ピョートル1世(その他表記)Pyotr Ⅰ Alekseevich

共同通信ニュース用語解説 「ピョートル1世」の解説

ピョートル1世

17世紀末から18世紀にかけて君臨したロシアの皇帝。国家の近代化と西欧化政策を強力に推進し、ロシアの大国化路線を決定付けた。1682年に皇帝となり、1700年にはバルト海の覇権を巡りスウェーデンと交戦。北方戦争として21年まで続いた。自ら築いた西部サンクトペテルブルクに首都を移し、西欧の窓口とした。戦争終結後にロシア帝国を建設。以降は大帝と称された。(共同)

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改訂新版 世界大百科事典 「ピョートル1世」の意味・わかりやすい解説

ピョートル[1世]
Pyotr Ⅰ Alekseevich
生没年:1672-1725

ロシア皇帝。在位1682-1725年。国家,社会の改革を強力に進めてモスクワ・ロシア末期の絶対主義化と西欧化の方向を決定的にした。北方戦争終結の1721年,インペラートル(皇帝)を称して〈大帝〉とよばれ,ロシア帝国の建設者になった。ツァーリ,アレクセイ・ミハイロビチとその後妻ナタリア・ナルイシキナの子で,異母兄弟のフョードル3世のあと10歳でツァーリとなったが,フョードルの姉ソフィア・アレクセーエブナの摂政期にはおもにモスクワ郊外プレオブラジェンスコエ村の離宮で暮らした。近くの外人集落に出入りして数学,砲術,築城術,造船術を学び,のちに近衛連隊となる〈遊戯連隊〉をつくり,船大工や操船の技術も身につけた。

 1689年のソフィアの失脚後も母后が政治をみていたが,94年親政を開始するや,みずから一砲手としてトルコの要塞アゾフに遠征,急造した艦隊で96年これを下した。97-98年,250人の〈大使節団〉にその一員として加わり,オランダ,イギリスなどを歴訪し,早くからの深酒,ばか騒ぎの習慣とその野人ぶりで各国の宮廷人を驚かしながら,西方の文明と技術を貪欲に吸収し,帰国後は服装の改正,留学生の派遣,都市自治の導入,暦法と文字の改正などを行った。1700年からの北方戦争では,重税に加えて,軍隊,工場,築城,さらにペテルブルグ建設に動員された民衆の間に,ピョートル=アンチキリスト説がひろまり,アストラハンの反乱(1705-06),ブラビンの率いるドン・コサックの大反乱(1707-08)などが相次いだ。しかしピョートルは08年,県制の実施で地方の治安を強化し,12年ペテルブルグに首都を移し,面目を一新した陸軍と新設のバルチック艦隊で敵を圧倒,ニスタット講和でバルト海への進出を果たした。南方では1711年のトルコ遠征が失敗してアゾフなどを放棄したが,晩年のペルシア遠征ではカスピ海沿岸に領土を得,中央アジア,北アジアにも注意を払い,ベーリングに北太平洋探検を命じ,日本にも関心をもっていた。

