スピノラ(読み)すぴのら(その他表記)Carlo Spinola

デジタル大辞泉 「スピノラ」の意味・読み・例文・類語

スピノラ(Carlo Spinola)

[1564~1622]イタリア宣教師イエズス会士。慶長7年(1602)来日し、各地に布教。京都にアカデミアを設立。のち、禁教令により捕らえられ、火刑にされた(元和げんな大殉教)。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「スピノラ」の意味・読み・例文・類語

スピノラ

  1. [ 一 ] ( Carlo Spinola カルロ━ ) イタリアの宣教師。イエズス会修道士。慶長七年(一六〇二)長崎に渡来して布教、京都で数学・天文学を講授。同一九年の大追放令後も長崎に残留し、捕えられ火刑に処せられて殉教した。(一五六四‐一六二二
  2. [ 二 ] ( Cristobal Rojas de Spinola クリストバル=ロハス=デ━ ) スペインカトリック神学者。オランダ生まれ。ドイツ・オーストリア皇帝レオポルド一世に仕え、外交使節として活躍、カトリックとプロテスタントの教会を一致させようと努力した。(一六二六頃‐九五

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「スピノラ」の意味・わかりやすい解説

スピノラ(Carlo Spinora)
すぴのら
Carlo Spinola
(1564―1622)

イタリア人宣教師、福者殉教者。イエズス会士として日本伝道に従事し、1602年(慶長7)長崎に上陸、有馬(ありま)に布教する。1605年京都に上り、司牧慈善活動に専心する一方、南蛮寺に数学・天文学のアカデミアを設立した。彼はドイツの天文学者で、グレゴリオ暦の提案者クラビウスの指導を受け、マテオ・リッチと同門であった。1612年長崎に帰来し、日本で初めて月食の科学的観測を行った。彼はキリシタン迫害下にあってよく異教徒に伝道し、洗礼を授けたが、1618年(元和4)に捕らえられ、1622年(元和(げんな)8)9月10日、神父、信徒25名とともに長崎立山(たてやま)における大殉教(元和大殉教)で火刑に処せられた。

[磯見辰典 2018年2月16日]


スピノラ(António Sebastião Ribeiro de Spínola)
すぴのら
António Sebastião Ribeiro de Spínola
(1910―1996)

ポルトガルの軍人、政治家。当時、植民地であったギニア・ビサウの総督兼駐留軍司令官(1968~1973)として軍事と行政の両面で名をあげ、1973年国軍参謀次長に任命されるが、1974年『ポルトガルとその将来』を著して政府の軍事偏重の植民地統治策を批判し解任された。こうして若手将校たちの希望の星となった彼は、1974年4月の軍事クーデターの成功により5月に大統領となるが、ゴンサルベス内閣の左翼急進主義と衝突して9月に辞任した。翌1975年3月の反政府クーデターに失敗し、ブラジルに亡命したが、軍急進派の失脚後の1976年に帰国した。

[平瀬徹也]

『金七紀男訳『ポルトガルとその将来――国家の状況分析』(1975・時事通信社)』


スピノラ(Christoph Roias de Spinola)
すぴのら
Christoph Roias de Spinola
(1626ころ―1695)

プロテスタントとの合同を唱えたスペインのカトリック神学者。オランダで生まれ、フランシスコ会に入会し、修道者となった。オーストリアのウィーナー・ノイシュタットの司教となる。皇帝レオポルト1世に外交使節をゆだねられ、カトリックとプロテスタントの一致のために努力した。プロテスタント神学者モラヌスGerhard Wolter Molanus(1633―1722)や哲学者ライプニッツとの忍耐強い交渉は有名。またドイツ諸侯と折衝を重ね、ローマを三度訪ねて、教会一致の公会議を開こうと努力したが、フランスの反対にあって不成功に終わった。

[門脇佳吉 2017年11月17日]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

朝日日本歴史人物事典 「スピノラ」の解説

スピノラ

没年:元和8.8.5(1622.9.10)
生年:1564
イタリア人イエズス会司祭,殉教者。スペインのマドリードに生まれる。1584年イエズス会入会。ナポリコレジョ(学院)で修練を終えたが吐血し,転地療養のためにミラノに行く途中,ローマでクラヴィウスの下に数学を学ぶ。ミラノで哲学,神学を学び,数学を講じた。1594年司祭となり,東洋布教の嘆願書を出す。1596年インドに向けてリスボンを出帆したが,英国船に拿捕される。1599年再びリスボンをたち,モザンビーク,ゴア,マラッカ,マカオを経由して慶長7(1602)年長崎に到着。有馬のセミナリオ(神学校)で日本語を学び,同9年島原の有家から京都に移った。京都では南蛮寺で知識人に科学知識,技術を伝授。同16年長崎へ移動,会計係を務めた。マカオにいるイエズス会士と図り長崎―マカオ間で月食を観察し経度の測定を行った。同19年のキリシタン禁教令発布時には「十字架のジュゼッペ」と変名し長崎に潜伏,そのまま布教活動を続けた。元和4(1618)年長崎で捕らえられ,大村の鈴田牢に投獄される。牢は竹の鳥籠のように太い角材で作られ,その吹きさらしの牢内で,4年間一度も入浴,散髪することなく,熱病に苦しみながら過ごした。同8年長崎西坂にて55(または57)人が火焙り,および斬首によって殉教(元和の大殉教)したなかのひとり。慶応3(1867)年福者となる。<参考文献>宮崎賢太郎訳『カルロ・スピノラ伝』

