1257) ,散文と詩を織り交ぜた『薔薇園』 Gulistān (58) を完成,ペルシア文学史上に不朽の名声を得た。ともに実践道徳に関する名作で,『薔薇園』は邦訳もある。抒情詩の巨匠としても名高く,これらの作品は『サーディー全集』 Kulliyāt-e Sa`dīに収められている。

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百科事典マイペディア 「サーディー」の意味・わかりやすい解説

サーディー

イランの詩人。シーラーズ生れ。1226年から約30年間托鉢(たくはつ)僧としてイスラム圏諸国を遍歴した。作品は《果樹園》《薔薇園(ばらえん)》が有名。ともに道徳・教養の書で,前者は韻文,後者は散文に詩を加えたもので,ペルシア文学を代表する作品。
→関連項目シーラーズビヒザード

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「サーディー」の解説

サーディー
Sa‘dī

?~1292頃

イランの著名な実践道徳の詩人。イラン南部シーラーズの出身。約30年間,イスラーム世界を広く旅行した。代表作品『果樹園』と『薔薇(ばら)園』は中世以来最高の教養・道徳書として愛読されてきた。

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旺文社世界史事典 三訂版 「サーディー」の解説

サーディー
Sa‘dī Shīrazī

1184 (ごろ) 〜1291
近世イラン最大の叙情詩人のひとり
バグダードのニザーミーヤ学院で学び,諸国を遍歴した。代表作『果樹園』(1257),『薔薇園』(1258)。

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世界大百科事典(旧版)内のサーディーの言及

【ニザーミーヤ学院】より

…とくにバグダードの学院はイスラム諸学の中心的な地位を占め,学生数は数千人に達したという。教授陣の中で神学教授であったガザーリーはとくに名高く,学生の中では後にムワッヒド朝の基礎を築いたイブン・トゥーマルトやイランの大詩人サーディーがよく知られている。バグダードの学院はセルジューク朝没落後,14~15世紀ごろまで存続した。…

【ペルシア文学】より

…同世紀半ばから14世紀前半に至るモンゴル系イル・ハーン国時代には,同朝の政策により宮廷詩人は活躍の場を失って頌詩は著しく後退し,それに代わって世の不安・無常が痛感されるにつれて現世逃避,安心立命への願望が高まり,時代を反映して神秘主義詩がますます盛んになり,さらにこの時代に,それまで主として宮廷貴族文学であったペルシア詩は性格を大きく変え,都市庶民文学がしだいに台頭したが,その大きな表れが抒情詩の隆盛であった。13世紀を代表する二大詩人はルーミーサーディーである。神秘主義最高の詩人ルーミーの代表詩集《精神的マスナビー》は〈ペルシア語のコーラン〉とも評され,熱情的な神秘主義の抒情詩集も高く評価されている。…

※「サーディー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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