日本大百科全書(ニッポニカ) 「マリノフスキー」の意味・わかりやすい解説
マリノフスキー(Bronislaw Kasper Malinowski)
まりのふすきー
Bronislaw Kasper Malinowski
(1884―1942)
ポーランド生まれの社会人類学者。クラクフ大学で物理学と数学を学んだが、フレーザーの『金枝篇(へん)』を読んで感動し人類学を志した。1910年にイギリスに渡り、セリグマンCharles Gabriel Seligman(1873―1940)の指導を受けた。1914年から1918年にかけてニューギニア東端北部にあるトロブリアンド島において、参与観察法に基づく集中的な調査を行い、今日の人類学の基礎ともいえるフィールドワークの方法を確立した。1927年にロンドン大学の人類学主任教授となり、エバンズ・プリチャード、フォーテス、ファース、リーチなどその後のイギリス社会人類学を担う学者を数多く指導した。
彼の学問上の功績は、当時の進化論や伝播(でんぱ)論といった歴史主義的な思考方法から脱却し、「文化」と社会の現象を現在的視点にたった調査によって経験的に把握、機能的に説明し、「文化」を構造として理解したことと、機能主義人類学を創始したことである。マリノフスキーの場合、「文化」とは、物質的、行動的、精神的な要素が有機的に関連しあった統合体であり、文化は閉じられた体系なのである。そのことから異文化間の比較が可能になり、本来の目的である文化の普遍的理解を試みようとした。彼の文化的制度が機能的に個々人の生理学的な欲求を充足させるという考え方には、生理学と心理学の影響が強く認められる。この点が、同時代の機能主義者で人類学を社会の規範の研究に限定したラドクリフ・ブラウンと異なっている。ラドクリフ・ブラウンの、自然科学の方法に倣った社会理解が社会人類学の主流を占めるようになり、マリノフスキーが文化の深層にかかわる人間研究を行ったことは、一時期看過されるようになってしまった。彼の文化理解における一般化は、欲求の充足をおもな根拠としているが、それは単純でありすぎるとし、またトロブリアンド島の文化を一般化しすぎると批判されることも多かった。しかしながら、詳細な民族誌的研究は、人類学研究の一つの成果であり、また彼の示した個人と文化の問題は今後いっそう展開されるべき学問的課題といえよう。主著に『西太平洋の遠洋航海者』(1922)、『未開社会における犯罪と慣習』(1926)などがある。
[熊野 建 2018年8月21日]
『B・マリノフスキー著、姫岡勤・上子武次訳『文化の科学的理論』(1958・岩波書店)』▽『マリノフスキー著、藤井正雄訳『文化変化の動態』(1963・理想社)』▽『マリノウスキー著、泉靖一・蒲生正男・島澄訳『未開人の性生活(抄訳)』(1971/新装版・1999・新泉社)』▽『寺田和夫・増田義郎訳『西太平洋の遠洋航海者』(『世界の名著71 マリノフスキー、レヴィ=ストロース』所収・1980・中央公論社/増田義郎訳・講談社学術文庫)』
マリノフスキー(Rodion Yakovlevich Malinovskiy)
まりのふすきー
Родион Яковлевич Малиновский/Rodion Yakovlevich Malinovskiy
(1898―1967)
ソ連の軍人。第一次世界大戦に参加し、1919年赤軍入隊。1926年に共産党に入り、1930年にはフルンゼ陸軍大学を卒業した。スペイン内戦に共和国軍の軍事顧問として参加。独ソ戦では初め師団長、1941年より南部方面軍司令官などを務め、この間スターリングラード戦で活躍、また1944~1945年のルーマニア、ハンガリーなどの解放を指揮した。1944年元帥。ドイツ軍の降伏後、ザバイカル方面軍司令官となり、対日作戦を指揮、戦後は極東軍総司令官を務めた。1956年には第一国防次官兼地上軍総司令官となり、1957年10月、ジューコフ失脚の後を受けて国防大臣(1967年まで)となった。ソ連軍の近代化に大きな功績を残す。
[藤本和貴夫]
マリノフスキー(Roman Vatslavovich Malinovskiy)
まりのふすきー
Роман Вацлавович Малиновский/Roman Vatslavovich Malinovskiy
(1876―1918)
帝政ロシアの秘密工作員。金属労働者の出身で、警察への革命運動の情報提供者となる。1912年のボリシェビキ党プラハ協議会で中央委員に選出され、翌年、同党国会議員団長の要職につくが、14年に出奔。スパイ活動の暴露を恐れた当局の要求で国外に隠れたことがわかり、党から除名。革命後、裁判を受け、死刑となった。
[原 暉之]