翻訳|Baltic Sea
ヨーロッパ北部,スウェーデン,フィンランド,ロシア,エストニア,ラトビア,リトアニア,ポーランド,ドイツに囲まれた海。面積約40万km2,最深429m,カテガット海峡で北海に連なる。北緯60°付近で北のボスニア湾と東のフィンランド湾に分かれる。北欧では東海Østersjønと呼ぶ。北の地中海にあたり,古代バルト文明,中世のバイキング東征やハンザ同盟通商の舞台となった。約1万~1万5000年前にスカンジナビア氷床の縁がこの海域にあり,北の硬い楯状地と南の若い堆積岩の境界部が深く削られてこの海盆ができ,その頃はストックホルムとイェーテボリを結ぶ低地で北海と連なり,カテガット海峡は閉じていた。おもな島は北のオーランド諸島,西のエーランド島,ゴトランド島,東はリガ湾の入口にヒーウマー島とソーレモ島があり,南西にボーンホルム島がある。ポーランド北岸には砂州で囲まれた二つの大湖がある。東および南から大河が流入して表層流をつくり,西からの流入水は低層流となり,前者は後者の3倍に達する。潮汐の差は小さく,深い海溝もなく平均水深も浅いが,冬季の気候条件は厳しく,北・東部は凍結する。
執筆者:太田 昌秀
バルト海は古くから海上交通に利用され,沿岸には有力な海港都市が数多く発達している。新大陸・アジア航路が開拓される以前,地中海と並んでヨーロッパ海上貿易の主要舞台であった。今日ではユトランド半島を横断する運河(北海・バルト海運河)によって北海に続いているが,古くは同半島を迂回する航路を取らねばならなかった。それは距離も遠く危険度も高かったので,むしろ同半島の付け根を通る陸路にいったん荷揚げする連絡路が利用され,迂回路の利用は比較的後年(中世末)になってから本格化している。
バルト海貿易を最初に開拓したのはスカンジナビアに居住する北ゲルマン人(バイキング)であった。バイキングについてはとかく海賊活動のみが強調されるが,最近の研究は彼らが北方貿易開拓者として果たした役割を積極的に認める傾向にある。ゲルマン人の東方進出に伴い,12世紀以後バイキングに代わってドイツ人がバルト貿易の担い手として登場する。ドイツ人はバルト海への出口としてリューベック市を建設し,次いでスウェーデン沖合のゴトラント島に進出し,そこを中継地としてロシアとの貿易を開いた。当初ドイツ商人が求めた物資はロシア産の毛皮であったが,バルト海南岸が開発されるに及んで穀物,材木,コハクなども取引されるにいたった。この間,西方ではフランドルを中心に毛織物工業が発達したので,西方の工業製品と東方の食糧,材木などを交流させる一種の国際分業に立脚した貿易が,バルト海を舞台として展開されるようになった。
これらの商品は恒常的に需要があり,しかも一般大衆を消費者とする日用品であって,このような生活必需品を中心としたことはバルト海貿易の本質的な特色である。この点で香料をはじめとする珍貴で高価な東洋商品を主要取引品目とし,おもに王侯・貴族を顧客とした地中海貿易と対照的であった。それだけにバルト海貿易には投機性は比較的乏しく,多数の商人が日常的に協力して大規模取引を遂行しなければならなかった。事実,バルト海貿易に関与した商人や都市は相互に結束してハンザ同盟の名で知られる連合勢力を自然に成立させた。それゆえ,中世のバルト海貿易は事実上,ハンザ同盟の独占するところとなっていた。例えば,バルト海の冬季は厳しく,中世には冬季航海は禁止されたが,それも強力な相互の結束を背景にしなければ考えられない。中世末からオランダ人,イギリス人がハンザの独占に挑戦し,ハンザ勢力もしだいに衰え,近世に入って大西洋・太平洋航路が国際貿易の主要舞台となるに及び,バルト海貿易も昔日のような比重を失わざるをえなかった。
執筆者:高橋 理
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ヨーロッパ北部、スカンジナビア半島とヨーロッパ大陸との間に挟まれた内海。北緯54~66度、東経9~30度までの広がりをもつ。面積42万2300平方キロメートルで、世界最大の汽水域である。平均水深は55メートル、最大水深はゴトランド島北部で459メートル。スウェーデン、フィンランド、ロシア連邦、エストニア、ラトビア、リトアニア、ポーランド、ドイツ、デンマークの国々によって囲まれる。沿岸には工業都市が多い。地形的な観点から、ボスニア湾、ボスニア海、フィンランド湾、リガ湾、バルト海主部、ベルト海およびカテガット海峡の7海域に細分される。狭義にはバルト海主部のみをさすこともある。北海とは狭くて浅いカテガット海峡でしかつながっていないため、水の入れ換えは不活発で滞留時間が長い。そのため、沿岸の工業地域や都市から流入する廃水によって汚染が進行し、重大な国際問題となった。海域が全面結氷することは数十年に一度しかないが、ボスニア湾、フィンランド湾、リガ湾などは毎年のように3~5か月間結氷する。この間船の航行が不能となるため、地域の経済活動に重大な影響が生じる。
[田口雄作]
バルト海は、古くからノルマン人(バイキング)、バルト・スラブ人などが相次いで活躍した通商路であった。13世紀ごろからハンザ同盟、ドイツ騎士団などに代表されるドイツ人が海上および沿岸地域に進出し始め、おもにデンマークからの激しい反撃を排して、中世末期にはこの地域を支配下に置いた。16世紀にハンザ同盟が衰え、かわってスウェーデンが東・南岸に進出し始めると、デンマークおよびポーランドはそれに強く抵抗したが、17世紀中ごろにはスウェーデンのバルト海支配は強固なものとなった。18世紀、スウェーデンの衰退後ロシアの勢力が増大し、プロイセンも影響力を増した。19世紀中この傾向はあまり変わらず、1908年、列強のバルト海における勢力均衡を保つための条約が結ばれた。第一次世界大戦後ドイツとロシアの影響力が退き、沿岸に多数の新興国が成立すると、バルト海中立化の構想が生まれたが、実現には至らなかった。第二次大戦後、東・南岸におけるソ連の影響力が増大する一方、非核武装地帯化の構想も生まれたが、ソ連の崩壊、バルト三国の独立を経て北部ヨーロッパの重要な海上交通路として機能している。
[本間晴樹]
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北海に出口を持ち,約40万km2に及ぶ。岩礁が多く,また吹く風の方向も一定でないため航海に困難であるが,その地理的位置から9世紀以来通商の交差点となってきた。ドイツ,ロシアなどを含む沿岸諸国は常に同海の支配をめざして角逐し,両世界大戦においては主要戦場の一つとなった。第二次世界大戦後,ソ連海軍が東岸のクロンシュタットに基地を置くなど冷戦の影響がみられたが,1970年代から環境汚染が深刻化したことで,沿岸諸国によるバルト海地域協力が始まった。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…この2人はまったく同一世代を生きながら(没年はともに1528年),ドイツ絵画の両極を支えた。デューラーの工房からはH.vonクルンバハ,H.L.ショイフェライン,H.バルドゥングらが巣立ったが,いずれも師の画域を超えることはなかった。このうちバルドゥングはグリューネワルトの色彩からも感化を受けながらも,後者の色彩の魔術へはいたりえなかった。…
※「バルト海」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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