文字で書かれた一巻のテキストがありそれをもっぱら目で読むという形で享受する普通の文芸作品に対し,口伝えに歌いつがれ語りつがれてきた文芸を口承文芸と呼ぶ。フランス語のla littérature oraleにもとづき日本で口承文芸なる新語を初めて使ったのは柳田国男《口承文芸史考》(1947)だが,この著者もいうとおりそこには一種ほろにがい自家撞着がふくまれている。文芸とは本来,文字でもって作られ文字で書かれたものの名であったからだ。それから約半世紀,この語も今や日本語としてすっかり市民権を得たかに見うけられる。つまり,そう呼ぶほかない文芸の存する事実が万人の認めるところとなったわけである。ただ,民俗学者の柳田国男が最初に使ったからといってこれを狭い意味でのいわゆる〈民間文芸〉と同列にうけとり,昔話,ことわざ,唱えごと,民謡などをおもにさすと考えたら,口承文芸のもつ意味を矮小化することになる。それらを含むのはむろん,さらに講談とか落語とかもそれは含みうるのだが,しかし,ヨーロッパでいうなら口承文芸史の冒頭にはまずホメロス詩編の成立問題が来るだろうし,日本でなら《平家物語》をはじめとする語り物の類がその中軸になるはずで,《古事記》のかかえている問題なども素通りするわけにゆくまい。とすると,口承文芸とは口伝えに歌いつがれ語りつがれてきた文芸なりと定義して終わったのでは,あまりにも空疎かつ常識的で教科書流だとのそしりをまぬがれまい。
肝心なのは,口承文芸の詩学が文字文芸のそれといかに違っているかにある。この点につきぜひ言及せねばならぬのは,パリーM.ParryとロードA.B.Lordの研究である。彼らは口承伝統のなお強く生き続けているユーゴスラビアで,セルビア・クロアチア語の叙事詩や歌を数多く採集し,語り手,歌い手ともじかに接することにより,口承文芸がいかに作られいかに伝えられているか,その進行形の過程をつぶさに解明した。要約すれば,まだ読み書きを知らぬ社会での口承は伝統の単なる再生産ではなく積極的・創造的な行為であり,演出は一回ごとにオリジナルなものであること,そしてそれは多くの決り文句が建材の煉瓦として身のまわりに蓄えられていて,すぐれた語り手は語りながらそれらを当意即妙にとりあげて物語を組み立てることができたからだということ,等々が具体的に分析されたのである。こんな簡単な紹介ではかえって誤解を招きかねないが,とにかくこの学説が,語り手は一語一語しっかり覚えこんでそれを再生産するとしてきた従来のロマンティックな記憶説ともいうべきものを根底からゆるがしたのは確かである。むろん,この説がいつでもどこでもそっくり通用するとは限らない。しかしそのもつ理論的射程はかなり大きい。たとえば,山本吉左右〈説経節の語りの構造〉という一文はみずから採集した瞽女(ごぜ)歌やいたこの語りなどと照合しつつこうした方法を具体化した先駆的なものである。《山椒太夫》とか《小栗判官》等から成る中世の説経浄瑠璃が日本での口承文芸の一つの典型であったゆえんが,これで初めて明らかにされたといっていい。
同じように語りものと呼ばれるけれど,《平家物語》になるとかなり趣を異にする。《徒然草》に,比叡山の慈鎮和尚のもとに遁世していた信濃前司行長なるものが〈平家物語を作りて,生仏(しようぶつ)といふ盲目に教へて語らせけり,云々〉とあるのをそのまま信じていいかどうかはとにかくとしても,《平家物語》では作者と語り手とが別々であったことを,この記事は示している。こうした例は世界にも少なくないらしく,中世フランスで作者トルバドゥールとシテであるジョングルールは別々になっていたし,アイルランドでもそうであったというが,とりわけ《平家物語》でめざましいのは,文筆と語りとのたぐいまれな,ほとんど奇跡的な連帯関係を成就している点である。平安朝以来,日本語による文字文芸の歴史はすでにかなり成熟していた。《平家物語》が質の非常に高い語り物になりえたのも,この文筆の力がものをいっているのを無視しがたい。文字とその文化はもっぱらオーラルな伝統を掘りくずすと考えられがちだが,両者の関係は必ずしもそう単純なものでなかったことがわかる。