南太平洋,タヒチ島の南東約2160kmに位置するポリネシア東部の孤島。イギリス領。1767年キャプテン・カートレットのスワロー号が無人のこの島を〈発見〉し,発見した少尉候補生の名前がつけられた。考古学的な証拠から先住民がいたのは明らかであるが,彼らがどこから来てどこへ去ったのかは不明である。けわしい崖に囲まれ,面積5km2,人口55人(1995)のこの島が有名なのは,住民たちの出自の特異性のためで,彼らの大部分はバウンティ号の反乱を起こした水夫たちとタヒチ島の女性たちとの子孫である。1789年トンガ諸島沖合で,バウンティ号の航海士フレッチャー・クリスチャンらは司令官ウィリアム・ブライと反乱にくみさぬ士官たちをボートに乗せて追放し,バウンティ号の乗取りに成功した。反乱者たちはタヒチ島に引き返したが,やがて彼らのうちの9名とポリネシア人女性12名,男性6名はタヒチを去り,90年無人島であったピトケアンにたどり着いた。こののち,ピトケアン島は1808年にアメリカの捕鯨船が来るまで外界との交渉をもたなかった。しかしこの間,仲間割れからほとんどの男が殺され,1800年には男1人,女9人,子ども19人になっていた。1825年イギリスの調査隊が国王の恩赦をたずさえて島を訪れ,87年イギリス議会は島に対する植民地条令を可決した。
執筆者:石川 栄吉+斉藤 尚文
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
南太平洋、ポリネシア東部、タヒチ島とイースター島との中間にあるイギリス領の孤島で、火山島。東西3キロメートル、南北1.5キロメートル、面積4.5平方キロメートル。島の最高点は31メートル。1790年、バウンティ号の反乱兵が住み着き、タヒチからの移住者とともに新しい村づくりを始めた。しかしそれは、1808年アメリカの捕鯨船が訪れるまで世に知られることはなかった。中心地アダムズ・タウンAdams Townはバウンティ号最後の生存者の名にちなんだもの。1856年には過剰人口がノーフォーク島に移り住んだが、近年の人口は100人を割っており、91(1971)、74(1977)、64(1979)、53(1980)と減少、1984年には57となっている。最大の収入は美しい切手の売上げによる。コプラ、バナナを産するほか、島民は周辺の無人島デュシーDucie、ヘンダーソンHenderson、オエノOeno三島へ、ココヤシの収穫に通う。良港がないため定期航路はない。
[大島襄二]
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