シリア王国(読み)シリアおうこく

改訂新版 世界大百科事典 「シリア王国」の意味・わかりやすい解説

シリア王国 (シリアおうこく)

セレウコス1世が創建した王国。前305-前64年。ヘレニズム時代の,プトレマイオス朝エジプト,アンティゴノス朝マケドニアとならぶ強国のひとつ。セレウコス王国とも呼ぶが,前300年オロンテス河畔にアンティオケイアアンティオキア)を建設し首都としてより,終始北シリアを王国の核心部分としたのでこの名がある。

セレウコス1世はアレクサンドロス大王の死後バビロニアの総督となり,前312年地歩を確立(セレウコス朝暦第1年),大王の後継者たち(ディアドコイ)の争いの渦中で勢力を拡大し,西は小アジアから東はインド国境におよぶ広大な領土を獲得した。しかし,その後はたび重なる戦争(とくにプトレマイオス朝とのシリア戦争),王家内部の紛争,王国内各地の離反独立(ペルガモンパルティアバクトリアなど)によって弱体化し,アンティオコス3世(在位,前223-前187)のとき,内政改革と再征服遠征によって一時的に衰勢をたてなおし大版図を回復したが,東地中海に力を伸ばしたローマに敗れて頓挫し,アンティオコス4世(在位,前175-前164か163)の膨張政策と国内改革も,ローマの介入やユダヤの反乱などによって挫折を余儀なくされた。前160年にはパルティアの勢力拡大に屈してイラン西部を併合され,前129年にはメソポタミアとユダヤを最後的に失って,王国は北シリアと東キリキアのみに縮小,その後は一段と混迷を深め,前64年ポンペイウスによってローマに併合され滅亡した。

王は最高の権力者だが,しばしば長子を共同統治者とし,また〈友(フィロイ)〉と呼ばれる近臣団の助言を受けた。王国は旧アケメネス朝ペルシア帝国領の大部分を占め,広大で被支配民族も多種多様であったため,外来支配民族たるギリシア・マケドニア人が統一支配することは本来的に困難であった。全国土は原則的には王の所有に帰したが,かなりの部分(とくに小アジア)では土侯,都市,神殿がセレウコス朝の宗主権を認めながら自治権を含む諸特権をもち,王朝の支配が不安定な時期にはしばしば独立状態になった。その他の地域はペルシアの制度を踏襲して総督領(サトラペイア,サトラップ)に分かち(前3世紀前半で20あまり),総督(サトラペス)が統治した。生産の主たる担い手はラオイ(農民)と呼ばれる人々であった。ギリシア・マケドニア人の勢力を扶植するために都市や軍事植民地(カトイキア)を建設することは,セレウコス1世,アンティオコス1世,4世の治世に精力的に行われた。国家の財源としては総督領からの貢税(フォロス)がもっとも重要であり,都市や神殿といえども原則的には徴税を免れなかった。ただ,十分の一税,人頭税,王冠税,塩税など,史料にあらわれる諸税の徴収の実態については十分あきらかでなく,総督の権限や財務関係官職の職掌についても同様である。シリアを中継地とする東西交易が直接間接に王国にもたらした収入も莫大であったと考えられる。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「シリア王国」の意味・わかりやすい解説

シリア王国
しりあおうこく
Syrian Kingdom

紀元前3世紀初頭から前63年まで続いたマケドニア系セレウコス朝によるシリア中心の王国をさす。前323年にアレクサンドロス大王が死ぬと、この地は彼の部将たちの奪い合いの対象となったが、イプソスの戦い(前301)によってアンティゴノスを破ったセレウコス1世と、プトレマイオス1世とが、エレウテロス川を境界として北(セレウコスのシリア)と南(コエレ・シリア)に分割した。セレウコスはそのころオロンテス河畔にアンティオキアを設立し、やがてそこを首都とした(前300)。彼は小アジアやギリシア方面への進出をねらい、西方重視政策の一環として、ティグリス河畔のセレウキアから遷都したのである。前201年にはアンティオコス3世がコエレ・シリアをも征服、さらにパレスチナへ進出する一方、王政下にあったフェニキア海岸の諸都市も平定し、貴族政下に置いた。しかし、前2世紀中葉からはユダヤのマッカベイ朝の反乱をはじめとする土着系諸王朝(パルティア、コマゲネ、イトゥレア、ナバテアアルメニアポントスなど)の出現、諸都市の独立(前126年のティルスなど)、内乱のために、シリア王国は弱体化した。結局、東方に進出したローマの将軍ポンペイウスのために滅亡した。それ以後、シリアはローマの属州となった。

