フランスの数学者、物理学者、哲学者。私生児としてパリに生まれ、ノートル・ダム寺院の傍らの小寺院の階段に捨てられ、貧しいガラス屋に拾われて育てられた。養育費は実父デトゥシュChevalier Destouches(1668―1726)がひそかに届けていたと伝えられる。
パリの名門校に学び、若いときから数学に関心をもっていた。22歳になったばかりのとき、「積分法に関する論文」を公表して、学界にその名をとどろかせた。これをきっかけとして研究を進め、数々の論文を発表、1742年に、25歳の若さでパリ科学アカデミーの会員に選ばれた。翌1743年に『力学論』を公刊したが、このなかに「ダランベールの原理」が出ている。この原理によって、「運動」の問題が「つり合い」の問題へ変えられて、「動力学」の問題が「静力学」の問題として取り扱うことができるようになったのである。
もう一つ、「絃(げん)の振動」という物理現象の解明を、偏微分方程式
の解法へ転化して解いたものがある。この解法において、「任意の関数」ということばを用いている。この「任意の関数」についてオイラーと論争することになったが、この論争が19世紀の解析学へ遺産となるものを生んだことから考えると、重要な論争であった。
代数方程式の研究において、n次方程式がn個の根をもつことを示しているが、根の存在定理の必要には気づいていなかった。
天文学においても、「歳差」の研究、地軸の「章動」の研究が著名である。また、三つの天体(太陽・地球・月)の運動を対象とした「三体問題」と取り組んでいたが、解決を後人に託したまま、66歳で永眠した。
なお、ダランベールはディドロと共同して『アンシクロペディ』(『百科全書』)を編集して、数学の項目を担当した。さらに、この事典の序文を書いたが、その内容は広範な分野にまたがっていることに加えて、名文であることで有名である。
[小堀 憲]
フランスの数学者,哲学者。著名なサロンの主宰者タンサン夫人と砲兵士官デトゥシュとの間の私生児。ガラス職人の妻に親身で養育され,彼もまた養母に終生変わらぬ愛情をもち続けた。1739年,最初の数学論文を公表したあと,つぎつぎに業績を発表し,41年23歳でアカデミー・デ・シアンス準会員補,68年幾何学年金受領会員となる。1743年《動力学論》を発表し,質点が加速度をもつ場合でも,慣性抵抗を含めて力のつりあいを考えれば動力学を静力学に還元できるという〈ダランベールの原理〉を展開した。翌年その続編《液体の均衡と運動論》を出し,46年には《風の一般理論》によってプロイセン・アカデミー賞を獲得,同時にその会員に選出された。これ以後ダランベールは,プロイセン国王フリードリヒ2世と40年に及ぶ親交を結ぶことになる。翌年《振動する弦の研究》を発表し,B.テーラーが着手した問題の正確な数学的解決法を示した。49年《歳差に関する研究》ではニュートンが解決できなかった問題の数学的解決を示した。
他方,1746年からディドロと協力して《百科全書》の編集にたずさわり,第1巻(1751)冒頭に〈百科全書序論〉を発表。このほか,数学・自然科学分野を中心とする多数の項目を寄稿した。しかし,第3巻(1753)に執筆した〈コレージュ〉と第7巻(1757)に書いた〈ジュネーブ〉とが,それぞれ激しい論争をまき起こした。《百科全書》刊行のための努力や論争のやりとりに疲れ果てた彼は,59年春から編集の仕事から手を引き,以後は数学項目の執筆だけに協力することになる。54年にはアカデミー・フランセーズ会員,72年にはその終身幹事になった。ダランベールは数学者,物理学者,文学者として,いずれの分野でも優れた業績をあげたほか,哲学者としては外的世界の存在証明に関する懐疑的立場を貫き,感覚に与えられた事実の論理的連関を厳密に分析するという方向を徹底することで,近代的実証主義の最初の礎石を置くことになった。
執筆者:中川 久定
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1717~83
フランスの数学者,哲学者。『動力学概論』(1743年)で「ダランベールの原理」を確定,その他多くの科学上の業績があり,また,『百科全書』の共編者として「序論」のほか多数の項目を執筆している。
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…この後,約半世紀にわたってデカルト派とライプニッツ派の間に“ちから”の解釈に関する論争(活力論争,vis viva論争)が続いた。しかし,J.L.R.ダランベールが1743年の著書《力学》の中で,デカルトの考えた“ちから”は力の時間積分であり,ライプニッツの“活力”は力の位置座標についての積分(つまり仕事)であることを指摘するにおよび,この論争もしだいにおさまっていった。なお,83年N.L.S.カルノーは“活力”の保存という概念をすでに暗示しているが,彼の業績は19世紀半ばまで一般には知られなかった。…
…さらに劇場という言葉は中世以来,庭や鏡などの言葉とともに集成や大成の意でしばしば書物の題名に用いられてきたが,これも同じ理由によるものである。【横山 正】
【人々にとって劇場とはいかなる場であったか】
1758年,ジュネーブ生れの哲学者ジャン・ジャック・ルソーは,彼の故郷の町に大きな劇場を建てるように勧める友人のダランベールに対して,私たちが必要としているのは〈陰気な顔をした少数の人を閉じ込めておく暗い洞窟〉のような劇場ではありませんと,長い反論を書き送った。 この《ダランベールへの手紙》におけるルソーの反劇場論の基礎には,古代ギリシアの哲学者プラトンの反演劇論がある。…
…養育院の入口には〈回転箱〉が設けられ,外側から入れて回せば顔を見られずにすむシステムになっていたことも,捨子の数をふやす原因となった。ルソーがテレーズとの間に生まれた5人の子供を次々と捨子にしたことはよく知られているし,《百科全書》の編者の一人ダランベールも路上に置き去られた捨子であった。捨子には私生児が多かったことは確かだが,20~30%は嫡出子であったと推定されており,のちに引取りを願う親の例もある。…
…静止した完全流体(粘性のない流体)の中を一定の速度で進行する物体に働く抵抗が0になるという逆理。J.L.R.ダランベールが1744年,理論的に見いだしたもので,実在の流体では一般に抵抗が働くという常識に反する。粘性がどんなに小さい流体中でも,物体表面には境界層が存在し,これがはがれると前後の圧力差が生じて大きな抵抗を生ずる。…
※「ダランベール」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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