イタリアの詩人、作家。3月12日アドリア海岸ペスカーラに生まれる。父親は富裕な船会社社主。処女詩集『早春』(1879)に続く『新しき歌』(1882)で、カルドゥッチ風の模倣のなかに、早くも官能性の特色を示し注目された。ローマ社交界での成功、恋愛遍歴の経験は、『間奏詩集』(1883)、『幻獣』(1889)を経て、『ローマ愁詠』(1892)、『楽園詩編』(1893)に至る詩集に反映され、音楽的なことばと豊かなイメージのなかにもしだいに性愛の妄執と鬱屈(うっくつ)が表現されるに至る。他方、短編集『処女地』(1882)ほかの冷酷な自然主義ののち、ユイスマンス、トルストイをそれぞれ範とする長編『快楽』(1889)、『罪なき者』(1892)により、自己の官能的耽美(たんび)主義とモラルの矛盾に芸術上の正当化が試みられ、ついで『死の勝利』(1894)、『巌頭(がんとう)の処女』(1895)において、ニーチェの超人主義を借り矛盾の超克が図られた。以後、女優エレオノラ・ドゥーゼとの恋愛を契機とする『死都』(1898)、『ジョコンダ』(1899)などの劇作や小説『炎』(1900)のほか、全七巻を予定した詩集『天と地と海と英雄たちの賛歌』のうちの三巻、すなわち『マイア』(1903)、『エレットラ』『アルチヨーネ』(ともに1904)などが、次々と発表された。なかでも『アルチヨーネ』は詩人最良の叙情詩を数多く収め、今日も評価は高い。同様に悲詩劇『フランチェスカ・ダ・リミニ』(1902)や、故郷アブルッツィ地方の伝承による悲劇『ヨーリオの娘』(1904)、飛行家を登場させ、近親相姦(そうかん)の主題を扱った小説『可なり哉(や)、不可なり哉(や)』(1910)なども、この時期に属する。
借金苦による「亡命」や、第一次世界大戦中と戦後の冒険的行動は、実生活に芸術を持ち込む耽美主義(「模倣を許さぬ生活」)の表れだが、その政治的な言動はファシズムに道を開く結果になった。「亡命」中にフランス語で書いた『聖セバスティアンの殉教』(1911)は、ドビュッシーの作曲で上演され有名。大戦中、飛行機事故で右眼を失明、治療中の完全な暗黒のなかで回想的幻影の書『夜想譜』(1922)を著した。フィウーメ占領(1919~20)の挫折(ざせつ)ののち、ガルダ湖畔に隠棲(いんせい)し、ファシズム政権下に「国民的英雄」としての栄誉を贈られながら、なかば失意のうちに回想的著述を続け、これらは『夜想譜』とともにその詩的真実と簡潔な文体ゆえに近年ますます重視されている。1938年3月1日、隠棲地ガルドーナで永眠した。
[米川良夫]
『森鴎外訳『秋夕夢』(『鴎外全集44』所収・1955・岩波書店)』▽『三島由紀夫・池田弘太郎訳『聖セバスチャンの殉教』(1966・美術出版社)』▽『脇功訳『罪なき者』(1979・ヘラルド・エンタープライズ)』
イタリアの詩人,小説家,劇作家。16歳のとき,詩集《早春》(1879)を自費で出版し,次いで初期の代表的な詩集《新しい歌》(1882)を発表して注目を集める。ここにはカルドゥッチの影響を色濃く残してはいるが,官能的で美しい詩句や次々にイメージを増殖してゆく手法など,後年のダンヌンツィオ文学の特徴が早くも認められる。やがてローマ大学を中退すると,精力的な創作活動を開始する。ルネサンス期あるいはバロック期のローマを背景にして,エロティックで耽美(たんび)的な傾向の強い詩集《ローマ挽歌》(1892)や,ベルガおよびフランスの自然主義文学の影響を受けて,本能と暴力と迷信の支配する生地ペスカラを描き,後に《ペスカラ物語》(1902)に収められる短編小説群,あるいは,ユイスマンスの《さかしま》やワイルドの《ドリアン・グレーの肖像》と並んでデカダンス文学の聖書と称される《快楽》(1889)などを相次いで発表した。その後も,ブールジェの心理分析やニーチェの超人思想の影響を受けた長編小説《死の勝利》(1894)や《断崖の娘たち》(1895)などを刊行した。この間にナショナリズムへの傾斜を深め,下院議員となって政治活動を展開するかたわら,その主張をより直接的に民衆に訴えるために劇作を開始し,《秋の夕暮れの夢》《死んだ都市》(ともに1898),《フランチェスカ・ダ・リミニ》(1902)などを次々に発表。なかでも《ヨーリオの娘》(1904)は非常に人気を博した。一方,1903年から12年にかけて,ダンヌンツィオの詩作品としては最大の傑作である五部作《空と海と大地と英雄たちの賛歌》を発表した。この間,経済的事情からフランスへ逃れ,ドビュッシーの音楽でも知られる劇作《聖セバスティアンの殉教》(1911)などをフランス語で発表するが,第1次世界大戦が始まると参戦を唱え,みずからも多くの戦闘に加わり,ついには片目を失明するにいたった。戦後も少数の義勇兵を率いてユーゴスラビア領フィウメを占領(フィウメ占領)するなどの直接行動をつづけ,さらにはファシズムが台頭すると,これを支持する立場をとった。
