改訂新版 世界大百科事典 「メクレンブルク」の意味・わかりやすい解説
メクレンブルク
Mecklenburg
北東ドイツの一地方で歴史上の領邦(ラント)の名称。リューベック湾から東に延びるバルト海沿岸地方であり,砂丘の広がる海岸から内陸に向かうと松やブナの濃い森林の中に数多くの湖沼が点在する。土地は泥灰質の良質の土壌に富み,本来は農業地帯である。しかし,沿岸都市には造船業などの工業が存在し,また,バルト海航路によってスカンジナビア諸国への交通の要衝を占めている。美しい海岸線には著名な海水浴場や保養地がある。メクレンブルクは東ドイツに属していたが,1990年のドイツ統一で東に隣接するフォアポンメルン地方と合わせてメクレンブルク・フォアポンメルン州(面積2万3179km2。人口172万人,2004)が新設された。主要都市としては,ハンザ都市としての伝統をもつ,商業・港湾都市のロストクおよびウィスマル,また,メクレンブルク最古の都市で大公の居城都市であった新州都のシュウェリーンがある。ロストクには1419年設立の大学がある。
タキトゥスの時代,この地方にはゲルマン系部族が居住していたが,6世紀ごろにはすでに西スラブ族のオボトリートObotritによって占拠されていた。この部族は,フランク王国や神聖ローマ帝国の進出に対して執拗な抵抗を続けていたが,1160年ザクセン公ハインリヒ獅子公によって完全に征服された。しかし,この地方は敗北した族長の子プリビスラウPribislawに返還され,彼は神聖ローマ帝国の君侯Reichsfürstとして領邦を支配することとなった。メクレンブルクは,神聖ローマ帝国内でスラブ人を始祖とする君侯をもつ唯一の領邦である。その後,この地域も他のエルベ川以東のドイツ地域と同様,東部ドイツ植民によって多数のドイツ人が移住し,ドイツ人の都市や村落が建設された。
16世紀に入るとこの地域には,独特な領主制であるグーツヘルシャフトが形成される。すなわち,領主層は農民を農奴化し,賦役労働を課して大農場を経営して,拡大する西ヨーロッパ市場へ穀物を輸出した。グーツヘルシャフトの形成は,騎士領主あるいはこれを中心とした等族Ständeの勢力を領邦君主権力に対して優越させた。メクレンブルク公はしばしば等族の反抗を制圧しようとしたがむだであった。それどころか公爵家はたびたび分裂の危機におちいり,1701年にはついにメクレンブルク・シュウェリーンとメクレンブルク・シュトレーリツとに永続的に分割されることとなった。そして,55年の領邦基本法的な〈世襲協定Erbvergleich〉によって領邦君主権力は大幅に制限され,騎士領主=グーツヘルの優越的地位が確定した。いわゆる〈農民追放Bauernlegen〉によってグーツヘルが自己農場を拡大する傾向は,グーツヘルシャフトの成立期からあったが,メクレンブルクでは18世紀においても広範に継続した。ナポレオン戦争を契機として,メクレンブルクでも農民解放が実施されたが,隣接するプロイセン王国と対比しても農民にとってきわめて不利な内容をもっていた。確かに農奴制は1819年に廃止され,また御料地では農民は永代小作権を得たが,騎士所領では農民の土地に対する権利はほとんど否定された。こうして,メクレンブルクは,貴族の大農場と大土地所有が支配する地域となった。1907年の農業経営統計に従えば,100ha以上の農地をもつ農業経営は,全農地面積のうち,メクレンブルク・シュウェリーンでは59.7%,メクレンブルク・シュトレーリツでは60.0%を占めていた。
ドイツの近代的工業国家への成長のもとでも,この地域は,少数の沿岸都市である程度の工業の発達が認められるのみで,全体として純粋な農業地帯にとどまり,離農によって多数の労働力を失った。1918年に,1815年以来〈大公〉の称号をもっていた両メクレンブルク家は領邦君主の地位を最終的に失った。しかし,その後もメクレンブルクは,政治的にも社会的にも後れた地域の性格を維持したが,第2次世界大戦後ソ連占領下で〈民主的土地改革〉が実施され,大土地所有は小農民や農村労働者に分割され,この地域の社会の伝統的特質は失われた。
執筆者:藤瀬 浩司
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報