翻訳|ziggurat
シュメールで始まり,その後周辺地域に広がった,頂部に神殿をもつ重層基壇の聖塔。3~7層をもつ。〈神殿塔〉を意味するアッカド語の音訳に由来し,またジクラットとも呼ぶ。建物の芯となる部分を日乾煉瓦で築き,表面はビチューメン(瀝青)を使って焼成煉瓦を積み上げ,彩釉煉瓦や石で整えたものが多い。階段が頂上に通じる。メソポタミア文明に特有の象徴的な建造物であるので,その起源や性格については,資料不足に加えて,文明の性格をどのように把握するかにかかわる問題でもあるために,定説が生まれにくい状況である。ウル第3王朝のウルナンム王がウル,エリドゥ,ウルク,ニップールなどに建設したジッグラトは疑問の余地がないが,前5千年紀に属する基壇をもつウバイド文化の神殿にその起源を求め,前4千年紀のウルクの〈アヌ・ジッグラト〉などをさらに巨大化した基壇と認めて,ここから重層のジッグラトが成立したという見方が優勢である。しかし前5千年紀および前4千年紀の基壇は重層基壇ではないので,現状ではジッグラトの起源と存在を前3千年紀以降に限定する方が妥当であろう。
最も保存の良いウルのジッグラトは基底部が60m×45mで,現状では2段しか残っていないが,3段の基壇上に月神ナンナルの神殿があったと推測されている。ジッグラトは周壁をめぐらし,礼拝所や中庭をともなって一つの複合体を形成している。ジッグラトの機能について,これまでさまざまな見解が提出された。シュメール人の元居住地にあった山の象徴説,天体観測塔説,ピラミッドの影響をうけた王墓説,ボルシッパなどの塔が〈天と地をつなぐ〉意味の名称をもつことから,宇宙的・象徴的建造物とする説,神の玉座説,高所の神殿を支える巨大な台座で階段によって人間の位置まで降りることができたという説,神を求めて昇ると同時に神が人間のところまで降りやすいように,地と天の往来を保証する巨大な踏台説などである。
前2千年紀後半には,北方のアカル・クフ(ドゥル・クリガルズ)と東方エラムのチョガ・ザンビルに広がり,後者では構築法は異なるが105m四方という最大の大きさで,5層に復原されている。そして前1千年紀にはアッシリアの諸都市でも建造されたが,ここでは宮殿に付属するような形で縮小している。旧約聖書の〈バベルの塔〉の物語はバビロンのジッグラトから生まれたものであろう。
執筆者:小野山 節
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メソポタミアおよびエラム(イラン西部)の古代都市に設けられた階層状の聖塔で、神殿に付属する。ジッグラトの定義や成立時期に関しては諸説あるが、原型はエリドゥⅪ層以降の神殿、ウルクの「アヌのジッグラト」、あるいはハファジェの「楕円(だえん)神殿」など、紀元前三千年紀前半以前の基壇を有する神殿に求められ、ウル第3王朝の樹立者であるウルナンムのジッグラトにおいてほぼ基本的な形が整うと考えられる。ウルナンムはウル、ウルク、ニップール、エリドゥにジッグラトを建造するが、このうち著名なウルのジッグラトは、3層の基壇頂部に主神ナンナに捧(ささ)げられた神殿を頂き、正面と両側面に階段をもつ構造である。このような形のものは、カッシート時代(前二千年紀後半)のドゥル・クリガルズにもみられるが、ここでは基壇上の神殿と同じ神を祀(まつ)る麓(ふもと)の神殿が建てられている。これは神の居所=高所の神殿と、人間の礼拝のための場所=低所の神殿という宗教概念の確立を示しており、その後のジッグラトの様式に大きな影響を及ぼした。アッシリア時代(前1365~前609)、北メソポタミアの各都市に造営されたジッグラトには、階段のかわりに傾斜路がつけられた。六つの神殿に付属するコルサバードのジッグラトは4層のみ現存するが、当時は7層であり、それぞれに彩色がなされていたという。「バベルの塔」として有名なバビロンのジッグラトは新バビロニア時代(前625~前538)に属する。階段と傾斜路によって主神マルドゥクの神殿へと達する形式であるが、これにも彩色が施されていたとする記録が残っている。このほか、エラムでもチョガ・ザンビルで前13世紀に5層の基壇をもつインシュシナク神のジッグラトが建造されている。このようなジッグラトの築造に際しては、芯(しん)に日干しれんがを、仕上げ積みには焼成れんがを用い、瀝青(れきせい)などをモルタルとして使用した。また、表面の彩色は彩釉(さいゆう)れんがによって行われた。
