翻訳|panic
経済学では〈経済恐慌〉を意味するが,社会学や心理学では不特定多数の群衆が引き起こす〈集合行動collective behavior〉の一種をパニックと呼んでいる。ギリシア神話における羊や牛の守護神パンPanに起源をもつ。狭義には危険からの無目的な逃走を指し,たとえばスメルサーN.Smelser(1930- )は〈ヒステリー的信念にもとづく集合的逃走〉,またブラウンR.W.Brown(1915- )は〈感情的で非合理的な逃走反応〉と定義している。こうした事態が起こる典型的な状況は劇場や映画館の火災であり,たとえば1942年ボストンのココナッツグローブ劇場で発生した火災では観客が一斉に出口に殺到したため,群衆なだれによって数百名が死亡したといわれている。しかし,もっと広く〈統制のとれない社会的混乱〉をパニックと呼ぶこともある。この定義では,逃走反応(〈脱出のパニック〉)ばかりでなく,貴重な資源を人々が争って獲得しようとする現象(〈獲得のパニック〉)や,憎悪の対象に向かって集団暴力をふるう現象(〈暴動パニック〉)もパニックに含まれるであろう。獲得のパニックの例としては,1973年の第1次石油危機のおりに発生し全国に広がったトイレットペーパー買いだめ騒動や同年愛知県豊川市で発生した豊川信用金庫の取りつけ騒ぎがあり,また暴動パニックの例としては,アメリカの各市でしばしば発生する〈黒人暴動〉をあげることができよう。
パニックがいかなる条件のもとで発生するかについては諸説があるが,これを要約して示すと,(1)突発的事態の発生,(2)人々が共通にいだく強い情動と他者への心理的感染,(3)競争的事態の出現,(4)日常的規範の消滅と緊急規範の出現,(5)行為のモデルを提供する人間の出現,などである。たとえば脱出のパニックでは,(1)劇場での火災といった危機的状況が突然出現し,(2)居合わせた人々が強い恐怖に襲われ,かつこの恐怖が周囲に伝わって増幅し,また,(3)他人より早く逃げなければ自分が死ぬかもしれないという気持が人々のあいだに広がり,さらに,(4)礼儀やエチケットへの配慮がなくなって,最後に,(5)ある人が出口に駆け出すと多数が一斉にそこに殺到するという事態に至るのである。
パニックは通常,火災や爆発などの突発的事態を人々が直接知覚することによって発生することが多い。しかし,口から口へと伝えられる流言やマスコミからの情報がパニックのきっかけになることも少なくない。危険の直接的知覚ではなく,危険の発生を知らせる情報によって引き起こされるパニックを,とくに〈情報パニック〉と呼ぶことがある。1938年10月,アメリカのCBSラジオが火星人来襲をテーマにした,O.ウェルズの《火星人襲来》というラジオドラマを放送し,100万人以上の聴取者に深刻な混乱を引き起こしたできごとがあった。これは,情報パニックの典型例としてきわめて有名である。日本でも,1978年1月伊豆大島近海地震の発生直後に静岡県の出した余震情報が住民のあいだに広がるうちに流言化し,〈余震情報パニック〉といわれる混乱を生み出している。マス・メディアが発達し情報がはんらんしている現代社会では,こうした情報パニックが発生する可能性はけっして小さくない。
パニックは危機的事態において発生するのであるから,人々の生命と財産が危機に陥る大災害時には広範にパニックが発生するのではないか,と危惧されている。そのため防災機関では,パニックの結果生じる群衆なだれによる人的被害の軽減策を講じている。しかし,パニックに関する代表的な研究者であるクアランテリE.L.Quarantelliは,たしかにパニックは災害時にも発生するが比較的局部的な現象にすぎず,懸念されるほど広範に発生するものではないとし,パニックについての一般人の誤ったイメージを,災害に関する最大の〈神話〉と呼んでいる。
執筆者:広井 脩
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経済用語としては恐慌のこと。社会心理学では乱衆とよばれる。劇場の火事でわれ先に非常口に殺到する観客、物不足の怪情報に踊らされてスーパーマーケットに押し寄せる主婦などにみられるように、人々の日常生活を脅かす現実の、あるいは想像上の危険ないし危機に直面して、その処理や解決の手段・方法が極度に制約されているとか、ルーティーン化された制度的役割行動が有効性を失うと予想されるために、衝動的、非合理的性格の強い回避、逃走、獲得などの集合行動を同時集中的に引き起こす、有効な統制・規制のとれない群衆なだれや社会的な混乱などの異常事態をいう。多くの場合、予期しない突発的なできごとや事件が引き金になって発生するが、パニック現象の基底に、生命や財産の安全性への人々の潜在的な不安や恐怖が通例存在することを忘れてはならない。こうしたできごとや事件の情報回路として、マス・メディアは今日きわめて重要な役割を担っている。
1938年10月、火星人襲来をテーマにしたオーソン・ウェルズ脚色のラジオドラマは、少なくとも100万のアメリカ人をパニック状態に陥れたといわれている。このパニックを調査研究した社会心理学者H・キャントリルは、批判能力がパニック行動への重要な歯止めであると指摘し、さらに聴取者のパーソナリティー特性とラジオの聴取状況とが批判能力の効果的な働きに深く関連していたと述べている。確かに教育による批判能力の育成と強化は「パニック行動への最良の予防策」であるとしても、社会的なパニック現象の場合、人々の潜在的な不安や恐怖を醸成する政治、経済、文化の生活諸領域における矛盾やひずみが根本的に解消されない限り、パニックはふたたび繰り返されるであろう。災害社会学や災害心理学の発展とともに、不可抗力な災害時に憂慮されるパニック現象へのリスク管理的視点からの研究関心が高まっている。
[岡田直之]
『H・キャントリル著、斎藤耕二・菊池章夫訳『火星からの侵入――パニックの社会心理学』(1971・川島書店)』▽『宮本悦也著『パニック学入門――残像を殲滅せよ』(1971・時事通信社)』▽『N・J・スメルサー著、会田彰・木原孝訳『集合行動の理論』(1973・誠信書房)』▽『大原健士郎編・解説『パニック』(『現代のエスプリ』128号・1978・至文堂)』▽『高橋郁男著『パニック人間学』(1982・朝日新聞社)』▽『J・P・ペリーJr.、M・D・ピュー著、三上俊治訳『集合行動論』(1983・東京創元社)』▽『安倍北夫著『パニックの人間科学――防災と安全の危機管理』(1986・ブレーン出版)』▽『釘原直樹著『パニック実験――危機事態の社会心理学』(1995・ナカニシヤ出版)』▽『藤竹暁著『パニック――流言蜚語と社会不安』(日経新書)』▽『安倍北夫著『パニックの心理――群衆の恐怖と狂気』(講談社現代新書)』
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