 軍事以外のピョートルの改革も戦争の必要によるものが多く,上記の都市自治と県制実施は徴税,徴兵の強化のためである。ロシアの世俗の学校制度とマニュファクチュア工業の基礎を築いた各種学校の設立,工場・造船所の建設,ウラル鉱山の開発も,軍幹部の養成と軍需品の自給を主目的とした。ピョートルは14年,貴族所領の一子相続制を定め,貴族子弟の教育を親の義務として彼らを国家勤務にかりたて,商工業を奨励して商人の工場主には農奴の使用も許した。1711年のトルコ遠征中,君主を代行するため元老院が設けられ,これが恒久化して貴族会議に代わる最高機関になった。またその後の中央省庁としての各種コレギア(参議会)の設置(1718-22)や19年の地方行政改革は,武官,文官,宮内官のそれぞれに14の等級を定めた官等表の制定(1722)などとともに,スウェーデン,プロイセンなどの新制度の十分な研究のうえ行われ,ロシア帝国の国家組織の基礎になった。帝国の重要な財源になる人頭税も治世末期に導入されたが,そのための課税人口調査はホロープ浮浪人をも対象としたので,20年の都市制度改革による都市住民の区分とともに,社会の身分的編成を強化するものとなった。しかし逃亡農民はこの時代にむしろ増え,人口も減少した。ピョートルはまた聖職者と教会財産に対する管理を強め,シノドも導入したが,これに協力した総主教職代行のフェオファン・プロコポビチはピョートルのため君主専制の理論家としても活躍した。ピョートルはメンシコフ元帥などの有能な協力者をもち,タチーシチェフに代表される新たな官僚も育てたが,彼の改革はあまりに急激,性急で国民に多くの犠牲を求めたので,庶民はもとより貴族の多くからも積極的な協力は得られなかった。彼は秘密警察と行政監察を強化し,近衛部隊を頼りに,貴族の勤務回避,役人の不正,民衆の抵抗とたたかった。彼に逆らって17年にウィーンに亡命した皇太子アレクセイも呼び戻されて獄死した。

 ピョートルは2mをこす力持ちの大男で,晩年も発作性の持病に悩みながら国務に精励したが,24年11月たまたま浅瀬に乗りあげたボートを助けようとして水につかったため病気になり,25年1月,働き盛りの52歳で死去し,彼によくつくした皇后がエカチェリナ1世として後を継いだ。ピョートルの個性と行動力がロシア人に与えた衝撃は大きく,彼の事業の継承者を自任したエカチェリナ2世はピョートル即位100年の82年,ネバ河畔に馬上のピョートル像を建てた。この〈青銅の騎士〉をうたいあげたプーシキンをはじめ,アレクセイ・トルストイまでの多くの作家,芸術家と内外の伝記作者が彼の魅力にひかれた。思想界ではスラブ派西欧派の論争をはじめ,絶えず〈ピョートル改革〉の意義が論ぜられた。日本でもこれが明治の文明開化・富国強兵期に一つのモデルとみなされ,欧米ではロシア,ソ連の脅威が高まるたびに〈ピョートルの遺言〉という世界征服計画なるものが想起されてきた。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ピョートル1世」の意味・わかりやすい解説

ピョートル1世(大帝)
ピョートルいっせい[たいてい]
Pëtr I, Velikii

[生]1672.6.9. モスクワ
[没]1725.2.8. ペテルブルグ
ロシアの皇帝 (在位 1682~1725) 。アレクセイ1世とその2番目の妻ナタリヤ・ナルイシキナとの間に生れた唯一の男子。 1682年フョードル3世の没後,年上の異母兄イワン5世が病弱であったためピョートルが後継者に迎えられたが,イワンの姉ソフィヤ・アレクセーブナはストレリツィ (銃兵隊) の反乱を利用してイワンを正帝に据え,みずから摂政として実権を握った。ピョートルは副帝として名目のみのツァーリとなり,遠ざけられた。 89年クリミア遠征の失敗など,失政にあせったソフィヤがピョートルを完全に取除こうとしてクーデターを起したが失敗。権力はピョートル一人の手に帰した。 95~96年トルコ要塞アゾフへの遠征を企て,黒海への出口を獲得。遅れたロシア軍の近代化の必要性を痛感し,97~98年大使節団とともに西ヨーロッパの技術,制度を視察。オランダ,イギリスなどで工場,学校,病院を見学,造船,砲術などを学び,多くの技術者を連れて帰国,軍の近代化に着手した。やがてそれはロシアの政治,経済,社会,文化の全分野にわたる急激な改革事業へと発展した。 99年デンマーク,ポーランドと同盟を結んだあと,1700年トルコとも講和し,即座に北方の雄スウェーデンに宣戦 (→北方戦争 ) 。ナルバの戦い (1700) で惨敗するなど苦戦を強いられたが,ついに勝ってバルト海に進出。元老院から大帝と呼ばれ,インペラートル (皇帝) の称号を受けた (21) 。さらに 1722~23年サファビー朝イランと戦い,カスピ海沿岸を獲得。内政面では,新都ペテルブルグの建設 (03) ,人頭税の導入 (24) ,官等表の制定 (22) ,県制導入をはじめとする大規模な行政改革,総主教制の廃止と宗務院 (シノド) の設置などが行われ,軍需工場を中心とする官営マニュファクチュアの建設,民間企業の育成も行われた。しかし戦争遂行を目的とする急激な改革は増税となって国民を圧迫,アストラハン暴動 (05~06) ,ブラービンの乱 (07~09) ,バシキール人の暴動などが相次いだ。 19世紀中頃のスラブ派 (→スラブ主義 ) と西欧派の論争に代表されるように,ピョートルの改革の評価をめぐっては見解が大きく分れている。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ピョートル1世」の解説

