ニクソン・ショック(読み)にくそんしょっく(英語表記)Nixon shock

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ニクソン・ショック」の意味・わかりやすい解説

ニクソン・ショック
にくそんしょっく
Nixon shock

アメリカ第37代大統領リチャード・ニクソンが1971年8月15日に発表した金とアメリカ・ドルの兌換(だかん)停止宣言のこと。西側主要国だけでなく、アメリカ議会にも通告なしに電撃的に発表し、その後の世界経済や国際通貨体制が混乱したため、後にニクソン・ショック、あるいはドル・ショックとよばれるようになった。

 アメリカは第二次世界大戦後、世界の7割の金を保有し、1944年以来のブレトン・ウッズ体制(アメリカ・ドルを機軸とする金本位制)では、金1トロイオンス(31.10グラム)が35アメリカ・ドルで交換できた。いつでも金と交換できることを信認の裏づけとするアメリカ・ドルは、各国通貨と固定相場で交換される世界の基軸通貨となっていた。しかし1960年代に入り、ベトナム戦争などの軍事費膨張やアメリカ多国籍企業の海外投資拡大で、膨大なアメリカ・ドルが海外へ流出し続けた。アメリカ経済は国際収支の赤字と財政収支の赤字を抱える一方、金保有量は激減し、金とドルを交換できない状況に近づき、アメリカ・ドルの信認は揺らいだ。このためニクソンは防衛策として、1971年8月15日にテレビとラジオで演説し、(1)アメリカ・ドルと金の兌換停止、(2)10%の輸入課徴金導入、(3)物価賃金の90日間の凍結、(4)設備投資免税の実施、(5)7%の乗用車消費税の撤廃、(6)所得税減税の1年繰上げ実施、(7)47億ドルの歳出削減、の7項目からなる新経済政策を発表。このうち(1)の金兌換停止が世界経済や国際通貨体制にもっとも深刻な影響を与えた。その後、主要10か国は1971年12月にドルの切下げを容認し、スミソニアン協定を結んでいったん固定相場制への復帰を試みたが失敗し、2年後の1973年にほとんどの国が通貨の変動相場制へ移行した。ブレトン・ウッズ体制で1ドル360円に固定されていた日本円は、スミソニアン体制で1ドル308円に切り上げられ、1973年2月には変動相場制へ移行。その後、石油危機時などで1ドル300円台まで下落したことはあるものの、長期的な円高傾向が定着している。

 なお、長期化したベトナム戦争解決のため、ニクソンが中国を訪問すると1971年7月15日に極秘・電撃的に発表し、その後中国政府と和解交渉した一連の米中外交の動きも「ニクソン・ショック」とよばれる。当時、日本は台湾と国交関係があり、国連代表問題でも台湾を支持していただけに、頭越しの米中秘密交渉は日本の外交に衝撃を与えた。

[矢野 武 2015年1月20日]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ニクソン・ショック」の意味・わかりやすい解説

ニクソン・ショック

1971年7月 15日に R.ニクソン大統領が行なった訪中発表 (第1次) と,同年8月 15日の金・ドルの交換停止,10%の輸入課徴金を含む8項目の経済政策の変更 (第2次) により世界および日本が受けた衝撃をいう。武力衝突にまで発展した中ソ対立,文化大革命による混乱からの脱出が中国側の理由であり,ベトナム戦争の泥沼化,中国封じ込め政策の破綻,対ソ牽制がアメリカを対中接近へと向わせた。中国政策については一致し,変更する場合は事前に相談を受けると信じていた日本はアメリカの突然の頭越しの外交に大きなショックを受けた。そして 71年8月 15日,ニクソン大統領は内外両面にわたり新経済政策を断行した。アメリカ国内に対しては諸種の大幅減税によって景気の浮揚をねらったが,海外に対しては金とドルの交換を停止し,10%の輸入課徴金を実施するとしてドルの救済を期待した。ドルの下落を食止めるために,アメリカは競争関係にあった主要通貨の為替レート引上げを輸入課徴金を武器として要求し,10ヵ国蔵相会議で調整され,その結果アメリカの場合は金に対してドルが 7.89%切下げられ,他の主要通貨ではドルに対する切上げが圧倒的であった。しかも切上げのトップは日本円であり,16.88%に上がった。輸入課徴金はむろん廃止された。世界の金融体制は蔵相会議場の名をとり「スミソニアン体制」と呼ばれる新金融体制に向った。

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百科事典マイペディア 「ニクソン・ショック」の意味・わかりやすい解説

ニクソン・ショック

ドル・ショックともいう。1971年8月,米国のニクソン大統領はドルの金交換停止を柱としたドル防衛策を発表。あわせてインフレ抑制および景気刺激を目的とした総合経済政策を打ち出した。この突然の発表は,戦後の国際通貨制度を支えてきたブレトン・ウッズ体制の崩壊を意味し,世界中に衝撃を与えた。これをニクソン・ショックと呼ぶ。 この発表を受け,ヨーロッパの主要為替市場は1週間閉鎖,市場再開後も各国の為替相場は混乱した。日本は円の上昇を防ぐため,為替市場で米ドルを買い支えたが,8月末には介入を停止,フランスを除く主要国は固定相場制から離脱。事実上ブレトン・ウッズ体制は崩壊した。同年12月の10ヵ国蔵相会議で,米ドルの切下げを含む多角的通貨調整(スミソニアン体制)が合意されたが,これも不安定で長続きせず,1973年主要国は変動相場制へ移行した。
→関連項目ドル

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「ニクソン・ショック」の解説

ニクソン・ショック

ドルショック

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世界大百科事典(旧版)内のニクソン・ショックの言及

【IMF】より

…しかしアメリカ経済は,ベトナム戦争や“グレート・ソサエティ(偉大な社会)”のための財政赤字を反映し,インフレ激化が進み国際収支の赤字が増大し,ドル危機の様相はいっそう深刻化した。かかる背景のもとに71年8月15日ニクソン大統領は新経済計画の一環としてドルと金の交換性を停止し,ドル切下げの実質的意味をもつ10%の輸入課徴金賦課を発表し,世界に大衝撃を与えた(いわゆるニクソン・ショック)。これに対応し西欧主要国,次いで日本も変動相場制に移行し,固定相場制を基礎とするブレトン・ウッズ体制は,アメリカの一片の通告によりもろくも崩壊した。…

【国際通貨制度】より

…71年夏,アメリカ政府は,ドル防衛のための新政策を発表し,ついにドルの金交換性を停止した。いわゆるニクソン・ショックである。同年末先進諸国代表は,ワシントンに集まり,スミソニアン博物館で為替相場の一斉調整を含む〈スミソニアン合意〉を成立させた。…

【ドル】より

…34年にはドルの金平価が40.94%切り下げられ,1ドル=13.71グレーンの金(あるいは金1トロイオンス=35ドル)となった。この金のドル価格は71年のニクソン・ショックまで存続した。そのときに紙幣の金との兌換および金の自由移動が停止された。…

※「ニクソン・ショック」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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