ハンブルク(英語表記)Hamburg

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精選版 日本国語大辞典 「ハンブルク」の意味・読み・例文・類語

ハンブルク

(Hamburg) ドイツ北部、エルベ川の下流の両岸にあるドイツ最大の港湾都市。正式名称は自由ハンザ都市ハンブルク。国際空港がある。ヨーロッパの交通の要地の一つ。造船・機械・石油精製・車体・タイヤ製造などの工業が発達。一二四一年以後三〇〇年以上にわたり、ハンザ同盟の中核として栄えた。一八一五年に自由都市となり、一八七一年にドイツ帝国に加入した。

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改訂新版 世界大百科事典 「ハンブルク」の意味・わかりやすい解説

ハンブルク
Hamburg

ドイツ北部の都市で,ドイツ連邦共和国の州(ラント)の一つとして,都市をこえた政治機構をもっている。人口173万(2002)。正式名称は〈自由ハンザ都市ハンブルク〉であり,現在でも中世のハンザ同盟の記憶を名称にとどめている。4年ごとに選出される議員120名が州議会を構成し,そこで市参事会Senatが選出される。市参事会員(10~15名)のなかから1年任期の市長と副市長が選出される。このような体制も部分的には中世ハンザ都市の伝統をふまえている。

 ハンブルクはドイツ連邦共和国のみならずヨーロッパでも屈指の港湾都市であり,また重要な工業地帯でもある。中世以来港湾関係の産業が盛んであったが,現在ではエレクトロニクス,機械生産,造船,化学,食品などの各種の産業におよんでいる。農業面積もハンブルク州域の3割以上を占め,果実,野菜,苗木などの育成が盛んである。野菜や果物,魚や花などの市場から大規模な商社,銀行,保険会社などが集中している都市でもある。新聞社や出版業,放送関係においても傑出した位置を占めている。ダムトーア駅近くには国際会議場があり,ヨーロッパでも最も近代的な設備を誇っている。

 都市景観はなによりも外アルスターと内アルスターという二つの湖を市内にもち,エルベ川のほとりにあるという自然環境によって特徴づけられている。1842年の大火と第2次大戦の被害によって中世以来の都市景観は大きく変貌し,近代的な都市に生まれ変わっているが,今でもミヒャエル教会の近くのクライエンカンプには17世紀の小売商人の未亡人の住居が保存されており,運河沿いの倉庫群と並んで古きハンブルクの面影をとどめている。

ハンブルクの歴史は,カール大帝が810年にザクセン戦争ののちに築いた定住地にはじまり,825年にはハンマブルクHammaburgという名の城がつくられている。この城はアルスター川を渡って東部への道を確保するために設置されたものであった。831年にはルートウィヒ1世(敬虔王)が新設されたハンブルク司教区の大聖堂をたて,834年にはE.アンスガールを大司教に迎えて大司教区が設置された。大聖堂のそばには遠隔地商人のための交易所がつくられていた。しかしデンマーク人やバイキングなどの襲撃をうけて848年には大司教区はブレーメンに後退を余儀なくされた。1188年には大司教の建設になる旧市Altstadtと並んでシャウエンブルク家のホルシュタイン伯アドルフ3世が港湾に面した新市を建設した。89年にはフリードリヒ1世バルバロッサから船舶航行に関する特許状を与えられた。新・旧両市は1216年ころに一つの共同体にまとまり,90年ころには市参事会堂がつくられている。このころ人口は1500ほどであったが,1300年ころには5000にも増加し,ハンブルクは中世の繁栄期を迎えることになる。

 交通の要衝にあったうえにシャウエンブルク家と友好関係を結ぶことによってハンブルク市は,後背地の生産物を北海を経て世界市場であるブリュージュへ,そしてフランドルやイギリスに送り出した。とくに中世のハンブルクはビール醸造と輸出によって高い経済的地位を享受していた。このような繁栄のなかで市の政治権力を独占した商人層は手工業者の一揆を鎮圧し(1376),シャウエンブルク家の領域支配をも免れることができた。すでに1292年にはシャウエンブルク家は都市行政に介入することをあきらめ,1302年には関税徴収権も放棄したからである。

