日本大百科全書(ニッポニカ)「バーナンキ」の解説
バーナンキ
ばーなんき
Benjamin Shalom Bernanke
(1953― )
アメリカの経済学者。アメリカ連邦準備制度理事会(FRB)第14代議長。12月13日ジョージア州オーガスタ生まれ。ハーバード大学卒業。マサチューセッツ工科大学で経済学博士号(Ph.D.)を取得。2002年にFRBの理事に就任する前は、プリンストン大学教授。2006年にグリーンスパンの後任としてFRB議長に就任。2008年のサブプライム危機とリーマン・ショック、世界金融危機などに際して、相次いで大胆な金融緩和を実施し、2014年1月に任期満了で退任するまで2期8年務めた。
バーナンキの著名な研究の一つに、1929~1933年のアメリカ大恐慌の分析がある。当時、アメリカはデフレに陥っていたが、この原因がFRBの金融政策の失敗にあると主張する。すなわち、銀行セクターに対する「最後の貸し手」としての役割を果たさず、金融緩和を実施しなかったことから金融市場の混乱を止められず、信用貸出の抑制が総需要の減退につながったとの見解である。
また、日本銀行の金融政策についても、2000年代初めから金融緩和が不十分であると強い批判を展開した。ミルトン・フリードマンが用いた「ヘリコプター・ドロップ」(ヘリコプターから市民に向けてお金をばらまくこと。ヘリコプターマネー)ということばを使い、国債等の買入れによって得た資金を使って減税をすべきであると主張した。
2003年5月にFRB理事として日本金融学会で講演を行い、インフレ目標の導入よりも(よりハードルが高い)物価水準を目標として導入し、日本銀行による大量の国債の買入れによって得た資金を、減税や歳出拡大に配分すべきと提唱した。このため、「ヘリコプター・ベン」ともよばれている。
リーマン・ショック後のアメリカで、政策金利(フェデラル・ファンドレート)を急ピッチで引き下げ、ノンバンクなどにも大量の資金供給を実施し、資産買入れなど大胆な非伝統的金融緩和政策をいち早くとりいれたバーナンキの功績に対する評価は高い。アメリカ大恐慌研究の専門家であり、当時のFRBによる金融政策の失敗を熟知するバーナンキだからこそ、デフレを回避するため、果敢に、迅速かつ大胆な金融緩和を打ち出すことができたとの評価が、多くの中央銀行関係者から聞かれる。
また、バーナンキはFRB議長時代に、金融政策の情報発信についての透明性を高めることに、大きく貢献している。たとえば、四半期ごとの連邦公開市場委員会(FOMC)のメンバーによる実質成長率、失業率、インフレ率の向こう3年間の中期見通しの公表、フェデラル・ファンドレート見通し(通称「ドットチャート」「ドットプロット」)の公表、インフレ率の長期的なゴールの公表(2012年1月導入以降、2%維持)をしたほか、年8回のFOMCのうちの4回について会合後に、議長による記者会見を実施するようになったことなどがあげられる。これにより、FRBの金融政策運営の透明性が高まり、金融政策に対する市場や市民の理解が格段に高まったといえる。
[白井さゆり 2016年12月12日]