ピョートル1世(大帝)(ピョートルいっせい(たいてい))
Pyotr Ⅰ (Velikii)[ロシア],Peter Ⅰ[英]

1672~1725(在位1682~1725)

ロシア皇帝。初め兄のイヴァン5世と併立し,姉ソフィアが摂政であったが,1689年から親政。96年イヴァン5世が没して彼の単独治世が始まる。ロシアの近代化を強く志向し,97~98年西ヨーロッパ諸国への視察旅行にみずからも参加,見聞を広め,各種技術者,職人を多数雇い入れた。海への関心が強く,95~96年トルコと戦ってアゾフを獲得し,スウェーデンと北方戦争を戦ってバルト海沿岸地方を併合し,新都市ペテルブルクを築いた。この間必要に迫られて軍制を改革し,海軍を創出し,その財源捻出のため財政制度を改めて人頭税を設けたり,商工業を奨励したりした。また行政機構や社会制度を整備して,ロシアの国際的地位を高めた。1721年以降イムペラトル(皇帝)と称した。

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367日誕生日大事典 「ピョートル1世」の解説

ピョートル1世

生年月日:1672年5月30日?
ロシアのツァーリ,皇帝
1725年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のピョートル1世の言及

【トルストイ】より

…メロドラマ的な要素も多いが,この時期の知識人の精神史を知るには最適の作品である。膨大な歴史小説《ピョートル1世Pyotr I》(第1巻1929,第2巻1934,等3巻1944,第4巻未完)で彼は新しい高みを示した。ロシアを西欧化しようとしたピョートルは,同時にロシアのスキタイ精神をも愛した。…

【キリスト教】より

…なおロシア正教会では17世紀中葉,典礼の改革をめぐって深刻な紛争が生じ,改革に反対した一派はラスコーリニキ(分離派)として離脱し,教会全体の活力は弱まった。ピョートル大帝は教会改革の一環として総主教制を廃止し(1721),かわりにシノド(宗務院)を設け,国家による統制を強化した。 東方諸教会とはカルケドン公会議の前後に分離した非カルケドン派教会の総称であるが,そのうちの多くがのちにイスラム教徒の支配圏に組み入れられたため,勢力が著しく減退し,こんにち,多少ともまとまった形で存在するのは,エジプトのコプト教会,エチオピア教会,アルメニア教会,レバノンのマロン派教会などにすぎず,キリスト教世界全体における影響力も限られている。…