ところでジッグラトは、メソポタミアにおける「山」の概念と結び付き、古代の宗教観、宇宙観の復原においても重要な役割を果たしてきた。とくにその名称からの考察は、考古学的資料に加えて多くの示唆を与えるもので、バビロンのジッグラトの名称エ・テメン・アン・キé-temen-an-ki(天と地の礎(いしずえ)の家)はその一例である。なお、シュメール語でジッグラトを表す語はエ・ウ・ニルé-u6-nir(驚きの家)で、グデアの碑文に登場するエ・パ・エ・ウブ・イミン・ナé-pa-é-ub-imin-na(ジッグラト、すなわち7地方の神殿)も7層のジッグラトを想起させる呼称である。
[山崎やよい]
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古代メソポタミアの各市の主神殿に建てられた多層の塔。頂きに神がくだる祠堂が設けられている。「聖塔」と訳す。シュメール人が故郷の山岳地帯での信仰を平野部に持ち込んだものと推察される。旧約聖書のバベルの塔は,これが伝説化されたもの。ウルやチョガ・ザンビルのものは復元され,当時の面影をしのばせる。
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…アッシュールに城塞が営まれ,神殿も建設されたことが発掘の結果認められ,またマリ出土の彫像によく似たスタイルを持つ人物彫刻や,円筒印章などがわずかに発見されている程度である。中期アッシリア時代(前1千年紀初めまで)には,アッシュールにいくつかの神殿,ジッグラト,宮殿などが造営された。トゥクルティニヌルタ1世Tukulti‐ninurta I(在位,前1244‐前1208)が建設し,あるいは再建したイシュタル神およびアッシュール神の神殿などが代表例としてあげられる。…
…とくに屋外の階段は,古くから神殿や聖域への導入路として,儀式性を演出するための不可欠の要素となっていた。古代エジプトやメソポタミア,古代メキシコなどでは,これが基壇と密接に結びつき,階段状ピラミッドやジッグラトのような,階段自体がそのまま記念的建造物となったようなものが見られる。古代ギリシアやローマにも外部階段の儀式的特質は受け継がれ,とくに神殿正面と階段とは切り離すことのできないものとなったが,屋外劇場の座席となったり,都市広場での演壇となるなど,しだいに都市空間の構成要素としての重要性も増してくる。…
… グティ人をメソポタミアから追い払ってウル第3王朝がシュメールの覇権を握った時代,すなわち新シュメール時代に,首都ウルは整備され,数多くの建築物が造営された。聖域テメノスTemenosにはジッグラトのほか,数多くの神殿が建設された。このジッグラトは3段の基壇を積み上げ,階段を巧みに配置し,最上段に神殿をもうけた壮大なもので,新シュメール時代の建築のもっとも優れた例といえよう。…
…
[古代メソポタミア]
古代メソポタミアでは,神殿の管理機構が都市国家の萌芽であると考えられており,歴史時代に入っても各都市の中央部は広大な主神の神殿で占められていた。有力な都市ではそこにジッグラトが建てられた。ジッグラトは日乾煉瓦造のテラスを積み重ねた階段状の構築物で,完成された形式をもつ現存最古の実例はウルにあり,底面約62m×43m,高さ約20mの3層の塔であった。…
…塔は防御のために軍事的目的でつくられる一方で,早くから宗教的な意味を担うことになる。すなわち,メソポタミアのジッグラトは階段状の基壇の上に建ち,何段ものテラスを階段や斜路がつなぎ,最上段には祭壇あるいは神殿をそなえるものである。それは史上最古のモニュメンタルな塔であった。…
…またエジプトなどでは,建築の配置や立面の決定にあたって,こうした数値を基にした〈基準格子〉が用いられていたことも知られている。宇宙観とのさらに直接的なかかわり方としては,ピラミッド斜面の角度が星の位置との関係で定められたとか,ジッグラトの階段高さが,ある惑星の見かけの往復運動を象徴しているといった例も見られる。 これら抽象的・象徴的比例観に対し,古代ギリシア人は比例を形態美の源泉とみなし,生物的形態,とりわけ人体が,もっともよく宇宙的調和を体現した比例をもつものとして,それを建築にあてはめた。…
※「ジッグラト」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...
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