フランスの詩人、作家。ノルマンディーのタンシュブレーに生まれ、ブルターニュで幼年期を過ごす。パリに移ってのち、医学生として学ぶかたわら、1913年ごろから詩作品を発表し始め、象徴派に連なる新人としてバレリーらに評価される。第一次世界大戦勃発(ぼっぱつ)とともに動員され、看護兵、のち軍医補となって精神医学の実地訓練を受ける。1916年にナントでバシェと出会い、ランボーを初めて読み、またアポリネールらと交流するうちに、新しい文学・芸術の可能性に目覚める。1919年にパリでアラゴン、スーポーとともに『文学』誌を創刊、後者を誘って「自動記述」l'écriture automatiqueの実験を試み(『磁場』1920)、その成果が後のシュルレアリスム理論の基礎となる。1920年からダダ運動に参加し、指導者の一人となるが、やがてツァラと対立して離脱、エリュアール、ペレ、クルベルRené Crevel(1900―1935)、デスノス、エルンストらとともに別の集団を形成し始める。
[巖谷國士]
1924年に『シュルレアリスム宣言――溶ける魚』を刊行して、シュルレアリスム運動を正式に発足させ、想像力の復権、夢や狂気や超常現象の再検討、「自動記述」による言語の解放、等々に基づく芸術観・人生観の刷新を唱え、多くの参加者を得る。1927年、現実世界との対決の必要から共産党に入党するがまもなく離反。1928年には主著『ナジャ』および『シュルレアリスムと絵画』を刊行し、文学・芸術のみならず人生の諸問題にかかわる「超現実」le surréelの理念を具体化する。1929年『シュルレアリスム第二宣言』によって運動を新方向に導いたのち、1930年代にはトロツキーとの協調を推し進める一方、詩集『白髪の拳銃(けんじゅう)』(1932)、散文作品『通底器』(1932)、『狂気の愛』(1937)などを発表し、その白熱する言語によって影響力を維持する。第二次世界大戦中はニューヨークに亡命し、北米各地に同調者を得る。散文作品『秘法17』(1945)、長編詩『シャルル・フーリエへのオード』(1947)などを書いてのち、1946年に帰国、新世代の詩人・画家たちとともに運動を継続し、70歳でパリに没するまで、現代の文学・芸術の方向を左右する巨人の一人であり続けた。
[巖谷國士]
その思想はかならずしも体系的ではないがきわめて広い視野をもち、心理学、民俗学、物理学、隠秘学などにわたる新しい「知」の領域を統合しつつ、いわゆる合理主義の制約を超えた全体的な人生観・世界観の構築を目ざす。夢と無意識、愛と狂気、自由と革命についてのその言説によって世界各地の芸術家たちを鼓舞し続けたばかりでなく、「自動記述」の延長にあるその暗示的かつ緊迫した詩的言語の諸相において、20世紀フランスのもっとも特異かつ重要な作家の一人とみなされうる。また『黒いユーモア選集』(増補版1950)や『魔術的芸術』(1957)にみられるような、旧来の文学史・芸術史を書き換える画期的な系譜研究の側面においても、一つの変革を体現しえた作家であるといえよう。
[巖谷國士]
『生田耕作・巖谷國士他訳『アンドレ・ブルトン集成』1、3~7巻(1970~1974・人文書院)』
哺乳(ほにゅう)綱奇蹄(きてい)目ウマ科の動物。同科の1種ウマの1品種で、フランスのブルターニュ半島の原産。2型があり、トレーブルトンは体高1.6メートル、体重600キログラム、ポスチェブルトンはやや小格の軽輓馬(ばんば)であるが、両者の区別は不明確となった。
[加納康彦]
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フランスの詩人,思想家。ノルマンディーのタンシュブレーTinchebrayに生まれ,ブルターニュで幼年時代を過ごしたのち,パリに出る。1913年ごろから象徴派の影響下に詩作品を発表しはじめ,バレリーらに評価される。第1次大戦勃発後,神経科医学生として従軍中にナントでバシェと出会い,またアポリネールらと交流を深めるうちに,新しい文学の可能性を確信し,19年アラゴン,スーポーとともに《文学Littérature》誌を創刊。スーポーをさそって自動記述(オートマティスム)の実験を行い,成果の一部を同誌に発表,これがのちのシュルレアリスム理論の基礎となる。20年からパリのダダ運動に参加,指導者の一人となるが,やがてツァラと対立し,22年ごろから別個の文学・芸術運動を構想する。詩人エリュアール,ペレ,デスノス,クルベル,画家エルンスト,マン・レイら多くの同調者を得て,24年に《シュルレアリスム宣言》(《溶ける魚》を併録)を発表,名実ともにこの新しい運動の指導者となる。