【皇帝】より

…tsar’称号もまた,imperator称号と同じく中世でビザンティン帝国のbasileus称号と等置されたが,そのtsar’称号を,920年代にはブルガリア人シメオン1世が(先行ブルガリア人支配者の称号khan=汗にかわって),1346年の戴冠式にはセルビア人ステファン・ドゥシャンが(kralj称号にかえて),1547年の戴冠式にはロシア人イワン4世が(先行支配者たちが最初に帯びていたknyaz’(公)称号,のちに帯びるようになったvelikii knyaz’(大公)称号の代りに),それぞれとなえたのは,いずれも,ビザンティン帝国の標榜する世界皇帝理念に対するみずからの態度表明としてであった。なお近代では,ピョートル大帝が,tsar’称号を廃して,代りに西方のimperatorを公式称号に採用したけれども,tsar’称号は依然として民間で存続した。(3)王を意味した古典ギリシア語バシレウスbasileusはビザンティン帝国ではローマ皇帝を指すようになり,かかるものとしてビザンティン皇帝がみずから帯びた。…

【サンクト・ペテルブルグ】より


[名称]
 1924年1月26日,レーニンの名を冠してレニングラードと改名されるまで,この都市は数多くの名で呼ばれた。1703年,ピョートル大帝(1世)によってネバ川のザーヤチイ島(〈兎島〉の意)に建設された要塞の公式の名称〈サンクト・ピーテルブルッフ(オランダ語の〈ペテロの市〉にロシア語のサンクト(〈聖〉の意)を冠したもの)〉が,そのまま,この都市の名称となった(要塞はその内部の寺院の名をとって,その後ペトロパブロフスク要塞と名づけられた)。この町の愛称ピーテルはこのオランダ語名に由来する。…

【シノド】より

…ロシアで18世紀に設けられたシノドは,宗務院と訳され,正教会内部の機関と見えるが,実際には国教としての正教会の管理に当たる国家機関であった。ロシアの近代化をはかった皇帝ピョートル1世は,教会改革の一環として,絶大な権力を有した正教会の代表である総主教の選出を禁じ,1721年に公式に総主教制を廃止し,代りにシノドを設けた。これは最初は〈宗教協議会〉の名称で呼ばれた。…

【ドボリャンストボ】より

… ロシアではキエフ・ロシアの時代以来,古い貴族層(ボヤールストボboyarstvo)が存在していたが,15~16世紀ごろから,モスクワ大公に奉仕する小領主層であるドボリャンストボが,中央集権国家発展の支柱としてあらわれてきた。そして18世紀のピョートル1世の改革によって,官等表で規定された一定の職につけば,だれでもドボリャニーンになれることになり,ボヤールストボはドボリャンストボに吸収されていった。ピョートルはまた,従来からの公爵knyaz’のほかに伯爵graf,男爵baronの爵位を新設した。…

【露土戦争】より

…(4)19世紀後半 ロシアによるオスマン帝国への進出に対してイギリス,フランスなどの西欧列強が干渉し,トルコの植民地化が決定的となった。(1)18世紀前半まで ピョートル1世の改革によってロシア帝国は発展し,まずバルト海に進出し,南方においても,黒海への出口にあたるアゾフの領有をめぐって,黒海北岸の支配権を握るオスマン帝国と対立した。1699年カルロビツ条約で,ロシアは一時アゾフを獲得したが,北方戦争に敗れたスウェーデン王のオスマン帝国への亡命問題に端を発したプルート戦争(1710‐11)で,ロシア軍はオスマン帝国軍に包囲され,ピョートル1世は危うく捕虜となることをまぬがれるなど敗北を喫し,オスマン帝国はアゾフを奪回した。…

【ロマノフ朝】より

…ロマノフ家は古くからの名門貴族で,16世紀以来ロマノフを名のり,リューリク朝のツァーリ,イワン4世の妃アナスタシアはその出身で,彼女の甥の子がミハイルである。 18人の皇帝のなかで,大帝といわれるのはピョートル1世エカチェリナ2世の2人だけであるが,300年のロマノフ朝の歴史は,この2人の治世とその前後の3時期に分けられるであろう。ピョートル1世までは王朝の創設期であり,基礎がつくられた時期である。…

※「ピョートル1世」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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