ルートウィヒ(読み)るーとうぃひ(英語表記)Christa Ludwig

デジタル大辞泉 「ルートウィヒ」の意味・読み・例文・類語

ルートウィヒ(Ludwig)

(10世)[1495~1545]バイエルン公。在位1516~1545。父アルブレヒト4世が決めた長子相続に異議を唱え、兄のウィルヘルム4世とバイエルンを共同統治した。

ルートウィヒ(Otto Ludwig)

[1813~1865]ドイツの劇作家・小説家。悲劇的な人間の運命を写実的に描いた。悲劇「世襲山林監督」、小説「天と地の間」、演劇論「シェークスピア研究」など。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

精選版 日本国語大辞典 「ルートウィヒ」の意味・読み・例文・類語

ルートウィヒ

  1. [ 一 ] ( Ludwig ) 二世。東フランク王(在位八四三‐八七六)。カール大帝の孫、ルートウィヒ一世(ルイ一世)の次子。八四三年、ベルダン条約で東フランクを得、メルセン条約で遺領の中部フランクを西フランク王カール二世(シャルル)と分割、のちのドイツ発展の基礎を築いた。ドイツ人王。(八〇四頃‐八七六
  2. [ 二 ] ( Otto Ludwig オットー━ ) ドイツの劇作家、小説家。写実的描写で、悲劇的人間の運命を描いた。代表作、悲劇「世襲山林監督」、小説「天と地の間」など。(一八一三‐六五

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ルートウィヒ」の意味・わかりやすい解説

ルートウィヒ(Christa Ludwig)
るーとうぃひ
Christa Ludwig
(1928―2021)

ドイツのメゾ・ソプラノ歌手。ベルリン生まれ。両親とも声楽家という恵まれた環境で早くから音楽を学び、1946年フランクフルト歌劇場でデビュー。1954年にザルツブルク音楽祭に出演、翌年にはウィーン国立歌劇場と契約、ともにモーツァルト『フィガロの結婚』のケルビーノ役で成功を収めた。以後R・シュトラウス『ばらの騎士』などでシュワルツコップと共演、またベーム、カラヤンらの指揮で多くのオペラに登場、名声を博した。1963年(昭和38)秋、ベルリン・ドイツ・オペラの日本公演で初来日。1990年(平成2)に再来日。彼女はとりわけ、モーツァルト、R・シュトラウス、ワーグナーの作品における役の的確な表現、深みのある美声で高く評価されていた。また歌曲にも意欲的に取り組み、シューベルト歌曲などの録音も行った。1994年ヨーロッパとアメリカへの歌曲演奏旅行をもって引退。以後マスタークラスを開催して教育活動に専念した。

[美山良夫]

『ウィーン国立歌劇場友の会編、香川檀訳『ウィーン・オペラの名歌手(1)』(1988・音楽之友社)』『ヘレナ・マテオプーロス著、岡田好恵訳『ブラヴォー/ディーヴァ――オペラ歌手20人が語るその芸術と人生』(2000・アルファベータ)』


ルートウィヒ(Carl Friedrich Wilhelm Ludwig)
るーとうぃひ
Carl Friedrich Wilhelm Ludwig
(1816―1895)

ドイツの生理学者。1839年マールブルク大学を卒業し、同校の生理学助教授を務め、その間キモグラフ(運動動体記録器)を考案し、のちの循環系生理学の研究に役だてた。1849年チューリヒ大学教授に就任し、『生理学教科書』を出版した。プロイセンの反動政治を不満として辞職し、1855年ウィーンの軍医学校の生理学、物理学教授となった。1865年ライプツィヒ大学教授に転じ、多くの後進を養成した。300名にも及ぶ彼の門下のなかに、アメリカのバウディッチHenry Pickering Bowditch(1840―1911)やロシアのパブロフがいる。ルートウィヒの代表的研究は、尿生成に関する糸状体の濾過(ろか)説に始まり、リンパの生成、唾液(だえき)分泌神経と続き、血液ガス、血流、血圧、血管運動神経、減圧神経などの循環系の研究が有名である。

[古川 明 2018年12月13日]


ルートウィヒ(2世)(バイエルン王)
るーとうぃひ
Ludwig Ⅱ
(1845―1886)

