密教に基づく美術であるが,その様相は複雑である。それは密教の大陸における盛衰と日本における独自の展開によるものであり,ここではまずアジア的視野で概観を試みる。
南・中インドの竜樹系の〈中観(ちゆうがん)論〉と,北・中インドの無著・世親系の〈唯識論〉が接触したナーランダー寺は,パーラ朝には密教学の中心となった。仏教が,バラモン教を摂取したヒンドゥー教の隆盛に対応するため,これらと妥協し,回生を計ろうとしたところに密教学は確立された。やがて大日如来(大日)を中心に,釈尊の禁止した呪や印契,壇を設ける修法を取り入れ,バラモン教・ヒンドゥー教の諸神を多量に包摂した。
密教のアジア諸国への伝播にはいくつかの道があった。密教成立後100年ほど後の747年,パドマサンババ(蓮華生(れんげしよう))がチベットに入り,土着のボン教と融合してラマ教を開いた。その後ラマ教はモンゴルに入り,元朝がこれを採用して中国,朝鮮にまで伝播した。また,それより以前に,中インドの善無畏(ぜんむい)が西域を経て,716年中国の長安に入り密教を伝えた(北伝)。一方,南インドの金剛智(こんごうち)は若き不空を伴い,南海経由で,720年長安に至り密教を伝えた(南伝)。
歴史的には大日如来出現以前を雑密(ぞうみつ)といい,これを初期とし,大日出現以降(純密),8世紀中ごろまでを中期とし,それ以後密教滅亡(1203)までを後期と分けるが,初・中期の密教の美術は,インド,チベットにはほとんど遺存せず,現存するのは後期密教の美術にすぎない。また中国には漢訳経典があり,文献的にはかなりその様相をとらえられるが,遺品は廃仏等のためわずかに存するだけである。しかし日本では,空海をはじめ入唐八家の請来僧によって,漢訳経典のみならず,密教美術が多く請来され,伝写も行われて遺品にも恵まれている。したがって日本は,アジアにおいて空白となっている初・中期密教美術の宝庫であり,アジア的視野に立って密教美術を考える場合,日本に残る密教美術の重要性はきわめて高いといえる。
最澄,空海によって,平安初期に密教(純密)が請来されたが,それ以前の白鳳・奈良時代に,すでに雑密が浸透していた。大化改新後に安宅法や仁王会が行われたことが文献に現れ,奈良時代には《金光明経》《仁王経》をはじめ《金光明最勝王経》《華厳経》《梵網経》が尊重され,鎮護国家,現世利益に重点をおく雑密的傾向が強まる中で,金銀泥の装飾経も作られるようになる。経典の雑密化の傾向は仏像にも反映し,奈良時代には四天王,梵天,帝釈(たいしやく)天の6尊構成の像が造られ,十一面観音,千手観音,不空羂索(ふくうけんじやく)観音など多面多臂の変化観音像が出現するとともに,仏教に導入された異教神である吉祥天,弁財天,伎芸天,門神としての金剛力士や執金剛神像なども造立された。
奈良末期建立の西大寺は罹災により創建時の像は失われているが,〈西大寺資財帳〉によって,馬頭(ばとう)観音,孔雀明王,那羅延(ならえん)天,火頭金剛,堅牢地神など,のちの純密に属する像がすでに造像されており,平安初期の空海らの純密の請来も,けっして唐突なものではなかったことがわかる。
まず最澄,空海をめぐる美術をとりあげる。最澄,空海が直接遺したもののうち現存する品は書跡以外にない。最澄にかかわるものには〈請来目録〉〈羯磨金剛目録〉〈弘法大師請来目録〉〈尺牘(せきとく)〉等があり,空海には〈聾瞽指帰(ろうこしいき)〉〈大日経疏要文記〉〈三十帖策子〉〈灌頂歴名〉〈尺牘〉等がある。これらの優れた筆跡を通して,両者の風格をうかがうことができるとともに,空海の多様性に富む筆跡には唐代書跡の諸傾向が認められて興味深い。
美術工芸では,最澄請来の遺品は,延暦寺の災火により失われ,わずかに〈七条刺納袈裟〉が存するにすぎない。これに対して空海の請来品には,《真言五祖像》,密教法具,犍陀穀糸(けんだこくし)袈裟(すべて教王護国寺),木造諸尊仏龕(金剛峯寺)等があり,それぞれに唐朝様の特色がよく現れている。また空海は帰国後高雄山寺(神護寺)を拠点としたが,天長年間(824-834)淳和天皇の発願により,灌頂堂のために,請来の〈両界曼荼羅〉をもとに金銀泥絵でこれを描かせた。これは現存最古の現図曼荼羅で,中唐様式の画風をよく伝えている。