 市は36年以来聖界のインムニテートを主張する大司教座聖堂の影響力をも立法,裁判,租税徴収のいずれの面でも排除することができた。ハンブルクは後にいたるまで農村貴族に市内の土地の購入を認めなかったから,ハプスブルクの中心都市であったウィーンなどと比べると純粋な商人=市民の都市であった。このような状況のなかでかちえた特権を基盤にして,ハンブルクはハンザ同盟のなかでもリューベックについでロストク,シュトラールズントなどと並ぶ地位を占めるにいたった。

 ハンブルクは北海の河口からエルベ川を100km以上さかのぼった地点にあるため,港湾都市としての機能を失わないためには北海の河口までの航行の自由を確保しなければならなかった。こうした意図は1370年以後クックスハーフェンを含むエルベ川流域の獲得によってほぼ達成された。また1400-01年には北海を荒らしまわっていた海賊を掃討し,航路の安全をも確保することができた。

 1529年にはJ.ブーゲンハーゲン(1485-1558)の指導のもとで宗教改革が遂行され,豊かな土地をもつハルフェステフーデ修道院が世俗化された。このころにハンブルクの市制も改革された。市民層は世襲土地所有者と手工業アムトの親方に分けられ,市政は48人(1685年以後は60人)の長老と144人(1685年以後は180人)の参事会員の会議Kollegiumによって営まれることになった。宗教改革の導入ののちネーデルラントプロテスタント,とくにカルバン派とユダヤ人が移住し(1566-70。1585-89),イングランドの商人マーチャント・アドベンチャラーズも移ってきて,ハンブルクはアムステルダムと並んでかつてのアントワープの地位を継ぐことになった。こうしてハンブルクはイングランドとネーデルラントからの輸入の窓口となり,同時にメクレンブルクやザクセン地方さらにボヘミアの穀物をイングランドに輸出していた。

 このように交易が国際化していくなかで,ハンブルクは1558年に取引所を創設し,1619年には銀行も設立した。1616年から22年にかけて近代的な市壁をつくったハンブルクは,三十年戦争のなかで他の都市が大きな被害を受けたにもかかわらず,平和な都市として取引を続行することができた。1770年にはそれまで問題となっていたハンブルクの帝国直属の地位が確認され,以後周辺の諸侯勢力から独立した政策を展開していく基礎となった。すでに1768年にデンマークの支配を脱していたハンブルクは,こうして帝国議会に代表を送ることができるようになった。

 18世紀はハンブルクの文化が躍進した時でもあった。すでに17世紀はじめに世界的通商の要としてのハンブルクにふさわしく,注目すべき週刊紙《ノルディシュア・メルクリウスNordischer Mercurius》が発刊され,1713年以降は《フェアニュンフトラーVernünftler》が発刊されている。音楽の分野ではP.テレマンが市の音楽総監督として活躍した。1678年にはすでにオペラ座ができており,G.E.レッシングが《ハンブルク演劇論》を書いてハンブルクの演劇の水準を一挙に高めることになった。F.G.クロプシュトックもこのころハンブルクに移住し,ハンブルクはドイツの精神生活のなかで指導的な位置を占めることになった。

 しかしながら経済生活の面では七年戦争ののち100店をこす企業が破産し,ハンブルクの経済は衰退しつつあった。19世紀初頭にはデンマークやフランス(ナポレオン)によって占領され,とくに大陸封鎖によって経済的には大きな打撃を受けた。1810-14年の間ハンブルクはフランスの支配下におかれていたのである。15年にはハンブルクは自由ハンザ都市としてドイツ同盟に加盟し,20-37年に市壁が除去された。