執筆者:川名 公平
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…なかでもD.W.グリフィスは《カビリア》の〈壮麗な〉スペクタクルと映画的テクニックに触発されて,《イントレランス》(1916)の〈バビロニア編〉を撮ったといわれる。
[ダンヌンツィオ映画]
当時イタリアでは〈官能的な濃艶な恋愛文学〉の作家で詩人であるG.ダンヌンツィオがもっとも大きな人気を誇り,映画の分野でも〈ダンヌンツィオ的な芸術環境〉(〈ダンヌンツィオ主義〉などと呼ばれた)が隆盛をきわめていた。1911年には6本のダンヌンツィオ作品が映画化された(そのうちの1本《イノセント》はそれから65年後の76年にルキノ・ビスコンティ監督によって再映画化され,その遺作となった)。…
…ベリズモの作家としては,G.ベルガがおり,《牝狼》はよく知られた作品である。また反自然主義的で,退廃的といわれた作家にG.ダンヌンツィオがいる。壮麗な文体で書かれた《ヨーリオの娘》《船》《フェードラ》などは当時,演劇的関心を集めたが,現在は上演の可能性はほとんど失われている。…
…そして真に社会的責務を果たす文学へと発展するためには,ファシズム期文学の呪わしい経験をへなければならなかった。
[20世紀のイタリア文学]
20世紀初頭のイタリア文学は,まず詩においては,G.カルドゥッチ,G.パスコリ,そしてG.ダンヌンツィオの3巨匠が絢爛たる伝統的修辞法の詩編を展開したあと,〈クレプスコラーリ(黄昏派)〉の詩人たちが低くつぶやくような詩を綴った。ついで〈未来派〉の極端な実験詩のあとをうけ,フランス象徴主義の影響を強く受けながら,〈エルメティズモ〉の詩人たちが輩出した。…
…イタリアのダンヌンツィオの長編小説。1894年刊。…
…その原点が映画草創期の1900年代からつくられはじめたイタリアの古代史劇で,当時ローマ史を背景とした文学作品があいついで映画化され,その多くは動きの少ない絵巻物的作品に終わったが,5000人のエキストラとほんもののライオン30頭を登場させてローマの炎上やキリスト教徒の殺戮(さつりく)を描いた6000フィート,9巻,2時間の《クオ・バディス》(1912)と,ローマとカルタゴの第2次ポエニ戦争を題材とした12巻(オリジナル版は4時間を超えたといわれる)の《カビリア》(1914)はスペクタクル映画の草分けとなった。とくに後者はイタリアのサイレント映画の頂点を示す作品であり,著名な詩人,小説家,劇作家,軍人であったダンヌンツィオが荘重華麗な文学的字幕を書いたことでも知られ,スペイン出身の名カメラマン,セグンド・デ・チョーモン(1871‐1929)の移動撮影や,のちにハリウッドで〈レンブラント・ライティング〉と名づけられた人工光線による下からの仰角(あおり)ぎみの照明といった革新的な技術が各国の映画に大きな影響をあたえ,アメリカのD.W.グリフィスは《カビリア》のプリントを1本手にいれてつぶさに研究し,アメリカ最初のスペクタクル映画《国民の創生》(1915)と《イントレランス》(1916)をつくった。 スペクタクル映画はグリフィス以来,ハリウッドのお家芸になって今日まで続いているが,全映画史を通じてその最大の推進者となったのが〈スペクタクルの巨匠〉の名をほしいままにしたセシル・B.デミル監督である(他方,フランスにはほとんど狂い咲きのように大スペクタクル映画をめざしたアベル・ガンス監督の孤高の存在がある)。…
…それはK.S.スタニスラフスキーの演技論にも深い影響を与えたと言われる。レパートリーはシェークスピアから近代市民劇と幅広いが,とくにイプセン劇と97年以降の愛人でもあったG.ダンヌンツィオの劇で世界的名声を博した。1909年突如引退するが21年復帰,以後はイプセンとダンヌンツィオのみを演じた。…
…第1次大戦後,フィウメFiume(ユーゴスラビアの都市リエカのイタリア名)の併合を求めるイタリアの主張に発して,ダンヌンツィオの率いる義勇軍が同市を1年余にわたって占領した事件。フィウメはアドリア海の港市でハンガリーの支配下にあったが,戦後の1918年11月に連合国軍隊の共同管理下に置かれた。…
…15世紀オーストリアの支配下に入り,1717年自由港と宣言されたが,1867年オーストリアとハンガリー間のアウスグライヒ(妥協)によって直接ハンガリーが管理することになった。第1次大戦後はリエカの領有をめぐってイタリアとユーゴスラビアが対立し,1919年義勇兵を率いたイタリアの詩人ダンヌンツィオが占領(フィウメ占領),20年に一時自由市とされたが,24年イタリア領となった。第2次大戦後ユーゴスラビアに復帰した。…
※「ダンヌンツィオ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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