25年共産党に入党するがやがて離反し,28年の《ナジャ》《シュルレアリスムと絵画》,29年の《シュルレアリスム第2宣言》などによって文学・美術のみならず政治・社会・倫理にわたる自立したシュルレアリスム思想の実践につとめる。30年代にはトロツキーとの協調を深めつつ,《通底器》(1932),《狂気の愛》(1937)などを発表,その人生と世界との変革のビジョンによって大きな影響力を保つ。第2次大戦中はニューヨークに亡命,北米・中南米でも新しい文学・芸術の芽を育てる。47年パリに戻り,多くの若いメンバーを加えて活動を継続,世界各地に協調を得たが,彼の死後,運動そのものは弱体化した。
24年の《シュルレアリスム革命》以来の運動機関誌,数多くの展覧会組織などに見られた指導力,《黒いユーモア選集》(1950),《魔術的芸術》(1957)などによる文学史・芸術史の刷新ばかりでなく,その詩と散文作品に示された高度に充実したエクリチュールの質において,彼は20世紀フランスの最も特異かつ重要な作家の一人に数えられうる。
→シュルレアリスム
執筆者:巖谷 國士
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…1886年に北海道に入り,農馬の改良に貢献した。(2)ブルトン種Breton(イラスト)フランス原産。中間種に近いものから重大なものまで,タイプはさまざまである。…
…したがって1939年までフランス全体より高かった出生率がむしろ低くなり,とくに農村部における人口の高齢化と過疎化が激しい。 半島は大きく,ブルトン語で〈森の国〉を指すアルゴアArcoatと,同じく〈海の国〉を指すアルモルArmorに分けられる。それぞれ農牧業,水産業を主要産業とする。…
…1919年,フランスの詩人ブルトンによって創始され,シュルレアリスム運動発足の前提となった実験的記述法。道徳上,美学上のあらゆる先入主を捨て,しかもあらかじめ何を書くかをいっさい考えずに,できるだけ速く,自動的に,文章を書き進めてゆく行為を言う。…
…超現実主義。1920年代のはじめにフランスの詩人ブルトンらによって開始された文学・芸術上の運動,およびその思想・方法等を指す。発端は1919年に彼とスーポーとが試みたいわゆる〈自動記述(オートマティスム)〉(《磁場》1920)にある。…
…ハノーファーのシュウィッタースは単独で,〈メルツ〉とみずから名づけた,がらくたで構成したアッサンブラージュ,オブジェ,音響詩,タポグラフィーの実験をつづけた。パリでは〈黒いユーモア〉の体現者バシェや奇行好きの拳闘家A.クラバンらに刺激され,19年3月反文学的雑誌《文学》を創刊したブルトン,アラゴン,エリュアール,スーポーらが,チューリヒから来たツァラやピカビアを加えてさまざまのダダ的集会や実験を展開した。しかし,ブルトンらはやがて後者と対立し,想像力の体系的探求をめざすシュルレアリスムにむかった。…
…フランスの詩人A.ブルトンの散文作品。1928年パリのガリマール書店刊。…
…H.バルらの〈音響詩〉もその一種であるが,とくにシュルレアリストたちはことばとことばの偶然の出会いのなかに至高の美を求めた。たとえば,A.ブルトンとその仲間が集まって,1枚の紙片の上に,他人の書いた語を見ないで主語,動詞,目的語などを書きこむ。〈優美な屍が新しい酒を飲むだろう〉という文章ができあがり,以後この遊びは〈優美な屍cadavre exquis〉と呼ばれることになった。…
…《題名なし》,《韻文でも散文でもない蒸気》(ともに1818)のような作品には,残酷趣味やアイロニーがこめられている反面,天上的なものへのあこがれが表れてもいる。長く忘れられた存在だったが,ブルトンらに注目されて以来,徐々に再評価がなされるようになった。【巌谷 国士】。…
…フランスでは,錬金術と結びついた色彩象徴を詩作に用いたA.ランボー,〈黒い太陽〉という錬金術的イメージを主題の一つに据えたG.deネルバル,《セラフィータ》で両性具有の神秘を描いたバルザックやJ.ペラダンなど無数の詩人や作家があらわれた。ボードレールやのちのA.ブルトンもその影響下にあった詩人である。彼らの霊感の大きな源泉の一つがÉ.レビの一連の著作であった。…
※「ブルトン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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