ポーランド生まれの社会人類学者。クラクフ大学で物理学と数学を学んだが、フレーザーの『金枝篇(へん)』を読んで感動し人類学を志した。1910年にイギリスに渡り、セリグマンCharles Gabriel Seligman(1873―1940)の指導を受けた。1914年から1918年にかけてニューギニア東端北部にあるトロブリアンド島において、参与観察法に基づく集中的な調査を行い、今日の人類学の基礎ともいえるフィールドワークの方法を確立した。1927年にロンドン大学の人類学主任教授となり、エバンズ・プリチャード、フォーテス、ファース、リーチなどその後のイギリス社会人類学を担う学者を数多く指導した。
彼の学問上の功績は、当時の進化論や伝播(でんぱ)論といった歴史主義的な思考方法から脱却し、「文化」と社会の現象を現在的視点にたった調査によって経験的に把握、機能的に説明し、「文化」を構造として理解したことと、機能主義人類学を創始したことである。マリノフスキーの場合、「文化」とは、物質的、行動的、精神的な要素が有機的に関連しあった統合体であり、文化は閉じられた体系なのである。そのことから異文化間の比較が可能になり、本来の目的である文化の普遍的理解を試みようとした。彼の文化的制度が機能的に個々人の生理学的な欲求を充足させるという考え方には、生理学と心理学の影響が強く認められる。この点が、同時代の機能主義者で人類学を社会の規範の研究に限定したラドクリフ・ブラウンと異なっている。ラドクリフ・ブラウンの、自然科学の方法に倣った社会理解が社会人類学の主流を占めるようになり、マリノフスキーが文化の深層にかかわる人間研究を行ったことは、一時期看過されるようになってしまった。彼の文化理解における一般化は、欲求の充足をおもな根拠としているが、それは単純でありすぎるとし、またトロブリアンド島の文化を一般化しすぎると批判されることも多かった。しかしながら、詳細な民族誌的研究は、人類学研究の一つの成果であり、また彼の示した個人と文化の問題は今後いっそう展開されるべき学問的課題といえよう。主著に『西太平洋の遠洋航海者』(1922)、『未開社会における犯罪と慣習』(1926)などがある。
[熊野 建 2018年8月21日]
『B・マリノフスキー著、姫岡勤・上子武次訳『文化の科学的理論』(1958・岩波書店)』▽『マリノフスキー著、藤井正雄訳『文化変化の動態』(1963・理想社)』▽『マリノウスキー著、泉靖一・蒲生正男・島澄訳『未開人の性生活(抄訳)』(1971/新装版・1999・新泉社)』▽『寺田和夫・増田義郎訳『西太平洋の遠洋航海者』(『世界の名著71 マリノフスキー、レヴィ=ストロース』所収・1980・中央公論社/増田義郎訳・講談社学術文庫)』
ソ連の軍人。第一次世界大戦に参加し、1919年赤軍入隊。1926年に共産党に入り、1930年にはフルンゼ陸軍大学を卒業した。スペイン内戦に共和国軍の軍事顧問として参加。独ソ戦では初め師団長、1941年より南部方面軍司令官などを務め、この間スターリングラード戦で活躍、また1944~1945年のルーマニア、ハンガリーなどの解放を指揮した。1944年元帥。ドイツ軍の降伏後、ザバイカル方面軍司令官となり、対日作戦を指揮、戦後は極東軍総司令官を務めた。1956年には第一国防次官兼地上軍総司令官となり、1957年10月、ジューコフ失脚の後を受けて国防大臣(1967年まで)となった。ソ連軍の近代化に大きな功績を残す。
[藤本和貴夫]
帝政ロシアの秘密工作員。金属労働者の出身で、警察への革命運動の情報提供者となる。1912年のボリシェビキ党プラハ協議会で中央委員に選出され、翌年、同党国会議員団長の要職につくが、14年に出奔。スパイ活動の暴露を恐れた当局の要求で国外に隠れたことがわかり、党から除名。革命後、裁判を受け、死刑となった。
[原 暉之]
ポーランド出身のイギリスの社会人類学者。20世紀前半,社会・文化人類学の誕生,その基礎の確立に中心的役割を果たした。宣教師,行政官,商人などが記録した間接資料によって非ヨーロッパ社会の文化,歴史を再構成していたそれまでの民族学の方法ではなく,研究者自身の調査による直接資料に基づいて,対象社会の慣習規則や諸現象を相互の機能的連関において理解しようとする社会・文化人類学の成立は,彼の力にあずかるところが大きい。