 セレウコス朝はシリアを中心とした地方を中央集権化することなく、土着勢力を臣従させ、その上層部に自治を依嘱した。そのかわり、各地にギリシア型の都市を設立し、東西交易と軍事的、政治的支配の拠点とした。シリアは都市化政策の中心として、少なくとも8都市が新設または再建されたほか、六つの屯田兵入植地が設立された。新設されたものとしてはアンティオキアのほかセレウキア・ピエリア、アパメアなど、古くからの都市を再建した例としてはベロエア(アレッポ)、エピファニア(ハマー)などがある。

 シリアは古くから肥沃(ひよく)な土地として開発されていたが、セレウコス朝下においても、ぶどう酒、ナッツ、プラム、ナツメヤシなどの果実、穀物、タマネギなどの野菜の生産が盛んであり、麻布やウール地などの衣料品およびパープル(深紅色)染色、ガラス製造(とくに前1世紀の吹きガラスの発明)などの産業が発達した。また、シルク・ロードとアラビアなどからくる隊商路の一端にある地方として、交易による富は莫大(ばくだい)であり、シリアや周辺の隊商都市(パルミラ、ペトラ、ダマスカスなど)が栄えた。

[小川英雄]


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百科事典マイペディア 「シリア王国」の意味・わかりやすい解説

シリア王国【シリアおうこく】

アレクサンドロス大王の遺将セレウコス1世が前312年創建(セレウコス朝シリア)。首都アンティオキア。シリアを中心に小アジア,イラン,メソポタミアを領有。一時インド,エジプトにも進出。前2世紀初頭からローマと抗争,ユダヤ教弾圧を策してマカベア戦争を招き,内紛のうちに前64年ローマに滅ぼされた。多くの都市を建設,ヘレニズム文化の普及に貢献。
→関連項目セレウキア

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「シリア王国」の解説

シリア王国(シリアおうこく)

アレクサンドロス大王の遺将セレウコス1世によって建設され,アンティオキアを首都とし,シリア,アナトリア,メソポタミア,イランにわたる広大な領土を領有した王国。プトレマイオス朝のエジプト王国と争ってパレスチナを獲得したが,やがてマカバイオス家の独立反乱を招き,パルティアバクトリアペルガモンも自立,内紛も続き,前64年ローマの将軍ポンペイウスにより征服された。

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旺文社世界史事典 三訂版 「シリア王国」の解説

シリア王国
シリアおうこく
Syria

前304〜前64
アレクサンドロス大王のディアドコイ4王国の1つ,マケドニア系のセレウコス朝の支配した王国
西アジアの大部分を占め,東はインダス川から西は地中海,北は中央アジアから南はペルシア湾に及ぶ。創建者はセレウコス1世で,セレウキアなどを中心として繁栄した。しかし,バクトリアやパルティアの独立や,ユダヤ人のマカベア朝の反乱が起こり,その後も内紛が続き弱体化し,古代ローマのポンペイウスに滅ぼされた。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「シリア王国」の意味・わかりやすい解説

シリア王国
シリアおうこく

「セレウコス朝」のページをご覧ください。

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世界大百科事典(旧版)内のシリア王国の言及

【シリア】より

…この港湾都市はギリシアと西アジアを結びつける窓口として,東方様式時代のギリシア文化に重要な役割を果たしたと思われる。アレクサンドロスの死(前323)以後は大王の後継者(ディアドコイ)たちによってシリアの地の領有が争われたが,最終的にはセレウコス1世によって前305年に建てられたセレウコス朝(シリア王国)が北シリアを支配した。しかし南シリアはプトレマイオス朝エジプトとセレウコス朝シリアの角逐の場となり,前3世紀前半から前2世紀前半までその領有をめぐって6次にわたる戦争が行われた(シリア戦争)。…

【セレウコス朝】より

…ヘレニズム時代にシリア王国を代々支配した王朝。前305‐前64年。…

【ヘレニズム】より

…当時首都アレクサンドレイア(アレクサンドリア)は世界交易と学芸文化の大中心地として栄華を誇ったが,前3世紀末以降王権の弛緩とともに土着勢力や農民の反抗気運が高まった。対外的には海上支配を追求し,またシリア王国とは国境紛争を繰り返したが,ローマとは友好関係を維持して諸王国中で最も長く独立を保った。 シリア王国ではセレウコス朝諸王が,多民族構成の広大な領域を,属州方式と都市建設によって有機的に統合しようとしたが成功せず,前3世紀半ばには東方辺境の植民ギリシア人がバクトリア王国を独立させ,同じ頃イラン系のパルティア人(パルティア)も自立して,王国の東方領域は急速に失われた。…

※「シリア王国」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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