その後空海は高野山金剛峯寺を建立した。たび重なる火災で創建時の堂塔は遺らないが,1926年に焼失した金堂(実は講堂)には本尊阿閦(あしゆく)如来(秘仏)を中心に,左内側より金剛薩埵(さつた),不動明王,普賢延命,右内側より金剛王,降三世明王,虚空蔵菩薩の密教尊像が安置されていた。このうち金剛薩埵,金剛王は,堂々たる体軀のうちに内観的な相貌を呈する,創建時の像であった。これらは金剛界曼荼羅の東方阿閦如来円中の3尊であり,この円の本質は,金剛杵(こんごうしよ)をもって邪を破り,一念発起する金剛薩埵の徳にあり,これをもって金剛峯寺講堂像の中核としたところに,空海の深意がこめられている。
東寺では,空海入定後の839年(承和6)に講堂諸尊の開眼供養が行われた。現在講堂には,中央に大日を中心とした金剛界五仏,東に金剛波羅蜜を中心とする金剛界五菩薩,西に不動を中心とした五大明王が安置されている。この配置は,金剛界法と《仁王経》とを折衷し,五仏-五菩薩-五大明王という三輪身説を背景にもつ空海独自の密教思想による立体曼荼羅である。
天台宗では,円仁,円珍が入唐し,空海が請来しながら最澄が求めえなかった経典や儀軌類をほとんど請来し,ここに天台宗は真言宗とはじめて対等となった。空海の弟子実慧(じちえ)は東寺をつぎ,観心寺を建立した。その如意輪観音は,華麗な彩色と豊満な体軀の中に,密教像特有の森厳さが漂う。東寺は実慧の弟子の真紹から宗叡,益信(広沢流祖)に至る。実慧のもう一人の弟子恵運は安祥寺を建て,ここに五智如来が現存する。また空海の実弟真雅(小野流祖)は,東寺経蔵,東大寺真言院,弘福(ぐふく)寺をつぎ,その弟子真然は金剛峯寺第2世となり,この流れは醍醐寺開基の聖宝に至る。平安末から鎌倉初期には,広沢,小野両流から学僧が輩出し,《図像抄》《別尊雑記》《覚禅抄》などの密教図像集の編纂が行われた。
密教像は画像,彫刻像が多く,そのほか鏡像や厨子(ずし)など工芸品にも表され,その種類はきわめて多い。主要なものを挙げると,(1)如来 胎蔵界五仏,金剛界五仏,(2)仏眼・仏頂 仏眼仏母菩薩,一字金輪仏頂等,(3)菩薩 変化観音(九面,十一面,千手,不空羂索,准胝,如意輪観音等),普賢延命,妙見,孔雀明王菩薩等,(4)明王 不動,降三世,軍荼利(ぐんだり),大威徳,金剛夜叉または烏蒭沙摩(うすさま)(以上五大明王),五大力吼(ごだいりきく),愛染,大元帥,青面金剛(しようめんこんごう)など,(5)天 十二天等,(6)曼荼羅 両界曼荼羅,別尊曼荼羅,(7)垂迹像 鏡像,懸仏,垂迹曼荼羅などがある。
現世利益を求めて呪をとなえ,印契を結び,護摩を焚く密教の修法には行動性がある。神秘的な修法の行のなかで深い祈りをこらすところに,密教像の内省的な森厳さが生まれる。また願いの熾烈さは,呪,印,護摩の焰と共鳴し合って,律動的な線,強烈な色彩の対比をよび,特有の忿怒(ふんぬ)像を求めることとなった。これらは平安,鎌倉期の仏画,彫像に明瞭にあらわれている。密教はまた異教の修法や神々を積極的に摂取し,自己の体系の中に整然と包摂してしまう総合性を有する。異質的な諸尊を巧みに配列して統一ある曼荼羅を構成するところに,そのことはいかんなく発揮されているといえよう。
後期密教の美術遺品が多くを占めるインドで,近年オリッサ州のラリタギリ,ラトナギリにおいて前期密教の石像彫刻が発掘された。胎蔵大日,金剛薩埵,観音像,八大菩薩像などではないかと推測され,中国,日本の密教像と図像的に一致することがしだいに明らかになってきている。今後さらに調査が進むことによって,汎アジア的に前期密教の美術を解明することが重要な課題となっている。
執筆者:石田 尚豊
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
