フセイン(Husayn bin Talāl)(読み)ふせいん(英語表記)Husayn bin Talāl

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

フセイン(Husayn bin Talāl)
ふせいん
Husayn bin Talāl
(1935―1999)

ヨルダン国王(在位1953~1999)。預言者ムハンマド(マホメット)の血を引くハーシム家の一員としてアンマンに生まれる。アレクサンドリア、イギリスで教育を受ける。1952年病気の父タラール国王の退位に伴い、翌1953年弱冠18歳で王位を継承。国王就任後、アラブ世界および国内の民族主義運動の隆盛や革新勢力の台頭によって難局を迎えるが、独自の政治力でこれを切り抜けた。1956年のグラブ・パシャ将軍の解任、同年左派民族主義者のナブルシを首班とする政権の承認、1957年イギリス・ヨルダン条約破棄に対する同意などを譲歩させられた。1958年エジプト・シリアの統合に対抗してイラクとアラブ連邦を結成するが、同年イラクでクーデターが起こり同連邦はまもなく瓦解(がかい)し、アラブ世界で孤立した。さらに、1964年からのパレスチナ運動の活発化、1967年の第三次中東戦争におけるヨルダン川西岸の喪失、1970年からのパレスチナ・ゲリラとの対立などの難問に直面した。パレスチナ問題解決のために「ヨルダン・パレスチナ連合国家」構想をもっていた。1988年7月、ヨルダン川西岸地域に対する政治的、法的な支配の放棄を発表、これによりパレスチナ国家の樹立が宣言され、パレスチナ解放機構(PLO)との関係が改善した。1990年8月のイラクによるクウェート侵攻に始まる湾岸戦争ではイラク寄りの姿勢を堅持、国際社会におけるヨルダンの立場は悪化したが、国内的には国民の信頼をかちえた。その後1994年10月にはイスラエルと平和条約を締結し、地域開発等で協力関係を推進、しかし1995年11月にイスラエルのラビン首相が暗殺され、強硬派のネタニヤフ首相が政権についたため、イスラエルとパレスチナ暫定自治政府との摩擦が増加、両者の間で微妙な対応を迫られた。1976年(昭和51)以降1989年(平成1)まで数回来日。1999年死去にともない長男のアブドラが王位を継承した。

[木村喜博]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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