彼はオーストリア帝国領であったポーランドのクラクフ市に生まれ,クラクフ大学では物理学の博士号を取得したが,そのころフレーザーの《金枝篇》に強い影響を受け,1910年イギリスに渡る。そしてロンドン・スクール・オブ・エコノミックスに入学,ウェスターマークやC.G.セリグマンの指導のもとですでに着手していたアボリジニーに関する研究を行った。しかし研究者としての真価が発揮されたのは,14年から18年にかけて行ったニューギニア東部のトロブリアンド諸島における調査によってである。彼がこのときに行った,一人の調査者が長期にわたって,現地語を用い,当該社会の生活に加わりながら観察を行う(参与観察participant observation),という調査法は,現在に至るまで人類学の野外調査の範型となっている。この調査からロンドンに戻った彼は,その調査資料に基づき,トロブリアンド諸島民のクラと呼ばれる儀礼的交換(《西太平洋の航海者達》1922),性をめぐる慣習,農耕等の呪術,法と慣習などに関し次々と著作を刊行し,また前述のロンドン・スクールで人類学を講じ,27年には同大学の最初の社会人類学教授となった。その後38年にアメリカに渡るまでのほぼ20年間,イギリスの社会人類学は彼を中心として動いたといえる。
同時期のライバルであるラドクリフ・ブラウンと比べると,同じ構造機能主義といっても心理的解釈への傾きが強く,厳密性と整合性に欠けていたことは否定できない。また,トロブリアンド諸島民を未開民族一般として安易に普遍化する傾向や,晩年の文化理論に見られる心理主義的還元は多くの学者の批判するところである。しかし人類学の転回点において,調査・分析の方法に見せた独創と,研究対象とした社会,文化に対する受容と理解の深さは,彼を今日の社会・文化人類学の創始者の一人とするに足るものである。
執筆者:船曳 建夫
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1898~1967
ソ連の軍人。1926年より共産党員。42年スターリングラード付近でのドイツ軍壊滅戦に司令官として参加し,45年には日本軍との戦闘に参加した。57年に国防相に就任した。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…このような核家族普遍説は,あたかもマードックがはじめて提唱したかのように受けとられているが,この説の源流は,20世紀初頭ごろからしばしば強調されてきた,19世紀的社会進化論とりわけ〈一線的社会進化論〉に対する批判的論説であった。その批判説の代表例としては,オーストラリアのアボリジニー社会における個別家族の存在を証明しようとしたB.マリノフスキーの初期の著書《オーストラリア原住民の家族》(1913)およびモーガンの《古代社会》を批判したR.H.ローウィの主著《原始社会》(1920)があげられよう。ローウィの家族論でとりわけ顕著な点は,単婚小家族に先行して母系氏族の形成を主張するモーガンの〈母系氏族先行説〉に対する徹底的な反論である。…
…また年中行事のうち,新年の儀礼(正月)のように,私たちを取り巻く世界がある時点を通過して,古い状態から新しい状態に変化する際に行われる儀礼も,通過儀礼として考えられる。 これらの研究をうけて,マリノフスキーは,社会にとって儀礼は神話と表裏一体の存在であると考えた。神話が社会の成員に対して最も基本的な規範を言語で示すのに対して,儀礼は神話が示す規範や理想を可視的に劇的に表現するという主張である。…
…クラ交易ともいう。人類学者マリノフスキーが最初に記述し,本来文字を持たない社会の交換や交易の例として知られる。クラはトロブリアンド,アムフレット各諸島,ダントルカストー諸島のドブ語使用地域,トゥベトゥベやミシマ島,ウッドラーク諸島などの,広範囲にわたる慣習や言語の異なる部族社会を閉じた環とし,その圏内を時計回りに赤色の貝の首飾(ソウラバ),逆方向に白い貝の腕輪(ムワリ)の,2種類の装身具が贈物として,リレーのバトン,あるいは優勝旗のように回り続けることを特徴とする。…
…
[前史]
経済人類学の前史は20世紀初め,人類学の中で用意された。人類学者B.K.マリノフスキーは,西太平洋メラネシアのトロブリアンド諸島での原住民生活の多岐にわたる実地調査をもとに《西太平洋の遠洋航海者》(1922)を著し,文化が異なれば経済活動も異なった制度,習慣,法律のもとで異なった動機に基づいて営まれることを示し,異文化の経済生活を説明するのに経済学が想定する最少努力の原理を担う〈原始的経済人〉は〈想像上の役立たずの生きもの〉だと論じた。ほぼ時を同じくして社会人類学を主唱するM.モースが,未開社会における贈与に関する民族誌資料を広く渉猟し,《贈与論》(1925)を著した。…
…前者は交換の動機を経済的なものに限定するのに対して,後者は他の動機にも余地を残している。人類学的な見地からは,たとえばB.マリノフスキーの研究(《西太平洋の遠洋航海者》)で有名な〈クラ交易〉がそうであるように,ひとつの交換制度に経済的動機と並んで,あるいはそれ以上に,宗教的,道徳的,政治的などの動機が結びついているのがむしろ交換本来の姿であると考えられる。すなわちクラ交易の場合,点在する島々のあいだで二つの特殊な品物(赤い貝の首飾と白い貝の腕輪)が環状に互いに逆方向につぎつぎと交換されて回っていく。…
