〈理想が現実を支配する〉という考え方に焦点を合わせて,ドイツ理想主義とも訳される。カント以後,19世紀半ばまでのドイツ哲学の主流となった思想。フィヒテ,シェリング,ヘーゲルによって代表される。彼らはカントの思想における感性界と英知界,自然と自由,実在と観念の二元論を,自我を中心とする一元論に統一して,一種の形而上学的な体系を樹立しようとした。ドイツ観念論の中心的主張は自我中心主義にあり,フィヒテがこの傾向を一貫して保持したのに対して,シェリングは神と自然へと,ヘーゲルは国家と歴史へと自我の存立の場を拡張し,前者はショーペンハウアーの非合理主義に,後者はマルクスの社会主義に大きな影響を与えた。
デカルト以後,西欧近代哲学は全体として自我中心主義の性格を持つが,ドイツ観念論は,自我に何らかの意味で実在の根拠という性格を見いだし,自我を中心として観念性と実在性との統一を企てる。フィヒテによれば〈すべてのものは,その観念性については自我に依存し,実在性にかんしては自我そのものが依存的である。しかし,自我にとって,観念的であることなしに実在的なものは何もない。観念根拠と実在根拠とは自我において同一である〉。実在性と観念性との相互関係の場を見込んでいる点では観念論も唯物論(実在論)も同様であるが,両者の統一を観念性の側に意識的に設定するのが観念論の立場である。フィヒテは,人間の自由が可能であるためには,観念論の立場をあえて選ぶべきだと考えた。また自我が何らかの意味で実在性の根拠になる以上,自我の能動面である悟性が,実在性の受動面である感性とひとつになる場面が自我自身の内にあると考え,それを〈知的直観〉(直観的悟性)と呼んでいる。カントは,本来,能動的である悟性が,実在に関与する感性とひとつになるならば,それは主観が実在を創造するのと同じことになると考えて,〈知的直観〉を神の知性に特有のものとみなした。知的直観の有無に神と人間との,絶対者と有限者との区別を置いたのである。この両者が〈あらゆる媒介なしに根源的にひとつである〉(シェリング)とみなす立場は,神と人との区別を否定するという危険をはらむ。フィヒテやシェリングは,観念論の立場を前提としながらも,神の人間化を避けようとして,神秘主義の傾向に走った。
ヘーゲルは,〈絶対的なもの〉が人間知の到達できない〈彼岸〉にあるという考え方をきびしく退けた。哲学は人間知の〈絶対性〉にまで達成しなければならない。すなわち,感覚から始まる人間知の歩みは〈絶対知〉にまで到達しなければならないと考えた。宗教は,まだ絶対知ではない。宗教の最高段階であるキリスト教は,人間知の絶対性を内容としながらも,神人一体の理念をイエスという神格に彼岸化し,その内容を表象化している。この彼岸性,表象性,対象性を克服したところに〈絶対知〉がなりたつ。ヘーゲル自身は,宗教と哲学とは同一内容の異なった形式であると主張して,無神論者という自分に対する疑いを晴らそうとした。しかし,ヘーゲル左派は,ヘーゲル哲学の本質が神の彼岸性を否定する点にあると解して,〈神学の秘密が人間学にある〉(L.A. フォイエルバハ)と説いた。ドイツ観念論は,神秘主義と唯物論との対立という結果を招いたのである。
カント的な二元性を〈ただひとつの原理〉から導くことによって,克服すべきだという主張を掲げたのは,ラインホルトKarl Leonhard Reinhold(1758-1823)である。彼は〈意識そのものには,対象との区別の側面と,対象との関係の契機が含まれる〉という〈意識律〉を第一原理とし,意識そのものに,実在性(対象との関係)と観念性(対象との区別)という契機を含みこませた。フィヒテは,同じく自我そのものに両契機を設定するに際して,ラインホルトのように〈意識の事実〉(表象の事実)に拠ることは誤りだと考えた。〈事実は何ら第一の無制約的な出発点ではない。意識の中には事実よりも根源的なものがある。すなわち,事行Tathandlungである〉。実践的・能動的な自我に事実以上の根源性を見いだすことからフィヒテは出発した。