日本大百科全書(ニッポニカ) 「メートル法」の意味・わかりやすい解説
メートル法
めーとるほう
18世紀の末期、度量衡の単位を国際的に統一するためフランスがつくりあげた単位系。18世紀に入ると国際貿易が盛んになり、また地図を整える必要が生じてきた。その一方ヨーロッパ諸国の度量衡の混乱は甚だしく、単位系を改革することの必要性は、学者間にはもちろん、一般社会の各層にも感じられるようになっていた。1789年のフランス全国の総議会である三部会の政府に対する意見書にも、度量衡の統一があげられている。1790年にはタレーランが国民議会に、一秒打ちの振り子の長さを基準にすることを提案している。この案は5月8日国民議会に承認され、政令により「いかなる国でも採用できる新しい単位系」を創設する任務がパリ科学学士院に与えられた。
そこでパリ科学学士院はボルダ、ラグランジュ、ラボアジエ、チレー、コンドルセらによる委員会を設けて検討した結果、新単位系の基礎として地球子午線長の4分の1をとり、その実測を行うこと、および0℃における既知体積の蒸留水の質量の測定を行うことなどを決定した。この案は国民議会によって承認され、地球子午線の測量は、パリを通る線に沿ってダンケルクとバルセロナ間を実測することとし、ドランブルJean-Baptiste Joseph Delambre(1749―1822)とメシャンPierre François André Méchain(1744―1804)があたり、水の密度の測定はラボアジエがあたって作業が開始された。しかし測量はスペインとの関係が悪化して延引し、ラボアジエはフランス革命の恐怖政治のなか死刑に処されたことなどにより、作業が終わったのは1798年であった。またフランス政府は、この作業を国際的なものにするためイギリスとアメリカに協力を呼びかけたが、いずれからも拒否された。したがってメートル法の設定作業はフランスが単独で行ったのである。この測量作業と併行して、1740年ラカイユの測定による地球子午線長の4000万分の1を基礎にした暫定メートル法がボルダなどによってつくられ、1793年国民議会によって採択された。この単位系は十進法で、長さにメートル、面積にアール、体積にリットル、重量(質量)にグラム(のちにはキログラム)をとり、今日のものの原型になっている。単位の名称は各国の国民感情を考慮して、すべてギリシア語とラテン語によっている。
実測の結果に基づいた新原器は白金でつくられ1799年共和国文書保管所に納められ、この原器による法令が公布されて、メートル法は実質的に完成した。これを記念してつくられたメダルには「すべての時代に、すべての人々に」と刻まれている。
しかしその普及は遅々として進まず、1812年にはナポレオンが旧に復して混乱を助長したが、1840年1月以後は他系の単位を禁止する法令によって統一は軌道にのり、その後イタリア、オランダなど他国にも採用されるようになった。そこで1870年ナポレオン3世が国際会議を招集したところ、24か国270名が集まり、ここで新しい原器や国際度量衡局の設置に関する決議が行われ、ついで1872年のメートル法国際会議で、メートル条約の前提となる詳細な取決めが行われた。さらに1875年3月にメートル法外交官会議が開かれ、5月にメートル条約の最終的な決定をみた。国際度量衡局にはパリ郊外セーブルのルイ14世の建てた宮殿があてられ、1875年10月国際度量衡委員会に引き渡された。
新しい多数の原器は1888年に完成し、国際原器が決定され、各国原器が配布された。1921年には条約が改正され、科学の発展によって必要となった度量衡以外の量の単位もメートル法に含めて扱うようになった。しかしこのころからメートル法もいくつかの単位系に分かれるようになり、第二次世界大戦後これらをふたたび統一するため、1960年国際単位系(SI)が決議された。
[小泉袈裟勝・今井秀孝]