ニューフランス(英語表記)New France; Nouvelle France

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ニューフランス」の意味・わかりやすい解説

ニューフランス
New France; Nouvelle France

広義には 1524年に G.ベラザノが派遣されて以来,1803年のルイジアナ売却にいたるまでの時代,北アメリカ大陸においてフランス領とされてきた土地の総称狭義には 1605年にポールロワイヤルにフランス植民地が建設されて以来,1763年にケベック植民地がイギリス領となるまでの間のフランスの北アメリカ植民地を称する。版図の増減はあったが,ケベック,アカディアプラセンシア (ニューファンドランド) ,ルイジアナ,ケープブレトン島プリンスエドワードアイランドに,フランス植民地が存在した。 13年のユトレヒト条約でアカディアとプラセンシアが,63年のパリ条約でケベック,ケープブレトン島,プリンスエドワードアイランドがイギリス領となり,1803年にルイジアナ地方がアメリカの手に渡って,ニューフランスは北アメリカ大陸から姿を消した。ニューフランスの核は,1608年のケベック植民地であった。同植民地の生みの親は,S.シャンプランであり,彼個人の植民地建設への意欲はめざましいものであったが,植民地の発展は難航した。 27年フランス本国の宰相リシュリューが「ニューフランス会社」を創設し,植民地経営をまかせたが,会社は毛皮交易による利益追求にのみ熱心で,入植者もふえず,植民地の自活もおぼつかなかった。その結果 63年フランス本国政府はニューフランス会社への特許状を廃止し,植民地を国王直轄地とした。そのためニューフランスにはフランス本国と同様の政治制度,経済制度が施行されることになる。ニューフランスの最も繁栄した時代は,フロンテナク総督 (在任 1672~82,89~98) ,F.ラバル司教 (在任 74~88) ,J.タロン地方長官 (在任 65~68,70~72) がケベックに赴任した 17世紀後半であった。彼らは三者三様に植民地の発展に非常な貢献をみせたが,ニューフランスの経済はあくまで毛皮交易に依存していた。その結果探検が盛んとなり,ミシシッピ川を上流から河口へ下降したのもフランス人 R.ラ・サールで,沿岸をルイ 14世に献じてルイジアナと命名した。しかし,毛皮交易網が奥地へ拡大するにつれ,ヨーロッパで当時対立抗争を繰返していたイギリスとフランスは,北アメリカにおいても衝突,その最大にして最後の戦闘で 1759年にケベックが,60年にモントリオールが陥落し,ニューフランスはイギリスの手に渡った (→フレンチ・アンド・インディアン戦争 ) 。しかし 158年間に及んだニューフランス時代は,現在もカナダ総人口の3分の1を占めるフランス系カナダ人の記憶に受継がれており,ケベック独立問題などでおりに触れ顕在化している。

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改訂新版 世界大百科事典 「ニューフランス」の意味・わかりやすい解説

ニューフランス
New France

1524年,ジョバンニ・ダ・ベラツァーノが北アメリカ大陸大西洋岸に到達して以来,1803年合衆国のルイジアナ購入により消滅するまで,北アメリカ大陸に存在したフランスの植民地の総称。しかし狭義には,1605年のシャンプランによるポール・ロアイヤル建設から,1763年のパリ条約によるケベック植民地のイギリスへの割譲に至る158年間のフランス植民地を称する。ニューフランスの統治は,1605年から27年の第1期,27年から63年の第2期,63年から1763年の第3期に分けることができる。第1期には,いわゆる〈ニューフランスの父〉シャンプランがケベック要塞を核として植民地建設に尽力したが,その発展ははなはだ緩慢であった。しかし毛皮交易とインディアンへの布教というニューフランスを支えた二本柱はこの期に樹立された。第2期には,フランス首相リシュリューによって組織されたニューフランス会社の指揮の下に植民地の発展が期待されたが,これも進歩をみなかった。そこで第3期には,フランス蔵相コルベールの指揮の下に植民地はフランス国王の直轄するところとなり,総督,地方長官,司教の形成する地方政府の樹立とフランス正規軍の派遣が行われた。この第3期では,フロンテナク総督(1672-82,1689-98),J.B.タロン地方長官(1665-68,1669-72),F.ラバル司教(1659-1688)らが実権を握った17世紀後半が最盛期とされる。しかしタロンによる工業振興は成功をみず,ニューフランスの経済的基盤は一貫して毛皮取引であった。交易も布教もインディアン諸部族をフランス人のいわば顧客としたため,ニューフランスとインディアンの関係は南のイギリス植民地と比較するならば概して友好的であったといわれる。最盛期のニューフランスは大西洋岸からセント・ローレンス川流域,ミシシッピ川流域をその版図としたが,これは必然的に各地でイギリス植民地と衝突することを意味した。その最後の衝突であったフレンチ・インディアン戦争でイギリス軍が勝利を収め,1759年ケベック,60年にモントリオールが陥落してニューフランスは北アメリカの歴史から退場した。
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世界大百科事典(旧版)内のニューフランスの言及

【カナダ】より

…同じ頃のちにカナダの一部を形成するニューファンドランドはイギリス領と宣言され,イギリスの海外植民地の最初となる。 フランスの北アメリカ植民地に入植が始まったのは1603年であったが,失敗を繰り返した後,〈ニューフランスの父〉サミュエル・ド・シャンプランは08年ケベック要塞を設け,ここが150年余りに及ぶフランスの北アメリカ統治のかなめとなった。フランス人が北アメリカで利益を見いだしたものは,豊富なタラと良質の毛皮であった。…

【フロンテナク】より

…フランスの軍人。北アメリカ大陸のニューフランス植民地総督(1672‐82,89‐98)。1635年軍隊に入り,ヨーロッパ各地を歴戦ののち,72年からその死まで,7年間の中断をはさんでニューフランスの総督を務めた。…

【モントリオール】より

…1642年メゾンヌーブ侯によって布教を兼ねた交易基地としてはじめて白人の定住集落が建設された。ビル・マリーVille Marieと呼ばれたこの集落はニューフランスの商業的中心地であったが,しばしばイロコイ族の攻撃をうけた。フレンチ・インディアン戦争の結果,1760年イギリス軍に占領された。…

※「ニューフランス」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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