日本大百科全書(ニッポニカ) 「ミラボー」の意味・わかりやすい解説
ミラボー(comte de Mirabeau, Honoré Gabriel Riqueti)
みらぼー
comte de Mirabeau, Honoré Gabriel Riqueti
(1749―1791)
フランス革命期の政治家。重農主義の経済学者ミラボー侯Marquis de Mirabeauを父として3月9日に生まれる。1767年18歳で軍籍に入ったが、3年後には除隊し、乱行と浪費の波瀾(はらん)の青年期を送り、1772年貴族の出のエミリと結婚した。父は幾たびも封印状によってミラボーを拘囚。ジュラ地方の要塞(ようさい)監獄にいたとき、司令官夫人ソフィとオランダに逃走し、1777年から3年間バンセンヌに投獄され、そこで『ソフィへの書簡』を書き、知的形成を行った。エクス高等法院廷におけるエミリの離婚訴訟に対する弁論の大演説は国外にも知られた。1786年からベルリンを訪問して大著『プロイセン王国論』(1788)を発表、文筆活動に携わった。1789年エクス、マルセイユから三部会の第三身分議員に選出され、政治生活に入り、魁偉(かいい)な容貌(ようぼう)とその雄弁によって、幾たびか議会を制圧し、パリ市民の人気を博した。愛国税、教会財産国有化法案を支持したが、君主主義者として1790年の憲法論争では国王の拒否権、宣戦講和権を主張。君主制を守ろうとし、友人を介してルイ16世に革命の凍結をねらう覚書を送り、年金を受けた。さらに同年7月マリ・アントアネットとの秘密会見が明らかとなり、議会への裏切りが糾弾された。しかしその人気は回復し、1791年3月には議長となったが、同年4月2日、腎石仙痛(じんせきせんつう)で急死した。遺体はパンテオンに葬られたが、1792年の民衆蜂起(ほうき)、いわゆる「八月十日事件」のとき、宮廷に送った彼の書類が発見されてパンテオンから除かれた。
[井上幸治]
『井上幸治著『ミラボーとフランス革命』(1949・木水社)』
ミラボー(marquis de Mirabeau, Victor Riquetti)
みらぼー
marquis de Mirabeau, Victor Riquetti
(1715―1789)
フランスの経済学者。革命期の政治家ミラボー伯の父。初め軍職にあったが、退役後経済学の研究に専心するようになり、カンティヨンの『商業一般の性質に関する研究』Essai sur la nature du commerce en général(1755)の手稿を入手して、これを簡略にしたもの(あるいは盗作)を自己の著作として発表しようとしたが、手稿の返却を求められたため、予定を変更して『人間の友あるいは人口論』L'Ami des hommes, ou Traité de la population(1756)を発表した(実際の出版は1757年)。彼はこの書で、フランスの富の増大のためには、コルベール主義のもとで減少した農村人口を回復し増大することが先決であるとした。「人口」論という書名をもつ最初の著作とされる。ケネーの『経済表』Tableau économique(1758)の前年の著作であり、好評を博し、以後次々と続編を追加して大著となる。『経済表』の出現後はケネーの理論に共鳴し、人口主義者の立場は放棄せずに農業資本主義を目ざす重農主義のよき普及者となり、『人間の友』の続編(1760)やケネーとの共著とされる『農業哲学』Philosophie rurale(1763)で難解な『経済表』の解説にあたった。『租税論』Théorie de l'impôt(1760)では重農主義の土地単一税論を展開した。
[津田内匠]