ケネー(読み)けねー(英語表記)François Quesnay

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ケネー」の意味・わかりやすい解説

ケネー
けねー
François Quesnay
(1694―1774)

フランスの経済学者。重農主義の創設者。パリの近郊メレに生まれる。パリ大学医学部などで外科学を学び、内科医との抗争によって、外科学と外科医の地位確立に主導的な役割を果たした。医学に関する多数の論著と実践的手腕とにより名声を博したケネーは、1749年からルイ15世の愛妃ポンパドゥール夫人の侍医、ついで王の侍医をも兼ね、ベルサイユ宮殿に住む。医者として成功し、医学に研鑽(けんさん)を積んだ彼が経済学研究に転じたのは、比較的遅く、ディドロダランベールの編集する『百科全書』に寄稿した「借地農論」(1756)および「穀物論」(1757)は、その60歳代初期の作品である。1758年にその初版が著された『経済表』は、経済現象を生産と消費の循環的過程ないしは再生産過程として表現した最初の体系的な試みであり、経済学史上不朽の地位をかちえている。ケネーによれば、経済全体の基幹は、農業を中心とする採取的第一次産業であるから、農業が生産性の高い大農経営に転換することにより、多くの「純生産物」を産出しうることが前提になる。そのためには、まず従来の重商主義的統制を排して、内外に及ぶ取引の自由体制を確立し、それとともに、既存税制を改革して、土地の純生産物を唯一の源泉とする単一税制に変換することが必要であるとした。このように彼の唱えた重農主義は、アンシャン・レジームの政治、経済、財政に対して提示された抜本的改革案という実践的色彩の濃いものであるが、それは、一方で「自然学」の伝統にたつ実証的側面をもち、他方で近代的自然法の流れを引く規範的側面をもっている。彼の学説は、ミラボーをはじめ多くの門下からなる学派の形成にあずかったが、同時代ではチュルゴーやスミス、19世紀ではマルクス、そして現代ではレオンチェフやスラッファPiero Sraffa(1898―1983)の経済学の形成に著しい影響を与えた。

[菱山 泉]

『A・オンケン編、島津亮二・菱山泉訳『ケネー全集』1~3巻(1951~1952・有斐閣)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ケネー」の意味・わかりやすい解説

ケネー
Quesnay, François

[生]1694.6.4. ベルサイユ近郊メレ
[没]1774.12.16. ベルサイユ
フランスの経済学者,重農学派の指導者。医学を専攻し,ルイ 15世の侍医の一人として仕え,60歳までは経済学に関して何も発表しなかった。しかしその後彼の経済についての考え方は多くの注目するところとなり,A.スミスの尊敬を得た。彼の学説のなかでは,経済循環の姿を体系的に描き出し,K.マルクスの再生産表式,M.ワルラスの一般均衡分析や W.レオンティエフの投入産出分析の先駆をなした『経済表』 Tableau économique (1758) が最も大きな経済学への貢献であり,また蓄積資本の概念,固定資本と運転資本との区別なども彼の考え方に基づくものである。

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