度量衡の単位の世界的,永世的な統一を目標に,1795年にフランスで制定された十進法による度量衡単位系およびそこから発展した計量単位系の総称。フランスにおける制定の際,長さの単位をメートルmètreと呼び,単位系全体の基礎としたためこの名がある。
フランス革命以前のフランスの度量衡単位系はそれに含まれる多くの単位が古代ローマ時代に由来し,ヤード・ポンド法の単位とよく似た単位であって,それ自体複雑な体系であるうえに,度量衡の制定権を地域の封建領主が握っていたため,錯雑をきわめていた。産業,交易や科学,技術が発展するにつれて単位の不統一による不利益は広く認識され,国王の側からの改革も再三試みられたが,影響力の及ぶ範囲は限られ,17,18世紀の絶対王制の下にあっても状況は改善されないままであった。
しかしその間にも度量衡の改革理念は徐々に進化していた。ヨーロッパに十進法が紹介されたのは12世紀のことであるが,15世紀にはそれを用いた算法が広まり,1585年には十進法小数を度量衡と貨幣の単位に適用することが提唱された。また1670年には地球の子午線や振り子を利用した自然物による度量衡標準の考えや,単位の倍量,分量に十進法による接頭語を用いる方法が提案されている。
フランス革命が起こった翌年の1790年に,度量衡単位の統一をイギリスとフランスが共同して行い,その標準として秒打ち振り子の長さを用いるという議案が国民議会に提出された。議会はこの提案をいれ,イギリス議会に対して,ローヤル・ソサエティとアカデミー・デ・シアンスとが共同で委員会を作り,度量衡単位全体の不変の標準を作るよう要請し,アカデミー・デ・シアンスに対し標準作成作業を委任した。アカデミー・デ・シアンスは長さの標準として長さと同じ性質の地球の円弧を採り,均斉度の比較的よくわかっている赤道から北極までの子午線四分弧を選び,パリを通る子午線上にあるフランス北部のダンケルクとスペイン北部のバルセロナの近郊間で測定を行うことにした。イギリスは振り子方式をよしとして参加せず,標準作成作業はフランス単独で行うことになった。しかし革命直後の社会情勢から作業は進まず,93年に議会はとりあえず新しい単位系の構成のみを定めた。このときの単位系は単位の名称も後のものとは異なり,接頭語も分量単位用のものしか用いられていない。
95年に議会はこれを改訂して,新しい単位の名称と定義を採用し,倍量単位,分量単位双方の接頭語を定め,かつ,従前の測量結果を用いて新旧の単位間の予備的な換算関係をきめ,それに基づく基準器を作って全国に配布した。その共和国度量衡の単位系の構成は次のとおりである(ただし定義は省略)。
長さの単位-メートル,質量の単位-グラム,容量の単位-リットル,地積の単位-アール,体積の単位-ステール(まき1立方メートル),分量用の接頭語-デシ,センチ,ミリ,倍量用の接頭語-デカ,ヘクト,キロ,ミリアmyria(=104)。
これらの単位の名称や接頭語は,国際性をもたせ民族性を帯びさせないために,ギリシア語やラテン語から導かれている。98年に至って三角測量が完了し,99年の法律によって新旧両単位系の基本単位の間の換算関係が確定され,さらに新単位の大きさをもっともよい精度で示す標準器として白金製のメートル尺とキログラム分銅が採用され,新しい単位系が現実のものとして完成した。その単位系をこの法律はメートル法système métriqueと呼んでいる。
メートル法はフランス国内においても当初強い抵抗を受けたが,1840年から専用段階に入り,国際化に努めた。60年代に入りさまざまな学術団体からその国際化が要請され,72年に国際原器と国際的標準維持機関を作ることがきまり,75年のメートル条約の締結,それに基づく国際度量衡局の設立,89年の第1回国際度量衡総会による国際メートル原器,国際キログラム原器および各国原器の承認を経て,メートル法は国際的な標準供給の手段と組織に裏づけられた世界共通の単位系として確立した。
他方,単位系の構成は科学,技術への適用とともに多種類の物理量の単位が作られ,同一種類の物理量についても各使用領域につごうのよい多様な単位ないし単位系が作られるようになった。そのおもなものは,物理学のCGS単位系,電気の実用単位系,工学の重力単位系などである。このような状況はメートル法の制定目的に反する。その解決策として1901年に提唱されたのがMKS単位系であり,60年の国際度量衡総会で採用された国際単位系(SI)はそれの適用領域を広げかつ体系的に整備したものである。この国際単位系がメートル法の現代型であり,世界各国はこの単位系の採用によるメートル法化を推進している。なお,メートル法の単位の定義や標準は,科学,技術の進歩とともによりよい精度と再現性,安定性を求め,ふたたび人工物から自然物に依拠する方向に進んでいる。
→国際単位系
執筆者:三宅 史
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
18世紀の末期、度量衡の単位を国際的に統一するためフランスがつくりあげた単位系。18世紀に入ると国際貿易が盛んになり、また地図を整える必要が生じてきた。その一方ヨーロッパ諸国の度量衡の混乱は甚だしく、単位系を改革することの必要性は、学者間にはもちろん、一般社会の各層にも感じられるようになっていた。1789年のフランス全国の総議会である三部会の政府に対する意見書にも、度量衡の統一があげられている。1790年にはタレーランが国民議会に、一秒打ちの振り子の長さを基準にすることを提案している。この案は5月8日国民議会に承認され、政令により「いかなる国でも採用できる新しい単位系」を創設する任務がパリ科学学士院に与えられた。