バイエルン王(在位1864~86)。幼時期をホーエンシュワンガウ城で過ごしたが、中世ドイツの伝説にひかれ、1861年作曲家ワーグナーに心酔し、即位後もその保護者となった。プロイセン・オーストリア戦争(1866)の際オーストリアに味方したが、プロイセン・フランス戦争(1870~71)ではビスマルクの巧妙な戦略にのせられ、なかば強制的にプロイセン王のドイツ皇帝推薦の役割を演じさせられた。現実の政治から逃避してロマンの世界に没入し、ノイシュバーンシュタイン城などを建築。芸術を愛好して莫大(ばくだい)な費用をかけたため、86年6月にミュンヘン大学教授グッデンB. A. von Gudden(1824―86)らの医師によって、統治不能との精神鑑定を受け、シュタルンベルク湖畔に幽閉された。同月13日グッデンとともに散歩に出たが、2人は溺死(できし)体となってみつかった。当時ミュンヘンにあった森鴎外(おうがい)は、この事件を題材に『うたかたの記』(1890)を書いた。

[進藤牧郎]



ルートウィヒ(Otto Ludwig)
るーとうぃひ
Otto Ludwig
(1813―1865)

ドイツの小説家、劇作家。自ら命名した19世紀の文学思潮「詩的リアリズム」を代表する作家の1人。チューリンゲン地方のアイスフェルトに生まれ、ドレスデンで死去。人生の真実の追究を文学のモットーとし、故郷の村の生活をユーモラスに点描した『陽気な娘』(1855)は郷土小説の先駆となり、教会の屋根の修復をめぐって同じ女性を愛した兄弟間のすさまじい葛藤(かっとう)を描く長編『天と地の間』(1856)は、心理小説の分野を開拓した。劇作家としては、数多くの断片や草稿を残したが、完成した作品は運命悲劇『世襲山林監督官』(1850)と『旧約聖書』に取材した韻文の悲劇『マカベア一族』(1854)だけである。晩年は半身不随の身となりながら、シラーの理想主義的悲劇を否定しリアリズム劇を主張するユニークな演劇論『シェークスピア試論』(1871、没後刊)を書き続けた。

[丸山 匠]


ルートウィヒ(2世)(東フランク国王)
るーとうぃひ
Ludwig Ⅱ
(805ころ―876)

カロリング家の初代東フランク国王(在位843~876)。ドイツ人王ともよばれる。カロリング朝フランク王国の皇帝ルイ(ルートウィヒ)1世の第3子。父帝が817年に公布した帝国計画令により、バイエルン分国王に封ぜられたが、父帝死(840)後の相続争いでは、異母弟シャルル1世(カール2世)と結んで、長兄ロタール1世に対抗し、フォントノアの戦い(841)でこれを破るとともに、ストラスブールで誓約を交わし、シャルル1世との同盟を強化した(842)。843年ベルダン条約が結ばれ、フランク王国は事実上三分割され、ルートウィヒはライン川以東の東フランク国王となった。さらに870年のメルセン条約で西フランク国王シャルル1世とロートリンゲン(ロレーヌ)を分割した。

[平城照介]


ルートウィヒ(4世)(ドイツ国王、神聖ローマ皇帝)
るーとうぃひ
Ludwig Ⅳ
(1287ころ―1347)

ウィッテルスバハ家のドイツ国王(在位1314~47)、神聖ローマ皇帝(在位1328~47)。バイエルン人王ともよばれる。1314年反ハプスブルク派諸侯により、ハプスブルク家のフリードリヒ3世の対立国王に選ばれ、ミュールドルフの戦い(1322)でフリードリヒ3世を破り、支配権を確立した。彼の王位を承認しない教皇ヨハネス22世と争い、イタリア遠征を行って、教皇を廃位、対立教皇を擁して皇帝に戴冠(たいかん)された。さらにレンゼの帝国会議(1338)で、諸侯の多数決で選出されたドイツ国王は教皇の戴冠なくとも神聖ローマ皇帝であるという原則を樹立した。

[平城照介]


ルートウィヒ(4世)(東フランク国王)
るーとうぃひ
Ludwig Ⅳ
(893―911)