 19世紀に入ると1842年の大火によってハンブルクの中心部分が焼失し,都市景観に大きな変化が生じた。しかしながら景気は上昇し,47年にはハンブルク~アメリカの定期航路会社HAPAG(現,ハパーク・ロイド)が設立され,86年以後ドイツ最大の海運業に発展していった。アフリカやオーストラリアとの取引も海運業の発展とともに増大していった。1861年には伝統的な貴族的市制が部分的に改革され,市参事会員の互選は廃止され,かつて世襲土地所有者として市参事会員になっていた者の半分は普通選挙によって選出されることになった。このころハンブルクは北ドイツ同盟に加盟していたが,関税同盟には加わっていなかった。88年になってようやくハンブルクはドイツ関税同盟に加わったのである。このことは予期に反してハンブルクに経済的繁栄をもたらした。人口は1811年に10万0700であったが,70年には41万2000に,1913年には103万に急増した。第1次大戦の前にはハンブルクはワシントンニューヨークに次ぐ世界で第3位の港湾都市となっていた。1937年にはプロイセンの都市アルトナ,ワンツベック,ハールブルク,ウィルヘルムスブルクその他27の農村地域を併合した。第2次大戦中は1943年の空襲によってハンブルクは徹底的に破壊され,5万5000人の死者を出した。このときの状況はH.E.ノサックが克明に描写している。1945年の敗戦によってハンブルクはイギリスの占領下におかれ,1949年にドイツ連邦共和国に加わった。戦後もハンブルクはドイツ連邦共和国最大の港湾都市として発展し,都市の再建もすすめられた。今では聖ニコライ教会の塔だけが,第2次大戦中の破壊のあとを後世に伝えるために,破壊された状態のまま保存されている。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ハンブルク」の意味・わかりやすい解説

ハンブルク
はんぶるく
Hamburg

ドイツ北部にある同国最大の港湾都市。ベルリンに次ぐ同国第二の大都市で、面積755平方キロメートル、人口172万8800(2002)。それ自体で一州を構成している。北海に流入するエルベ川の河口から約100キロメートル上流に位置し、その中州を縦横に掘削して港湾・工業地区が建設された。国内とスカンジナビア方面を結ぶアウトバーンが市内を通り、市域北部にフールスビュッテルFuhlsbüttel空港がある。

[齋藤光格]

港湾施設・工業

第二次世界大戦前は世界第4位の国際貿易港であったが、戦後、おもな後背地であったエルベ川沿いの地域が旧東ドイツ領として切り離されたため、一時オランダのロッテルダムや国内のウィルヘルムスハーフェン、ブレーメンなどとの競争に不利な条件にあった。それでもチェコは当時からこの港を利用してきたし、とくに1990年のドイツ統一後は、世界の約1100の港と、260航路の定期航路で結ばれる重要港として発展している。港湾地区の総面積は76平方キロメートル、うち16平方キロメートルが自由港である。2000年の輸入は4530万6200トンで、おもに化学製品、果物、穀物を輸入する。1980年ごろまでは石油の輸入が多かったが、北海油田からパイプラインで送られるようになり、輸入貨物量が大幅に減少した時期もあった。輸出は2805万1400トンで、機械、光学機械、車両などを輸出する。工業は、港湾関連部門である造船、機械、銅精錬、製粉、たばこ、ゴム、石油精製などのほか、とくに電子機器、印刷などが目だつ。

[齋藤光格]

市街

市域は、エルベ川沿いの幅広い低湿地から、北岸と南岸の洪積層丘陵地にかけて広がる。都心は北岸の旧城壁内、市街地の貴重な水面である中世の堰止(せきとめ)湖ビンネン(内)アルスターBinnenalster湖の南に接して位置する。中央駅から西に延びる中心商店街メンケベルクMönckeberg通り、その突き当たりの市庁舎前広場と市庁舎、アルター・ワルAlter Wall通り、それに接する商業・業務地区が都心を形成している。

 港町地区はやや離れて南西方のエルベ川河岸の近くにあり、「飾り窓」で知られるヘルベルトHerbert通りを含む船員向けの歓楽街レーパーバーンReeperbahn地区が有名である。港湾・工業地区にはここから川底をくぐるトンネルが通じ、朝夕は通勤客で混雑する。