仏教の一派である密教の教理の表現としての絵画、彫刻、とくに平安前期(9世紀)の空海以後の密教の展開に伴って生み出された造形美術一般をさす。それまでの仏教は釈迦如来(しゃかにょらい)を中心とした大乗仏教で、阿弥陀(あみだ)、薬師、弥勒(みろく)の諸如来が住むそれぞれの浄土世界、つまり彼岸(ひがん)にある聖なる理想の世界を表現する、いわゆる顕教であったが、密教は現世において如来の境地に達しうるとする即身成仏の考え方にたっている。奈良時代にも四天王、梵天(ぼんてん)、帝釈(たいしゃく)天、観音(かんのん)など密教的な諸尊もあったが、これらは仏教世界の守護神としての役割をもち、この時代のものは「雑密(ぞうみつ)」という。これに対し真言(しんごん)・天台以後の密教を「純密」といっている。
密教美術の遺品はインド、ネパール、ジャワにもみられ、チベットには特異なチベット仏教(ラマ教)美術があるが、純密系の美術が盛行した中国唐代の作品はほとんど失われたのに対し、日本には遺品が豊富に存在している。これは、密教、とくに純密系が長く日本の仏教界の主導的立場を維持してきたことの証左といえよう。
[永井信一]
密教の密は秘密の意で、定められた儀軌(儀式と法規)に従って修法を行わなければならない。修法は他見を許さず、秘法秘儀とし、呪術(じゅじゅつ)的要素をもち、その世界は曼荼羅(まんだら)図で表現される。壇を築き、法具を配し、儀軌に従って本来は土に本尊以下の諸尊を描いたが、日本では念ずる仏の姿を描いた画幅が掲げられた。このように密教の修法が諸尊の図像を不可欠としたところから造形美術の発達を促した。
これに伴い仏像の種類が増大した。華厳(けごん)や瑜伽行(ゆがぎょう)派などの思想に基づく理論づけと、大日(だいにち)如来に帰一する諸尊の体系化が進められ、仏教以外の宗教の神々も積極的に取り入れられ、それぞれに異なった性格や力をもつ仏(ほとけ)が、大衆の現世利益(げんぜりやく)的な信仰にこたえた。菩薩(ぼさつ)、明王(みょうおう)、天部など従来脇役(わきやく)にあった諸尊が密教美術の主役を務めるようになる。女神の出現も密教美術の特色の一つであり、元来ヒンドゥー教の女神であった吉祥(きちじょう)天と弁才天が加わって豊満な官能的表現が試みられ、こうした写実的な肉体表現は大阪・観心寺如意輪(にょいりん)観音坐像(ざぞう)(観心寺)にみられるように、雑密系の観音像にも及んでいる。
さらに、大衆のさまざまな願いにこたえるために多面多臂(たひ)の像が生まれた。十一面・千手(せんじゅ)・准(じゅんてい)・不空羂索(ふくうけんじゃく)・如意輪の観音像、普賢(ふげん)・延命(えんめい)菩薩、孔雀(くじゃく)明王像などである。女性的な観音像に対し、明王像は男性的で、衆生の魔障や外敵を摧破折伏(さいはしゃくぶく)するため忿怒(ふんぬ)の形相で表現され、陀羅尼(だらに)(梵語の呪文)を唱えて祈るとき効験あらたかとされた。忿怒像には五大明王のほか馬頭(ばとう)観音、金剛(こんごう)童子などがある。
[永井信一]
密教美術に特有なもので、ものの本質、中心、宇宙、道場を表し、完全無欠な世界の象徴として描かれ、掛幅として道場の堂内にかけられた。曼荼羅には、大日如来を中心に理の世界を表す胎蔵界と、円と方形を組み合わせて智の世界を表す金剛界の二系統があり、これを一対として両界(りょうがい)曼荼羅という。曼荼羅図は分解して五重塔内の中心柱や四天柱に描くことがあり、京都・醍醐(だいご)寺五重塔の初層、岩手県・中尊寺金色(こんじき)堂、京都・法界寺阿弥陀堂などにその例がみられる。両界曼荼羅のほかに、修法の性質によって特定の尊や経法に基づく別尊曼荼羅がつくられている。
[永井信一]
空海は806年(大同1)に唐より帰朝して『大日経』『金剛頂経』による新しい密教を請来(しょうらい)した。同時に経典や儀軌も輸入され、紀州(和歌山県)高野山(こうやさん)に真言宗道場として金剛峯(こんごうぶ)寺を建立し、平安京守護のために教王護国寺(東(とう)寺)を造建した。空海より先に帰朝した最澄(さいちょう)は比叡山延暦(ひえいざんえんりゃく)寺で天台宗を開いたが、天台の密教的色彩は最澄以後の円仁(えんにん)、円珍のころに顕著になり、その特色は彫像よりも絵画に著しい。平安・鎌倉期の絵画史は天台密教の仏画によってほとんど占められているといっても過言ではないが、その原点となったのは図像類である。図像は諸尊の形態や細部の特徴を紙本に墨書した白描画で、儀軌を踏まえながら新しい解釈をも盛り込み、動きのあるものになっている。とくに五大明王信仰の中心本尊としての不動明王は真言系にも影響を与え、信海筆の不動明王(醍醐寺)のような優れた作品を生んだ。こうした図像類は天台密教のうちでもとくに園城(おんじょう)寺系統の寺院に受け継がれ、鳥羽僧正覚猷(とばそうじょうかくゆう)は宗教的絵画の新しい分野を開拓した。一方、真言密教では教理の表現を重視し、東寺旧蔵の十二天像(京都国立博物館)のような安定した構図で、曼荼羅的な優美な作品をつくりだした。
