改訂新版 世界大百科事典 「チュルゴ」の意味・わかりやすい解説
チュルゴ
Anne-Robert-Jacques Turgot
生没年:1727-81
フランスの行政官,政治家,経済学者。代々宮内審理官や地方長官(アンタンダン)等の高級行政官を出した名門貴族の家に,パリで生まれた。父はパリ高等法院評定官やパリ市長を務めた。はじめ神学の教育をうけ,ソルボンヌ学寮に入ってからは神学だけでなく哲学,言語学,数学,経済学等広範な分野の研究をおこない,《百科全書》への参加の基礎を作った(のちに,〈語源学〉〈指定市場〉〈財団〉等数項目を執筆)。また,ソルボンヌ学寮長にもなった。父の死と同時に僧籍を離れ(1751),翌年行政官に転じた。パリ高等法院検事総長補佐官,パリ高等法院評定官,宮内審理官を経て,リムーザンの地方長官に任じられて(1761),同管区の主都リモージュに赴任し,23年間同職にあった。この間,彼はディドロ,ダランベール,ドルバック等数多くの哲学者やケネー,グルネーJean-Claude-Marie-Vincent de Gournay(1712-59)等の重農主義経済学者と交流し,多大の影響を受けた。同管区における行政においては,道路建設,租税改革,獣医学校の設立,産業技術導入(織物,養蚕,牧畜,農業等の分野),ギルド的規制の解除,慈善作業場の設立,土地台帳の作成,兵制・司法制度の改革,穀物取引の自由化,公賦役の改善など多方面にわたる改革を,他管区への転勤を断りつつ遂行した。これらは絶対王政下の開明的官僚による先進的改革として他管区にも大きな影響を与えた。また,この間,主著《富の形成と分配にかんする諸考察》(1766)のほか数多くの著作をおこない,彼の経済理論および王国改革の政策体系を確立した。1774年ルイ16世が即位すると海軍大臣に,3ヵ月後には財務総監に任命された。王国の財政はすでに破綻に瀕しており,就任後間もなくとった穀物取引の自由化の措置にもかかわらず食糧事情の悪化による各地の暴動を経験した。76年2月,〈公賦役の廃止〉〈同業組合の廃止〉等に関する六つの勅令(チュルゴ勅令)を布告して大改革を断行した。これは絶対王政下の改革としては近代化の極限形態といえる試みと評価されるが,特権諸階級,高等法院,教会の激しい反対にあい,先の暴動鎮圧によって民衆の支持もなく,王の信を失って引退を余儀なくされ(1776年5月),3ヵ月後には,チュルゴ勅令も後任者によって取り消された。彼の理論は重農主義を基礎としつつ,現実に急成長をとげつつあるブルジョアジーの要求を吸収して展開されたため,理論的一貫性に欠ける点を含みながら重農主義から一歩踏み出していた。たとえば,重農主義は所有権を自然秩序と把握するが,彼は〈占有あるいは最初の占有者の権利〉とし,この所有権を社会の基礎とすることにより自由放任論を導き出し,貨幣所有権を根拠に利子の正当性を主張した。また,農業労働を唯一の生産的労働とする重農主義に対し,労働一般の生産性を主張した。なお価値論においては主観価値論の立場をとった。経済学史上ケネーとスミスを媒介する位置を占める。
執筆者:高橋 清徳
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報