 旧城壁の外は住宅地区であるが、北部には旧植物園、ハンブルク大学、西部には歴史博物館、ビスマルク記念塔など、文化施設が配置されている。市街地はいまや隣接するシュレスウィヒ・ホルシュタイン、ニーダーザクセン両州の域内にまで拡大しつつある。第二次世界大戦で被害を受けたため歴史的建造物は少ないが、19世紀、ネオ・ルネサンス様式の市庁舎、18世紀、バロック様式の聖ミヒャエル教会、17世紀の織物業組合の家などが残る。

[齋藤光格]

歴史

誕生と発展

825年ごろ築かれた城塞(じょうさい)からおこり、834年ここの教会に大司教座が置かれ、北欧キリスト教化の基地となった。バイキングやウェンド人の攻撃と略奪にあったが、11世紀に教父アダルベルトのもとで教化事業が進んだ。12世紀に領主シャウエンブルク伯はこの地の経済的重要性を認めて商人を計画的に定住させ、新市を建設した。1189年皇帝フリードリヒ1世がエルベ川下流域における商業、関税、航行の特権を与えた特許状は、商都ハンブルクの誕生文書となった。13世紀初めに一時デンマーク領になったが、その後目覚ましく発展し、多くの教会や市庁舎が建ち、市壁外に養老院が建てられた。1300年ごろには東西1.5キロメートル、南北0.8キロメートル、人口約5000であった。14世紀にはハンザ同盟の東西貿易の中継地となり、バルト海域の毛皮、蝋(ろう)、穀物、鉱物を西へ船積みし、西からの毛織物、香料、奢侈(しゃし)品をリューベックへ運んだ。市内ではビール醸造が盛んで、都市法はバルト海諸都市の母法となり、ドイツ最古の海事法が制定された。中世末には人口約1万4000、ハンザ第一の都市であった。

[諸田 實]

黄金時代

16世紀に大きな混乱なく宗教改革を達成したが、このころには快速の単檣(たんしょう)(1本マスト)船がズント(エアスン海峡)を通ってバルト海へ、あるいはフランス、スペインへ直行し、1558年船員組合が一致して取引所を設立した。商人層は自治と独自の発展を求め、イギリス産毛織物の輸入港となり、ネーデルラント(オランダ)から迫害に追われた新教徒の亡命者を受け入れた。彼らはアントウェルペン(アントワープ)の商業を伝え、国際的港都への発展に貢献した。17世紀は帝国都市ハンブルクの黄金時代である。1616~25年の間に四つの門と多数の稜堡(りょうほ)を備えた城壁を築いて防備を固める一方、19年にアムステルダムに倣って振替と為替(かわせ)を営むハンブルク銀行を設立し、62年にコンボイ(警備艦隊)の制度を始め、65年に商業会議所を設立、76年に火災保険業務が開始された。フランス革命期にアムステルダムにかわって北欧第一の貿易港となったが、1806年フランス軍に占領され、10年フランス領に編入された。

[諸田 實]

ドイツの一都市として

フランスに対するドイツ解放戦争(1812~15)後は自由都市としてドイツ連邦の一員となり、中南米、アフリカ、東アジア貿易が栄え、北欧への中継港となった。1847年ハンブルク・アメリカ海運会社が設立され、港も拡張された。1914年の保有船は1466隻、約300万トン。1871年ドイツ帝国に、88年関税同盟に加入。市民文化も栄え、18世紀にはテレマン、レッシングが活躍し、19世紀にはメンデルスゾーン、ブラームスが生まれ、ハイネも一時期を送った。第二次世界大戦中の1943年夏には爆撃で大きな被害を受けた。