…M.モースは古代社会,未開社会にみられる,食物,財産,女性,土地,奉仕,労働,儀礼等,さまざまのものが贈与され,返礼される互酬的システムを義務的贈答制,あるいは全体的給付関係と名づけ,これを社会的紐帯の根幹とみた。またマリノフスキーはトロブリアンド諸島の調査によって,その部族生活のすべてにギブ・アンド・テークの関係が浸透していて,すべての儀礼や法的・慣習的行為は贈与と返礼を伴って行われると報告し,互酬のうちに法の基本原理を見いだしている。個々の社会関係は,当事者双方が従うべき特定の規範を伴っており,それは行為の形式・順序,あるいはその時と場所等を規定している。…
… 私有財産制が生まれてはじめて,その相続をめぐって子どもの嫡出性が問題にされるようになったとする見解もあるが,相続の対象となるような物的装備がきわめて小さいサンの例はこれに対する有力な反証になろう。また,子どもが母親の氏族の中で生まれ育ち,出自においても母方集団に所属し,相続も母系に従って行われるような場合(=母系制・妻方居住制社会)には,子どもは一様に嫡出子であって,嫡出・非嫡出の区別は問題にならないと主張するブリフォールトRobert Briffaultと,そのような社会においても父親の存在は実際の家族生活の上で,また子どもの完全な法的地位(=嫡出性)のためにも不可欠の条件であるとするB.マリノフスキーとの間で,かつて論争がたたかわされたが,前者の主張と一致しない母系制社会の事例は,マリノフスキーの挙げたトロブリアンド諸島をはじめとして,少なくない。婚姻庶子嫡出でない子【野口 武徳】。…
…
[歴史]
社会人類学を一つの学派として見たとき,それはイギリス流構造機能主義と,少なくともある時期までは同義であった。この学派は1920年代の初めから活躍しだしたマリノフスキーとラドクリフ・ブラウンという,その理論的方向が決して同じではなく,あるときには対立的でもあった2人をその祖として始まった。それぞれの最初の主たる著作(マリノフスキーの《西太平洋の航海者たち》,ラドクリフ・ブラウンの《アンダマン島人》)を同じ年(1922)に出版した後,20年代,30年代には,マリノフスキーはイギリスにおいて,ラドクリフ・ブラウンは南アフリカ,オーストラリア,アメリカにおいてそれぞれ研究活動を続けるとともに,後進の指導,言い換えれば社会人類学者の育成を行った。…
…一般に神聖で非人格的な力をオセアニアに語源をもつマナという言葉で呼ぶが,M.モースは呪術はそのようなマナの観念と結びついていると主張した。この見解はマリノフスキーによって否定されたが,呪術信仰の背後には,もちろん社会によって異なるが,当該社会で信じられている力の観念があると考えられる。
[呪術の諸類型]
呪術の基盤にある原理によってJ.G.フレーザーは呪術を類感呪術homeopathic magicと感染呪術contagious magicとに分けた。…
…1954‐57年には英国フィロロジー学会会長もつとめた。業績は多岐にわたるが,文化人類学者のB.K.マリノフスキーとの協力が契機となり展開された意味の取扱いの枠組みとしての〈場面の脈絡context of situation〉の理論と,音韻論における〈プロソディー分析prosodic analysis〉がとくに知られている。【大束 百合子】。…
…それはイギリスにおける社会人類学の成立を契機とする。B.K.マリノフスキーの機能主義functionalismおよび,ラドクリフ・ブラウンの構造・機能主義structural‐functionalismと呼ばれる立場がそれである。両人はフランスの社会学者É.デュルケームの理論に多くを学び,全体を部分の単なる総和ではなく,機能的統合体もしくは機能的まとまりとしてとらえ,全体の構造と部分の機能を究明することを指向した。…
… また異質な社会との接触も,その社会と法の総体的把握の必要性を感じさせた。イギリスのH.J.S.メーン,B.K.マリノフスキー,アメリカのR.ベネディクトの仕事はその例であるが,これらは植民地統治や占領の必要と結びついていた。 以上に対して,近代資本主義社会自体を批判するマルクス主義に基づく法の総体的分析も,法社会学の潮流の一つをなしている。…
…民族誌が学術資料としての信頼性を獲得したのは,今世紀に入って民族学者が直接フィールド・ワークを行うようになってからのことである。アメリカ人類学の父といわれるF.ボアズとその門下たちの仕事もそうであるが,とくに1920年代にイギリスのB.K.マリノフスキーが参与観察に基づくフィールド・ワークの方法を確立して以後,方法的自覚に基づいた民族誌が書かれるようになった。このような民族誌は,ただ民族学(文化人類学)に資料を提供するばかりでなく,それ自体,特定民族の生活像を描くものとして,完結した意義と価値をもつものというべきである。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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