フランスの政治家。ブルボン王家にさかのぼる名家の出身。理工科大学校(エコール・ポリテクニク)、ついで国立行政学院に学び財務省に入省。1956年下院議員に選ばれ、1962年院内に独立共和派を創設しドゴールのアルジェリア放棄政策を支持した。同年財務相となり1966年まで留任。その後はドゴールの反アングロ・サクソン主義を批判し、体制と距離を保った。1969年ポンピドーの大統領選出に尽力してふたたび財務相に就任。1974年ポンピドーの急死後、左翼連合候補ミッテランを僅差(きんさ)で破り大統領となった。翌1975年11月には、第1回先進国首脳会議(サミット)をフランス・ランブイエで開催。7年間の任期(1974~1981)は、選挙年齢の18歳への引き下げ、堕胎と離婚の自由化、女性問題省設置などの進歩的中道政策の追求と、失業とインフレの二重苦克服の失敗の明暗二面を含み、1978年の新与党フランス民主連合(UDF)創設にもかかわらず、長期政権の腐敗と不人気もあずかり、1981年の大統領選挙でミッテランに再選を阻まれた。1988~1996年UDF議長。その後ヨーロッパ連合(EU)諮問会議議長。2003年からアカデミー・フランセーズ会員。
[平瀬徹也]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
1926~
フランスの中道右派の政治家。1962~66年に蔵相,1974~81年に大統領となり,ド・ゴール派と一線を画し,妊娠中絶の合法化や離婚の自由化などの改革を行う。先進国首脳会議を提唱し,英米やアラブ世界との協調に努めるが,経済で失敗。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新