そしてA=Aと同じ真理性をもち,なおかつより根源的なものとして〈我=我〉を導き出す。ここから彼は自我の内に非我もまた定立されることを独特の論理で展開する。〈絶対我は,我と非我とを内に含み,しかもこれを超越するところのものである〉。A=A(同一律)は,たんに言葉の使用規則ではなく,あらゆる事物が感性の多様性に解体されることなく自己同一性(単一性)を保つ根拠として考えられていた。もし同一性の根拠が,我=我(見る我と見られる我の同一)にあるとしたら,物の存在そのものに,見る-見られる(主-客)の同一性という,〈対立するものの同一性〉という構造があることになる。ここからヘーゲルは弁証法論理を樹立するにいたる。
ドイツ観念論の時代的背景には,英仏における近代化に〈おくれたドイツ〉という事情がある。それゆえかえって近代主義が内面化・観念化されて,哲学の内に体系化される。後進性の特徴として,宗教批判が無神論に達することなく汎神論となり(スピノザ主義の受容),個我の解放が個人主義とならずに能動的自我の絶対化となり,近代社会の現実的確立ではなく理念化された法哲学の確立(フィヒテ,ヘーゲル)となる。他方,観念化された先進性のあらわれとして,主客二元論の構図が打破され,唯物論,現象学を生み出し,自我中心主義はロマン主義と結びついて神秘主義,実存主義の下地となり,理念化された国家共同体論は社会主義に影響を及ぼした。なお,イギリス経験論のドイツ観念論への影響は,ラインホルトにみられるようにカント哲学の心理主義的解釈となって現れ,自我の能動性を絶対化する方向で〈カントの限界〉を克服することが,経験論の克服になると考えられた。経験論との根本的な対立点は,存在者一般の同一性の根拠として,ドイツ観念論が能動的自我の同一性を原理とした点にある。自我論における対立は現代哲学にも及び,観念論・実存主義・現代存在論と,経験論・唯物論・精神分析学との間に,顕在的にせよ潜在的にせよ,さまざまの論点の違いを生み出している。
→イギリス経験論
執筆者:加藤 尚武
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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カントに始まりフィヒテ,シェリングをへてヘーゲルに至る一連の哲学。この4者とも相互に体系的連関を持っている。観念=理性を根本原理とみるもので,しだいに理性の能力が拡大,神化されて,ヘーゲルの絶対精神の哲学となった。市民社会を基盤とする近代人の自我が哲学的に自覚され,ドイツ観念論となったといえよう。
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…中世後期から近世にかけて,一連の系譜をなすドイツ人神秘家たちによって担われたキリスト教神秘主義の歴史的形態。狭義には,14世紀前半のエックハルト,ゾイゼ,タウラーを中心にした活動とその思想をさし,広義には,その3者以前のビンゲンのヒルデガルトやマクデブルクのメヒティルトMechthild von Magdeburg(1210ころ‐82か94)などの女性神秘家たち,および3者以後その精神をさまざまな変容において継承・展開したニコラウス・クサヌス,ベーメ,さらにはドイツ・ロマン主義のノバーリス,ドイツ観念論のフィヒテ,シェリングなどに及ぶ精神的系譜を総称する。ドイツ神秘主義は,キリスト教史の枠を越えてヨーロッパ精神史を貫流する一大潮流をなしている。…
…近代ドイツ最大の哲学者。ドイツ観念論を集大成したともいわれる。さらに,ドイツ観念論の限界を超えて,社会的現実における人間の学へと一歩を進め,フォイエルバハ,マルクスに大きな影響を与えた。…
※「ドイツ観念論」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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