カロリング家の最後の東フランク国王(在位900~911)。幼児王ともよばれる。父王アルヌルフの死後、幼くして国王に選ばれたが、実権は東フランクの豪族層に握られて、ザクセン(リウドルフンク家)、シュワーベン(フンフリデンク家)、フランケン(コンラート家)、バイエルン(リウトポルト家)等の諸部族大公家台頭の基盤がつくられ、また対外的にはマジャール人の侵入に脅かされた。子供を残さず早世したため、カロリング家の王統が絶え、国内豪族層はフランケン大公コンラートを国王に選出し、中世ドイツ王国としての歩みが開始された。

[平城照介]


ルートウィヒ(1世)
るーとうぃひ

ルイ(1世)

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

百科事典マイペディア 「ルートウィヒ」の意味・わかりやすい解説

ルートウィヒ[1世]【ルートウィヒ】

フランク王国国王,西ローマ皇帝(在位814年―840年)。ルイ1世とも。カール大帝の子。敬虔(けいけん)王(Ludwig der Fromme,Louis le Pieux)と呼ばれ,父の存命中に共同統治者となった。篤信だったが政治上は無能。817年帝国をロタール1世ら3子に分割。829年第2妃の子カール(後のカール2世)のために帝国を再分割。このため前子らとの間に内乱が起こり,一時廃位(833年―835年)された。
→関連項目カロリング朝ヘーリアントベルダン条約ロタール[1世]

ルートウィヒ[2世]【ルートウィヒ】

バイエルン王国第4代国王(在位1864年―1886年)。森鴎外《うたかたの記》やビスコンティ監督《ルートウィヒ――神々の黄昏(たそがれ)》の主人公。ワーグナーの熱狂的庇護者(バイロイト祝祭劇場建設は王の後援による),築城マニア(ノイシュバンシュタイン,リンダーホーフ,ヘレンキームゼーなど)として知られる。禁治産宣言を受けた直後の死にも,プロイセンによる謀殺あるいは自殺の2説があって定かでない。
→関連項目ノイシュバンシュタイン城

出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ルートウィヒ」の意味・わかりやすい解説

ルートウィヒ
Ludwig, Carl Friedrich Wilhelm

[生]1816.12.29. ウィッツェンハウゼン
[没]1895.4.23. ライプチヒ
ドイツの生理学者。エルランゲン,マールブルク大学に学び,マールブルク大学解剖学教授 (1846~49) を経て,チューリヒ (49) ,ウィーン (55) ,ライプチヒ (65~95) 各大学教授。生理学研究の機器づくりに秀で,1847年にキモグラフ kymographという運動記録器を血圧の変化と呼吸運動の記録用に創案。 56年血漿に近い組成をもった溶液の中でカエルの心臓を生きた状態のまま保つことに成功。これは動物の臓器を体外に取出して生かし続けた最初の例であり,灌流実験法のさきがけとなった。血液循環や心臓の拍動に関しても研究を行い,71年に,心臓の筋肉はその極限まで収縮するか,あるいはまったく収縮しないかのいずれかであって,その中間はありえないことを定式化した。また,腎臓の表層に尿をろ過する機能のあるのを発見 (44) 。 H.ヘルムホルツ,E.ブリューガー,E.デュ・ボア=レイモンとともに生物物理学運動を展開した。

ルートウィヒ
Ludwig, Otto

[生]1813.2.12. チューリンゲン,アイスフェルト
[没]1865.2.25. ドレスデン
ドイツの小説家,劇作家。早くから詩と音楽の才能を認められ,1838年オペラを上演,翌年マイニンゲン公の庇護を受け,ライプチヒでメンデルスゾーンに師事したが,持病のリウマチと内気な性格のため音楽を断念,44年に伯父の遺産を得てドレスデンの山荘にこもり文学に専念,詩的リアリズムを唱えた。戯曲『世襲山林管理官』 Der Erbförster (1850) ,『マッカベーアー一族』 Die Makkabäer (54) ,恋愛物語『陽気な娘』 Die Heiterethei (54) ,小説『天と地の間』 Zwischen Himmel und Erde (56) などのほか,シェークスピアを崇拝して,『シェークスピア研究』 Shakespeare-Studien (71) を著わした。

