スターリングラード攻防戦

共同通信ニュース用語解説 の解説

スターリングラード攻防戦

第2次大戦でのソ連軍とドイツ軍の最大の激戦。ドイツ軍は1941年、ソ連に電撃侵攻して南部から北カフカス地域までを占領、42年夏からボルガ川下流の要衝スターリングラード(現ボルゴグラード)の攻略を開始した。約200日の激しい戦闘の末、街は廃虚と化し、43年2月2日に戦闘が終結した。死傷者はソ連側約113万人、ドイツなど枢軸国側は行方不明者や捕虜も含め約150万人とされる。この戦い転機にドイツは敗北へと向かった。(共同)

更新日:

出典 共同通信社 共同通信ニュース用語解説共同通信ニュース用語解説について 情報

改訂新版 世界大百科事典 の解説

スターリングラード攻防戦 (スターリングラードこうぼうせん)

第2次大戦下独ソ戦の重大な分岐点となった戦い。1942年7月17日,ドイツ軍はボルガ川下流地域の要衝スターリングラード(現,ボルゴグラード)の攻撃を開始した。8月からはイタリア軍,ルーマニア軍も戦闘に参加,9月14日,ドイツ軍は市中央部に突入した。これに対しソ連軍は同市を,ボルガ西岸の河港部を含む市街地で頑強に防いだ。ヒトラーは同市奪取を強く命令,11月11日にドイツ軍はさらにボルガ川に達したが攻撃は阻止された。11月19日,ドイツ軍266個師団に対し391個師団となったソ連軍は東部戦線反撃を開始した。スターリングラードでは11月20日より同市の北西方と南方から反撃が開始され,ドイツ軍33万人を包囲した。ドイツ軍は航空機による補給を実施するとともに解囲攻撃を試みたが,おりからの寒気もわざわいして成功しなかった。翌43年1月31日,ドイツ軍指令官パウルス将軍は残兵9万1000と共に降伏し,2月2日戦闘が終結,ドイツ軍の死体14万7200が残置された。投降したドイツ兵は強制労働と疾病で多くが死亡,5000名のみがドイツに帰還した。スターリングラードの戦はドイツのB軍集団30個師団とソ連のスターリングラード方面軍38個師団で開始され,独ソの兵力は人員100万対100万,戦車・突撃砲675対894,火砲・迫撃砲1万300対1万3500,航空機1216対1400であった。ソ連の勝利は,その頑強な抵抗によるところ大であるが,このほかドイツ軍の力の分散アメリカの援ソ物資がこのころから到着し,特に大量の大型車両により兵力集中が可能となったことによる。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

百科事典マイペディア の解説

スターリングラード攻防戦【スターリングラードこうぼうせん】

1942年8月―1943年2月,独・ソ軍の間で行われたスターリングラード(現在ボルゴグラード)の争奪戦。第2次世界大戦中最大の激戦で,ドイツ軍約33万が包囲されて全滅(捕虜9万)。以後ソ連軍は全面反撃に転じ,戦局は大きく変わった。
→関連項目ソ・フィン戦争マリノフスキー

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

世界大百科事典(旧版)内のスターリングラード攻防戦の言及

【ボルゴグラード】より

…1917年の十月革命後,とくに30年代からトラクター工場を中心に活況を呈し,ボルガ川下流地域の行政の中心地ともなった。 この都市を世界的に有名にしたのは,第2次世界大戦の戦局の転機となったスターリングラード攻防戦である。42年7月~43年2月のドイツ軍との戦闘で,全市は廃墟と化し,戦前44万あった人口が1515になったという。…

※「スターリングラード攻防戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

ベートーベンの「第九」

「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...

ベートーベンの「第九」の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android