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タレーラン Talleyrand(Talleyrand-Périgord), Charles-Maurice de, Prince et Duc de Bénévent

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

タレーラン
Talleyrand(Talleyrand-Périgord), Charles-Maurice de, Prince et Duc de Bénévent

[生]1754.2.2. パリ
[没]1838.5.17. パリ
フランスの政治家。絶対王政期,フランス革命期,総裁政府期,ナポレオン時代,王政復古期,ルイ・フィリップ時代に高官として活躍し,史上傑出した外交官の一人として知られる。幼少の頃事故が原因で足が不自由となり,聖職者を志した。 1770年パリのサンシュルピス神学校に入学。 78年ソルボンヌで神学の学位を取得。翌年ランスの司教総代理,88年名門の出自ゆえにオータンの司教となった。 89年5月の全国三部会に聖職者代表として参加し,三身分の統一に尽力。革命期に立憲派として教会財産の没収を提案し,「僧侶民事基本法」の成立に貢献。 97年ナポレオン (1世) の執政政府の外相に就任,1807年までつとめた。その間,04年帝国大法官となる。その後ナポレオンとの間に意見の対立が生じ,14年ブルボン朝を支持してナポレオンの退位を宣言。 14~15年ウィーン会議に出席,戦勝国オーストリアとイギリスとの分断画策に成功,歴史上外交技術の最高実例とみなされている。七月革命ではルイ・フィリップに協力,その後ロンドン駐在大使としてイギリス,フランス間交渉に最も重要な役割を果し,ベルギーの独立を助けた。

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百科事典マイペディアの解説

タレーラン

フランスの政治家,外交官。フランス革命前は司教。革命期に国民議会議員。総裁政府から第一帝政にかけ外相であったが,1808年ごろよりブルボン家復活のために暗躍。ルイ18世の下ではウィーン会議で辣腕(らつわん)を示し,正統主義をかざして巧妙に列国を牽制(けんせい)した。
→関連項目正統主義メートル法

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世界大百科事典 第2版の解説

タレーラン【Charles Maurice de Talleyrand‐Périgord】

1754‐1838
フランスの政治家,外交官。名門貴族に生まれたが,幼時の事故で片足が不自由になったためもあって神学校に入れられ,1775年聖職者になり,88年オータンの司教に任じられた。その間,才能と学識によってパリの社交界で知られ,かなり放埒(ほうらつ)な生活を送った。フランス革命に際しては,89年に全国三部会の聖職身分議員として国民議会の成立に貢献し,財政改善のために教会財産の国有化を実現させるなど,革命派として活躍した。

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大辞林 第三版の解説

タレーラン【Charles Maurice de Talleyrand-Périgord】

1754~1838) フランスの政治家。司教だったが革命を支持して教会財産国有化を提案し教皇より破門。革命時代・ナポレオン帝政時代・ブルボン王政復古時代を通して数度外相となり、ウィーン会議では正統主義を唱えてフランスの利益擁護に活躍。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

タレーラン
たれーらん
Charles Maurice de Talleyrand-Prigord
(1754―1838)

フランスの政治家、外交官。名門貴族の長男として1754年2月13日生まれたが、幼時の事故で片足を痛めたため軍人の道を断念し、サンシュルピス神学校に学んだ。家柄の力で1788年ブルゴーニュのオータンの司教となるが、政治改革に心ひかれて、大革命直前、三部会聖職身分議員となる。立憲君主主義者としてミラボーに協力し、1789年、教会財産国有化の提案者となり、国民議会議長(1790)となるが、教皇破門された。1792年使節としてイギリスに派遣されて亡命を決意し、イギリスついでアメリカに滞在した。1796年に帰国し、翌1797年総裁政府の外相に就任するが、総裁政府に見切りをつけ1799年に辞任し、自らも一役買った同年のブリュメール一八日のクーデター直後ふたたび外相となった。フランスの勝利よりもヨーロッパの勢力均衡と平和を重視する彼はイギリス、オーストリアとの和解に努めた。
 帝政成立(1804)後はナポレオン1世の侍従長(1804~1808)を兼ねたが、しだいに彼の好戦的政策に失望して1807年外相を辞任し、ナポレオンの没落を画策した。1814年タレーランの尽力によりブルボン王朝が復活すると、功を買われて外相に起用され、ウィーン会議では正統主義を唱え、列強の利害の対立を巧みに利用してフランスの国際的地位の復活に多大の貢献をした。ナポレオンの百日天下(1815年3~6月)ののち短期間(2か月半)首相を務めたが、極右派の圧力により辞任した。
 1830年の七月革命ではオルレアン家のルイ・フィリップの即位に貢献し、駐英大使(1830~1834)としてベルギーの独立を助けた。1838年肺壊疽(えそ)との診断を受け、5月14日手術。経過悪く同月17日死去。死の直前ふたたびカトリックとなったが、その生涯はあらゆる現世的快楽の追求に彩られていた。なお、画家ドラクロワは彼の隠し子であったというのが通説である。[平瀬徹也]
『ダフ・クーパー著、曽村保信訳『タレイラン評伝』(1963・中央公論社)』

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世界大百科事典内のタレーランの言及

【ウィーン会議】より

…会議には200人以上の国家の代表が参加し,オーストリア外相メッテルニヒが議長となった。またロシアからは皇帝アレクサンドル1世がみずから出席し,そのほかイギリス外相カースルレー,プロイセン首相ハルデンベルク,フランス代表タレーランが議場の主役を務めた。当初,イギリス,オーストリア,プロイセン,ロシアの四大国は自分たちだけでヨーロッパの領土的再編を取り決め,同じくパリ講和(パリ条約)に参加したスペイン,ポルトガル,スウェーデンの3国には事後承諾させればよいと考えた。…

【ドラクロア】より

…フランスの画家。フランス革命で活躍し,政府高官を務めたシャルルを父に,著名な家具師エーベンŒbenの娘ビクトアールを母にもったが,本当の父親はタレーランだとする説が今日では有力である。若くして両親を失ったが,リセ・アンペリアルで古典の基礎を身につけ,1815年ゲランGuérinのアトリエにはいり,年長のグロやジェリコーと知り合う。…

※「タレーラン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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