[諸田 實]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ハンブルク」の意味・わかりやすい解説

ハンブルク
Hamburg

ドイツ北部,エルベ川にまたがるヨーロッパ最大の港湾都市。正式名称は自由ハンザ都市ハンブルク Freie und Hansestadt Hamburg。ベルリンに次ぐドイツ第2の都市。一市でハンブルク州を形成。北のシュレースウィヒホルシュタイン州,南のニーダーザクセン州に囲まれ,面積はドイツの 16州中,ブレーメン州(→ブレーメン)に次いで小さい。市の歴史は,エルベ川とアルスター川に挟まれた高台に,カロリング朝フランク王国の北東の備えとして,カルル1世(大帝)が 808年に建築を命じた防塞に始まる。834年には大司教座が置かれ,その後約 300年間は北ヨーロッパにおけるキリスト教布教の中心であったが,12世紀末から商業都市として急速に発展,13世紀後半以後ハンザ同盟の主要都市として活躍。近世にはアメリカ合衆国,中南米諸国などとの貿易によって繁栄。今日では自由港区(→自由港)をもち,ドイツにおける世界への門としてヨーロッパ大陸最大の海運業の中心地の一つとなっている。ハンブルクは北海のヘルゴラント湾からエルベ川を約 110kmさかのぼったところにある。この地域は下エルベと呼ばれ,ハンブルク下流 10km地点の川幅は約 2km。航路の狭い部分もあるが,水深は 11m以上を維持し,外洋船の安全な航行を保障している。ドイツ輸出入の約半分を扱い,荷揚げ物資は石油,石炭,鉄鉱石など各種工業原料と食品,積み出し物資はドイツ各地で生産される工業製品が多い。内陸部には鉄道,道路,水路による交通網が発達し,ヨーロッパ各地と緊密に結ばれている。市北部の空港はヨーロッパでも特に古く規模の大きなもので,空路でも世界への門となっている。またドイツ有数の工業都市でもあり,石油精製,銅精錬,食品加工などをはじめ各種工業が盛んである。市街地は第2次世界大戦中に激しい空襲のため半分以上が壊滅したが,市のシンボル聖ミヒャエル聖堂などとともに美しく再建されている。エルベ川河口付近の市街地にある歴史的な倉庫街シュパイヒャーシュタットと,フリッツ・ヘーガー設計のチリハウスがあるコントルハウス地区(商館地区)は,2015年世界遺産の文化遺産に登録された。面積 755km2。人口 174万6342(2014推計)。

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百科事典マイペディア 「ハンブルク」の意味・わかりやすい解説

ハンブルク

ドイツ北部,ドイツ第2の大都会で一州をなす。エルベ川河口から約140km,アルスター湖に沿う港湾都市。世界的商港で海外航路の中心。造船,航空機,製油,化学,食品,タバコなどの工業が行われる。国際空港,地下鉄網をもつ。大学(1919年創立),ハーゲンベック動物園,132mの塔をもつ聖ミヒャエル教会などがある。9世紀に大司教座がおかれ,北方布教の基地となり,13世紀にはハンザ同盟の指導的な都市として繁栄した。1842年大火に見舞われ,第2次大戦中は大空襲を受け中世以来の都市は破壊された。174万6342人(2013)。
→関連項目自由都市

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旺文社世界史事典 三訂版 「ハンブルク」の解説

ハンブルク
Hamburg

ドイツ連邦共和国北部,エルベ川河畔に面する港湾都市。正式名称は自由ハンザ都市ハンブルク
12世紀初めにシャウエンブルク伯によって商業都市が建設され,1297年完全な自治権を得てハンザ同盟の重要都市となった。宗教改革時代にはプロテスタントの根拠地として栄え,16世紀末以来,北欧最大の国際市場となった。1871年ドイツ帝国の成立でその一部となり,現在は市自体で連邦を構成する一州をなすが,市参事会など中世ハンザ同盟の伝統が残っている。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ハンブルク」の解説

ハンブルク
Hamburg

エルベ川下流(河口から110km)に位置するドイツ最大の港湾,商業都市。ドイツの連邦州の一つ。13世紀頃より商業が栄え,ハンザ同盟の中心都市の一つとなる。1460年帝国都市となり,以後今日まで政治的自立性を保っている。

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世界大百科事典(旧版)内のハンブルクの言及

【ブレーメン】より

…人口54万9000(1995)。ウェーザー川に沿い,ハンブルクに次ぐ同国第2の港湾都市。羊毛,木綿,タバコ,穀物などが輸入され,市内外にはこれらの原料を加工する産業が栄え,またウェーザー川下流では造船業が盛ん。…

※「ハンブルク」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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