そこでパリ科学学士院はボルダ、ラグランジュ、ラボアジエ、チレー、コンドルセらによる委員会を設けて検討した結果、新単位系の基礎として地球子午線長の4分の1をとり、その実測を行うこと、および0℃における既知体積の蒸留水の質量の測定を行うことなどを決定した。この案は国民議会によって承認され、地球子午線の測量は、パリを通る線に沿ってダンケルクとバルセロナ間を実測することとし、ドランブルJean-Baptiste Joseph Delambre(1749―1822)とメシャンPierre François André Méchain(1744―1804)があたり、水の密度の測定はラボアジエがあたって作業が開始された。しかし測量はスペインとの関係が悪化して延引し、ラボアジエはフランス革命の恐怖政治のなか死刑に処されたことなどにより、作業が終わったのは1798年であった。またフランス政府は、この作業を国際的なものにするためイギリスとアメリカに協力を呼びかけたが、いずれからも拒否された。したがってメートル法の設定作業はフランスが単独で行ったのである。この測量作業と併行して、1740年ラカイユの測定による地球子午線長の4000万分の1を基礎にした暫定メートル法がボルダなどによってつくられ、1793年国民議会によって採択された。この単位系は十進法で、長さにメートル、面積にアール、体積にリットル、重量(質量)にグラム(のちにはキログラム)をとり、今日のものの原型になっている。単位の名称は各国の国民感情を考慮して、すべてギリシア語とラテン語によっている。
実測の結果に基づいた新原器は白金でつくられ1799年共和国文書保管所に納められ、この原器による法令が公布されて、メートル法は実質的に完成した。これを記念してつくられたメダルには「すべての時代に、すべての人々に」と刻まれている。
しかしその普及は遅々として進まず、1812年にはナポレオンが旧に復して混乱を助長したが、1840年1月以後は他系の単位を禁止する法令によって統一は軌道にのり、その後イタリア、オランダなど他国にも採用されるようになった。そこで1870年ナポレオン3世が国際会議を招集したところ、24か国270名が集まり、ここで新しい原器や国際度量衡局の設置に関する決議が行われ、ついで1872年のメートル法国際会議で、メートル条約の前提となる詳細な取決めが行われた。さらに1875年3月にメートル法外交官会議が開かれ、5月にメートル条約の最終的な決定をみた。国際度量衡局にはパリ郊外セーブルのルイ14世の建てた宮殿があてられ、1875年10月国際度量衡委員会に引き渡された。
新しい多数の原器は1888年に完成し、国際原器が決定され、各国原器が配布された。1921年には条約が改正され、科学の発展によって必要となった度量衡以外の量の単位もメートル法に含めて扱うようになった。しかしこのころからメートル法もいくつかの単位系に分かれるようになり、第二次世界大戦後これらをふたたび統一するため、1960年国際単位系(SI)が決議された。
[小泉袈裟勝・今井秀孝]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
(今井秀孝 独立行政法人産業技術総合研究所研究顧問 / 2008年)
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報
メートル(m,長さ)とキログラム(kg,質量)を基本とする10進法の計量単位体系。フランス革命期の度量衡統一に際し,ラヴォワジェ,コンドルセらが参画し,子午線の長さを基準にして定められた。1799年フランスで正式に採用され,1875年メートル条約により国際的な度量衡体系となった。日本は85年(明治18年)メートル条約に加入し,1921年(大正10年)採用を定め,59年(昭和34年)より統一的に施行された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
メートル系統の長さの単位を基本に長さ・面積・体積を表示し,その体積の最大密度の水の重量を基準に重量を表示する度量衡の方式。1791年フランス科学アカデミーが,地球子午線の1象限(しょうげん)の1000万分の1を1mとする方式を決定,バルセロナ―ダンケルク間の三角測量により原器を作成。1875年のメートル条約締結を契機に世界的に普及。日本は1885年(明治18)に加盟したが,度量衡法を制定して尺貫法をとるなど混用が続いた。1951年(昭和26)計量法が制定され,66年以降メートル法にいちおう統一された。現在ではより統一性の高いSI(国際単位系)が採用されている。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…時代は18世紀の末に近づいていた。
[メートル法の成立と普及]
18世紀末の時代の特徴は,自由,平等,博愛の理念やフランス革命の動向の中にのみみられるものではなく,イギリスからヨーロッパ大陸へ波及した産業革命の推移,それと並行する資本主義経済の成熟と広域化などとの関連においてもとらえられなければならないが,より具体的にみれば,交通(とくに航海)や通信の技術と運用制度の高度化が開始されて,多数の人の移動,大量の物資の輸送と交易,そして多彩な情報の交流が可能になった点などにも,この時代の特色を認めることができるであろう。地域,職域を超えた単位の統一という発想は,まさしくこれらの特色に呼応して顕現してきたのであるが,その実行にあたって,特定の先進国の利益に通ずる要素がきびしく排除され一挙に全地球的な構想がたてられたのは,史上まれな快挙であったと評してよい。…
…中国の伝統を受けついだ日本の史上の度量衡(尺貫法と呼ばれた)においても,十進法が優位を示していた。 十進法による度量衡の体系が全世界的な規模で論議され始めたのは,18世紀末のメートル法創始期になってからのことである。その理念は,現代の国際単位系(SI)普及という企ての中に結実しつつあるが,度量衡の体系を十進法に整合させるというこの全世界的な事業は,中国での史上の成功とは対照的に,今日なお貫徹されているとはいえない。…
…一方,政府は85年メートル条約に加入した。以来,国の近代化のため,枡以下の度量衡器を支えてきた尺貫法に替わり,メートル法を採用する努力を重ねてきた。その間幾多の困難はあったが,ついに1959年1月1日を期してメートル法の完全実施を断行した。…
※「メートル法」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新