フランスの画家、詩人。キューバ人の家系にパリで誕生。国立パリ美術学校に学び、1903年アンデパンダン展に出品、後期印象派の風景画家として評価されていたが、立体主義(キユビスム)に転じ、黄金分割派に加盟したもののまもなく脱退し、13年アメリカで写真家スティーグリッツの反絵画的雑誌『291』を知り、その誌上に機械の設計図もどきのデッサンを発表。17年バルセロナで個人雑誌『391』を創刊し、24年パリで刊行する第19号まで続けた。これは小冊子ながら近代芸術運動の震源の一つとなった。表現派や未来派にも関心を寄せたが、ダダイスムの重要な推進者として活躍、のちにシュルレアリスムに移り、やがてそれからも離脱して具象絵画に復帰したかと思うと、45年からはふたたび抽象の世界に没入した。
1918年ごろから熱中した詩作は『母なく生まれた娘の詩と素描』をはじめ『言語なき思考』(1919)、『変な外人イエス・キリスト』(1920)などから『詩選』(1945)を経て最後の詩集『591』に及ぶ。24年には自作のバレエ『休演中』(サティ音楽、ボルラン振付け)の装置、衣装はもとより、幕間(まくあい)に上映する映画(ルネ・クレール監督)のシナリオも執筆した。さまざまな前衛運動を遍歴したのも、一流派に属することを拒み、絶えず権威を嘲弄(ちょうろう)し続ける姿勢からであり、その制作のすべては黒い諧謔(かいぎゃく)を含んだ反秩序と不条理の美学に支えられている。
[曽根元吉]
『サヌイエ著、安堂信也・浜田明他訳『パリのダダ』(1979・白水社)』
フランスの画家。キューバ人を父としてパリに生まれる。パリのエコール・デ・ボザール(国立美術学校)や装飾美術学校などで学ぶ。最初,印象派の影響を受けるが,1909年からキュビスム(ピュトーPuteaux派)に参加。11年〈セクシヨン・ドールSection d'Or〉創立に加わり,アポリネール,デュシャン3兄弟,R.ドローネーらと親交を深める。13年ニューヨークの〈アーモリー・ショー〉に参加したころから欧米間を行き来し,ニューヨーク,バルセロナ(雑誌《391》刊行),チューリヒでダダの運動に加わり,パリに戻ってダダ,さらにシュルレアリスムの活動を続けた。新しい芸術思想を次々と柔軟に消化吸収していったが,むしろ彼の重要性は,出版や詩作,シナリオ制作などを通じて各地でダダやシュルレアリスムの運動を広める役割を果たした点にある。作品としては,きわめて特異なキュビスム的作品(たとえば1913年の《ウドニー》)や,ダダの時期のコラージュ作品および現代文明の象徴たる機械のイメージによる作品などが優れている。
執筆者:千葉 成夫
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…その先駆は,未来派の彫刻家ボッチョーニが,1911年,多様な素材を合成して〈生の強度〉に迫るべく,毛髪,石膏,ガラス,窓枠を組み合わせた作品をつくり,ピカソがキュビスムの〈パピエ・コレ(貼紙)〉の延長として,12年以後,椅子,コップ,ぼろきれ,針金を使った立体作品を試みたあたりにある。デュシャンは13年以後,量産の日用品を加工も変形もせず作品化する〈レディ・メード〉で,一品制作の手仕事による個性やオリジナリティの表現という,近代芸術の理念にアイロニカルな批判をつきつけ,ピカビアの〈無用な機械〉と名づけた立体や絵画も,機械のメカニズムをとおして人間や芸術を冷笑した。第1次大戦中におこったダダは,これらの実験を総合し,アルプやハウスマンの木片のレリーフ状オブジェや,シュウィッタースのがらくたを寄せ集めた〈メルツMerz〉,エルンストの額縁に入った金庫のようなレリーフ状作品などで知られる。…
※「ピカビア」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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