ルートウィヒ
Ludwig, Emil

[生]1881.1.25. ブレスラウ(現ポーランド,ウロツワフ)
[没]1948.9.17. スイス,アスコナ近郊
ドイツの小説家,劇作家,伝記作家。第1次世界大戦中ジャーナリストとして活躍,偉人の生涯を描き,大衆的な成功を博した。主著『ビスマルク』 Bismarck (1912) ,『ゲーテ』 Goethe (20) ,『ルーズベルト』 Roosevelt (38) ,『ナポレオン』 Napoleon (39) ,『ベートーベン』 Beethoven (43) など。

出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報

改訂新版 世界大百科事典 「ルートウィヒ」の意味・わかりやすい解説

ルートウィヒ
Otto Ludwig
生没年:1813-65

ドイツ写実主義の作家。彼が提唱した理想主義と自然主義の統一を目ざす〈詩的写実主義〉は,19世紀後半の自然主義に至るまでの時代を表す文学史上の概念として今日も使用される。チューリンゲンのアイスフェルトに生まれ,最初ライプチヒで音楽を学ぶ。その後文学に転向,シェークスピアに感銘して劇作家を目ざし《世襲山林監督》(1853)などの悲劇を書いたが,本領は小説にある。代表作は屋根葺師兄弟の争いを描く心理小説《天と地の間》(1856)。ただし地方的・倫理的性格が強く,郷土文学としての限界も感じられる。
執筆者:

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のルートウィヒの言及

【モンテス】より

…イギリス軍人の娘としてアイルランドに生まれ,一時インドで暮らし,5年間の最初の結婚生活の後,1843年〈スペインの舞姫〉としてロンドンでデビュー,フランス,ドイツ,ロシアなどでも公演して好評を博した。46年のミュンヘン公演のおり,バイエルン国王ルートウィヒ1世Ludwig I(在位,1825‐48。〈狂王〉ルートウィヒ2世の祖父)の寵を得るところとなり,彼女はランツフェルト伯爵夫人の称号を受けるなどして大いに勢威をふるい,その影響は国事にまで及んだ。…

【チューリンゲン】より

…次いでカール大帝は,804年スラブ人に対する防衛線をザーレ川と定め,チューリンゲンを辺境伯領とした。カール大帝の孫ルートウィヒ2世は,トラクルフをチューリンゲン公に封じ,その子孫は908年まで辺境伯を称している。同年この地はザクセン大公(リウドルフィング家)によって奪われたが,同家のハインリヒ1世がドイツ国王に,さらにその息子オットー1世が神聖ローマ皇帝となったため,またこの間ドイツ人の居住地域がザーレ川を越えてはるか東方に進出したためこの地は辺境伯領としての意義を失い,むしろドイツ領の中核となった。…

【チューリンゲン】より

…次いでカール大帝は,804年スラブ人に対する防衛線をザーレ川と定め,チューリンゲンを辺境伯領とした。カール大帝の孫ルートウィヒ2世は,トラクルフをチューリンゲン公に封じ,その子孫は908年まで辺境伯を称している。同年この地はザクセン大公(リウドルフィング家)によって奪われたが,同家のハインリヒ1世がドイツ国王に,さらにその息子オットー1世が神聖ローマ皇帝となったため,またこの間ドイツ人の居住地域がザーレ川を越えてはるか東方に進出したためこの地は辺境伯領としての意義を失い,むしろドイツ領の中核となった。…

【チューリンゲン】より

…次いでカール大帝は,804年スラブ人に対する防衛線をザーレ川と定め,チューリンゲンを辺境伯領とした。カール大帝の孫ルートウィヒ2世は,トラクルフをチューリンゲン公に封じ,その子孫は908年まで辺境伯を称している。同年この地はザクセン大公(リウドルフィング家)によって奪われたが,同家のハインリヒ1世がドイツ国王に,さらにその息子オットー1世が神聖ローマ皇帝となったため,またこの間ドイツ人の居住地域がザーレ川を越えてはるか東方に進出したためこの地は辺境伯領としての意義を失い,むしろドイツ領の中核となった。…

※「ルートウィヒ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android