(宮崎賢太郎)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「スピノラ」の意味・わかりやすい解説

スピノラ
Carlos Spinola
生没年:1564-1622

イタリア人イエズス会士。ジェノバに生まれ,1594年ミラノで司祭叙階。日本布教を志し,96年リスボン発,ブラジル漂着後,プエルト・リコを経てリスボンへ向かう途中,イギリス船に捕らえられ,ロンドンで釈放された。1600年,再びリスボン発,マカオを経て02年(慶長7)長崎来着。有馬を経て05年京都で会計係となり,ローマ在学時代にクラビウスから学んだ数学,天文学を教授した。12年長崎に戻って会計係となり,同年11月8日の月食を長崎で観測,マカオのアレニら中国イエズス会士の観測と合わせて,長崎の経度を明らかにした。日本における月食の科学的観測の嚆矢(こうし)である。18年(元和4)同地で捕らえられ,大村の鈴田に入牢後,22年長崎で殉教(元和(げんな)大殉教)。1867年,福者となる。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「スピノラ」の意味・わかりやすい解説

スピノラ
Spinola, Carlo

[生]1564. イタリア,ジェノバ,タッサロ
[没]元和8 (1622).8.5. 長崎
福者殉教者,イタリア人イエズス会士。早くから殉教を念願,同会修練院などで神学,哲学,数学を修めた。日本伝道を切望,慶長7(1602)年長崎に上陸。熱心な伝道のかたわら同10年頃から京都に天文,数学を主とするアカデミアを設け,同17年マカオのイエズス会と連係して日本初の科学的観測となる月食観測を行なった。元和8(1622)年の元和大殉教で火刑に処せられた。慶応3(1867)年福者に列せられた。

スピノラ
Spínola, António Sebastião Ribeiro de

[生]1910.4.11. エストレモス
[没]1996.8.13. ポルトガル,リスボン
ポルトガルの軍人,政治家。リスボン大学卒業後,軍に入り 1961年大佐,69年大将。 68年から 73年までポルトガル領ギニア駐留軍司令官兼総督,73年ポルトガル軍参謀次長。 74年2月ポルトガルの植民地政策を批判した『ポトスの将校』の出版により,4月解任。4月 25日に若手将校グループ「軍部運動」が無血クーデタに成功し,40年以上続いた独裁政治に終止符を打つとスピノラは救国軍事評議会議長となり,大統領に就任するが,左派の圧力で9月辞任。 75年3月クーデタ未遂事件でブラジルへ亡命。 76年8月帰国,78年将軍に復帰。 81年元帥就任。

スピノラ
Spinola, Ambrogio di Filippo, Marqués de los Balbases

[生]1569. ジェノバ
[没]1630.9.25. カステルヌオボスクリビア
イタリア出身のスペインの軍人。スペインに仕えて 1603~09年の対オランダ戦争に従軍し,ナッサウ家に対する輝かしい勝利で武勲をあげた。 21~27年スペイン軍将校として再び対オランダ戦を指揮し,ブレダ攻略で勇名をはせた。のち,マントバ継承戦争のスペイン軍司令官としてイタリアにおもむき当地で死亡。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

山川 世界史小辞典 改訂新版 「スピノラ」の解説

スピノラ
António de Spínola

1910~96

ポルトガル,1974年革命の中心人物の一人。職業軍人としてキャリアを積み,植民地戦争時にはギニア総督兼総司令として活躍。植民地政策の転換を訴え『ポルトガルとその将来』を著し,国軍運動の中心人物となる。革命後,臨時大統領(在任1974)。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「スピノラ」の解説

スピノラ Spinola, Carlo

1564-1622 イタリアの宣教師。
1564年12月23日生まれ。イエズス会士。慶長7年(1602)長崎に上陸。10年京都にゆき南蛮寺で会計係をつとめるかたわら小天文台をつくり,天文学なども教授した。17年長崎にもどり,月食観測をおこなう。19年の大追放令後も潜伏・布教したが元和(げんな)4年捕らえられ,8年8月5日火刑に処せられた(元和の大殉教)。57歳。

出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例

世界大百科事典(旧版)内のスピノラの言及

【ジェノバ】より

…ランゴバルド時代には衰え,10世紀にはイスラム海軍のたび重なる攻撃を受けた。カロリング朝断絶後,この地方はオベルテンギ家の所領となり,その家臣の中から後にデラ・ボルタ,スピノラなどの有力な都市貴族が出ることになる。10世紀には市壁が築造され,周辺農村からこれらの貴族層が都市へ移住した。…

【マウリッツ】より

…その間1590年ユトレヒト同盟の陸海軍総司令官に就任,古代ローマの戦術の研究に基づいて軍隊の再編整備につとめ,同盟諸州からスペイン軍を駆逐してオランダ共和国の基礎を築いた。1600年ニウポールトNieuwpoortでも勝利したが,以後はスペインの勇将スピノラAmbrogio Spinola(1569‐1630)の反撃に阻まれた。〈十二年休戦条約〉期(1609‐21)に,〈厳格カルバン派(ホマルス派)〉を支持して,〈アルミニウス派〉と結ぶホラント州議会と対立,その指導者オルデンバルネフェルトを逮捕(1618),翌年処刑した。…

※「スピノラ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android