ハノーバー朝(読み)ハノーバーチョウ(英語表記)House of Hanover

デジタル大辞泉 「ハノーバー朝」の意味・読み・例文・類語

ハノーバー‐ちょう〔‐テウ〕【ハノーバー朝】

Hanoverイギリスの王朝。1714年、スチュアート朝の断絶後、ドイツハノーバー選帝侯ジョージ1世として即位したのに始まり、ビクトリア女王まで6代続いた。

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改訂新版 世界大百科事典 「ハノーバー朝」の意味・わかりやすい解説

ハノーバー朝 (ハノーバーちょう)
House of Hanover

イギリスの王朝。1714年,スチュアート朝最後のアン女王が没すると,1701年にジェームズ2世やその子孫の復位を阻止する目的でつくられた王位継承法の規定により,新教徒であるハノーファー選帝侯の長子ゲオルク(ジョージ)がイギリス王位を継承,ジョージ1世として開いたのがハノーバー朝である。この王朝は,その後名称を変えながら現在まで継続している。すなわち,1901年,ビクトリア女王が没し,エドワード7世が即位するに際して,父(アルバート公)の家名であるサックス・コーバーグ・ゴータSaxe-Coburg-Gotha家と改称,さらに,17年にはドイツ系の名前を嫌って,ウィンザー家と再改名し,現在に至っている。

 ジョージ1世時代(1714-27)の1715年には,スコットランドジャコバイト(ジェームズ2世の子孫を戴く)の乱が発生したが,鎮圧された。ドイツ育ちのこの王は議会には出席しなかったので,責任内閣制や首相の権限が強化され,〈君臨すれども統治せず〉という近代イギリス王権の基本的なあり方が築かれた。この時代はまた,対外的には概して平和な時代であった。次のジョージ2世(在位1727-60)は,青年時代はマールバラ将軍指揮の下,スペイン継承戦争に従軍していたが,父王とともに渡英した。しかし,その父王とは不仲であったといわれる。オーストリア継承戦争では,スペイン・フランス軍を破り,七年戦争継続中に没した。内政面ではとくに目だった成果は残っていない。60年に即位するジョージ3世(在位1760-1820)は,早速側近のビュート伯を使って〈王の友〉なる党派を結成させ,事実上トーリー党を復活させた。彼の治世の下では,一方で産業革命が進行し,他方ではアメリカ13植民地の独立とフランス革命の衝撃が伝わって,激動の時代となった。産業革命の進行を背景として,社会・経済の構造が著しく変化しているのに,王自身はむしろ反動的・専制的な施政をめざしたために,小ピットらと対立した。しかし,フランス革命が過激化して,イギリス国内に反革命の気運が強まると,ピット自身も保守化した。晩年,王は病に侵され,皇太子によるいわゆる〈摂政政治Regency〉に移行した(1811)。したがって,ナポレオン戦争からウィーン会議に至る重要な外交問題は,ほとんど〈摂政政治〉の下で処理された。

 1820年,皇太子はジョージ4世(在位1820-30)として登位審査法の廃止(1828),カトリック解放法の成立(1829)などがこの王の下で実現する。次のウィリアム4世(在位1830-37)は,ジョージ3世の三男(ジョージ4世の弟)で,長期間女優と同棲し,10人の子どもをもうけるなど奔放な青年時代を送った。32年の選挙法改正をめぐる混乱に際しては,不承不承ながら貴族院の反対を抑えるためにトーリー貴族に棄権を促した。イギリスの最盛期は次のビクトリア女王(在位1837-1901)の時代である。女王の治世初期に,イギリスはほぼ産業革命を完成し,しだいに〈世界の工場〉としての実態を整える。しかし,自由貿易の原則が貫かれていた期間は短く--その間もいわゆる〈自由貿易帝国〉的な対外進出は進行したが--,19世紀後半には帝国主義的な諸政策を採用する。女王は即位に際してハノーファー公位を受け継がなかったので,このときハノーファーとの同君連合が解消された。また,40年,母方の従兄アルバート公と結婚,その強い影響をうけた。対外的にもいわゆるインド大反乱(セポイの反乱)を契機として東インド会社を廃し,インドを直轄化,77年にはみずからインド皇帝位を兼ねた。1901年に女王が没してからは,エドワード7世(在位1901-10),ジョージ5世(1910-36),エドワード8世(1936年のみ在位),ジョージ6世(在位1936-52)を経て,エリザベス2世(在位1952-)に至っている。
ウィンザー家
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ハノーバー朝」の意味・わかりやすい解説

ハノーバー朝
ハノーバーちょう
Hannover Dynasty

イギリスの王朝(1714~ )。1701年の王位継承法の規定により,1714年アン女王の没後,ハノーバー選帝侯ジョージ1世(在位 1714~27)が即位して創始。ジョージ2世(在位 1727~60),ジョージ3世(在位 1760~1820),ジョージ4世(在位 1820~30),ウィリアム4世(在位 1830~37),ビクトリア(在位 1837~1901)と続き,次のエドワード7世(在位 1901~10)から家名をサックス=コーバーグ=ゴーサ家と改称。さらにジョージ5世(在位 1910~36)治下,第1次世界大戦中の 1917年にウィンザー家と改称。シンプソン夫人との結婚問題のため 1年足らずで退位しウィンザー公となったエドワード8世(在位 1936.1.~12.),その弟ジョージ6世(在位 1936~52),長女エリザベス2世(在位 1952~2022),長男チャールズ3世(在位 2022~ )が継承して今日にいたっている。(→ウィンザー家ハノーバー家

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ハノーバー朝」の意味・わかりやすい解説

ハノーバー朝
はのーばーちょう

1714年から1901年までのイギリス王家。ブランズウィックBrunswick朝ともいう。1714年スチュアート家のアン女王の死に伴い、王位継承法(1701)の規定により、ジェームズ1世の孫にあたるドイツのハノーバーHanover選帝侯妃ゾフィーの子ゲオルク・ルートウィヒ(ゲオルク1世)がジョージ1世(在位1714~1727)としてイギリス王位につき、ハノーバー朝の開祖となった。以来ハノーバー家は123年間にわたってイギリスとハノーバーとの君主を兼ねたが、1837年ビクトリア女王のイギリス国王即位にあたって分離された。その後、1901年のエドワード7世のとき、父アルバート公の家名をとってサックス・コーバーグ・ゴータSaxe-Coburg-Gotha朝と改称、続いて第一次世界大戦中の1917年、対戦国のドイツ式の名称を名のることを避けるためウィンザー朝と改称され、現在に至っている。現王室はハノーバー朝の直系にあたる。

[大久保桂子]


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百科事典マイペディア 「ハノーバー朝」の意味・わかりやすい解説

ハノーバー朝【ハノーバーちょう】

英国の王朝(1714年―1901年)。現在の王室の祖。スチュアート朝アン女王の死後,1701年の王位継承法により,ハノーファー家出身のジョージ1世が即位して,この王朝を開いた。ビクトリア女王まで6代続き,1901年エドワード7世からサクス・コーバーグ・ゴータ家と改称,さらに,第1次大戦中の1917年ウィンザー家と改め,現在に至っている。
→関連項目ウィリアム[4世]ウィンザー[家]ジョージ[4世]スチュアート朝ハノーファー[地方]

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