真言・天台の密教は南都(奈良)諸大寺に及び、さらにその現世利益的な信仰によって、地方の大衆のなかに深く根を下ろしていったが、その過程で見逃すことのできないのは修験者(しゅげんじゃ)たちの働きである。彼らはその土地の山岳信仰と結び付いて山中で修行し、信仰する尊像を大衆の間に広め、鉈(なた)彫り像や石仏を残している。大部分の鉈彫りは肉身部分は滑らかに仕上げ、衣服部分は鉈目(なため)を残すもので、円空や木食上人(もくじきしょうにん)の造像はこの系列にある。『大日経』には、密教の阿闍梨(あじゃり)たる者は絵画・彫刻の技術を身につけ、仏像や曼荼羅は自らつくるものと定められているが、鉈彫りや石彫りの仏像はこうした教えの実践の結果とみることができる。
なお、密教寺院独特の建物に多宝(たほう)塔とよばれる重層の塔がある。これは大日如来の三昧耶(さんまや)形を表すもので、その形は金剛界曼荼羅に描かれている。真言の灌頂(かんじょう)堂、天台の常行(じょうぎょう)堂、法華(ほっけ)堂なども密教特有のものである。
[永井信一]
密教の修法に使用する金属の法具には、美術工芸的な価値の高いものが多い。空海請来の東寺蔵の密教法具は有名である。その形は古代インドの武器や日用具から変化したものが多い。おもなものに金剛杵(しょ)、金剛鈴(れい)、金剛盤、金錍(こんぺい)、羯磨(かつま)、花瓶(けびょう)、火舎(かしゃ)(香炉)、護摩壇などがある。
[永井信一]
『石田尚豊編『日本の美術33 密教画』(1969・至文堂)』▽『伊藤延男著『日本の美術8 密教の建築』(1973・小学館)』▽『佐和隆研著『密教の寺――その歴史と美術』(1974・法蔵館)』▽『佐和隆研著『日本の美術8 密教の美術』(1979・平凡社)』▽『佐和隆研・浜田隆編『密教美術大観』全4巻(1983~84・朝日新聞社)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
密教経典あるいは密教的教説にもとづいて制作された絵画・彫刻・工芸などの美術をさす。代表的なものとしては両界曼荼羅(まんだら)をはじめとする曼荼羅,変化観音などの多面多臂(ためんたひ)像,不動明王などの明王像などがある。また修法効果を高めるために相承(そうしょう)と修法儀式を重視することから,曼荼羅や尊像の表現上の諸約束が厳密に定められ,図像の制作・転写が行われた。奈良時代にすでに不空羂索(ふくうけんじゃく)観音など密教像は造られたが,空海が唐から本格的な密教(純粋密教すなわち純密とよび,空海以前の密教を雑部密教・雑密という)を請来してから,平安時代に密教美術は隆盛をみた。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
…ただし見方によって,894年(寛平6)の遣唐使廃止によって象徴される大陸文化との一応の絶縁までを弘仁・貞観あるいは貞観時代といって,それ以後の藤原時代と区別したり,10世紀中ごろのようやく和様化の顕著となってくる時期までを平安前期,以後を和様の完成からその展開の時期とみて平安後期のように二分するなど,諸説がある。これらの考え方の根底には,9世紀における華麗な密教美術の開花と,いわゆる一木彫像の示す存在感の強烈な印象が,一つの画期的なものであるという主張がうかがえる。それはたしかに奈良時代の古典様式とたたえられる調和的な様式から,それを破る方向への移行としてとらえられる。…
※「密教美術」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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