《平家物語》は読本として早くから流布したらしい。これは当然のなりゆきとしても,《平家物語》の本質はやはり単なる読物ではなく,盲僧(琵琶法師)のかたる語り物であった点に存する。さきに引いた《徒然草》の一節も,行長が《平家物語》を作ったのは語らせるためであったと解される。そしてそれはおそらく,武士を中心とする多数の無識字層が歴史の舞台にどっと登場するにいたったという事情とかかわるであろう。ただその際語り手はどのような役を果たしたであろうか。《平家物語》の語りがやがて平曲と呼ばれるようになるのは,音楽の要素がそこにからんでいたことを示すが,それが優位するのは後のことで初めのうちは琵琶も語りをあしらう伴奏楽器に近かったのではないかと推測される。では語り手は所与の台本を一言一句おぼえて再生産するだけであったかといえば,やはりそうはいえそうでない。《平家物語》は変化と流動を重ね今日見るごとき形にまで成長してきた作で,その間,多くの異本が発生し作者についても十数名の名が伝えられているが,当然,琵琶法師も詞章のこの生成過程にはあずかるところがあったはずである。証拠はないけれど,《平家物語》のもつ多様性は語り手がさまざまな層に接してその要求を汲みとろうとしたことと無縁でないかもしれないし,また語りという行為が,読本系統にしばしば見られるような物語の肥大化してゆくのを抑える役をしているのはほぼ確実ではないかと思う。少なくともこの語りということをぬきにしては,《平家物語》が和漢混淆文というやや奇妙な名で呼ばれる当時の文体をよく経験化し,和語と漢語のみごとな緊張関係につらぬかれた詞章を生み出しえた秘密は解けないだろう。《平家物語》と《太平記》との文学的な質の違いを規定するかなり重要で隠微な問題がそこにはひそむ。
さて《古語拾遺》には〈上古の世未だ文字あらず。貴賤老小口口に相伝へ,前言往行存して忘れず〉とある。文字のないこういう時期のものこそ,真に口承文芸の名に値する。これを第1期とすれば,文字をもつ社会の口承文芸は第2期に属するといえる。では文字のない第1期に属する伝承はそっくり残るのかといえば,けっしてそうではない。それが残るには文字によって記しとどめられねばならなかったからで,とくに漢字という表意文字をとり入れるほかなかった古代日本では,形式が比較的に短小で一字一音で表記することのできる歌以外は,古い口頭伝承が固有な姿をとどめる可能性はひどく制約されていた。たとえば《平家物語》や説経節を口承文芸と呼ぶのと同じ意味あいで《古事記》をそう呼びうるかといえば疑問である。口承文芸であるかどうかを決める規準の一つは,それが何らかの形で演じられるか否かにあるが,全体として見たとき《古事記》にはそのような契機が欠けている。稗田阿礼(ひえだのあれ)という語り部がいてすっかりそれを暗誦していたとする古くからの説はあまりにもロマンティックで,今ではほとんど支持されていない。《古事記》のうち確実に口承文芸と呼べるのはその歌謡の部分である。《日本書紀》の分ともあわせ記紀歌謡と称するが,これらは疑いもなく歌われたり演じられたりしたもので,その伝統は姿を変えながらも《万葉集》中の歌謡や〈乞食者(ほかいびと)の詠(うた)〉に,さらに平安朝の神楽歌や催馬楽歌等へとつながってゆく。《梁塵秘抄》の今様歌謡,さらに《閑吟集》を経て《隆達小歌集》へと至る民間の小歌なども新たな口承歌謡の流れとして注目されよう。歌謡は短小であるため一般に固定性が強い。それでもしかし小刻みな流動が絶えまなく起きていることは,記紀歌謡を比べてみるだけでもわかる。従来はこれを単に自然的な変化または崩れとみなして終わっていたけれど,口承文芸研究の見地からするならば,この流動が何を意味するかもっと積極的に評価せねばならぬ場合が少なくないことにはなろう。記と紀の歌謡の比較から,記と紀の言語意識の違いを指摘することだって不可能でない。その点,阿礼を語り部なりとした説の反動で,このごろは《古事記》を《日本書紀》と同列に置こうとする向きがいささか強すぎるかに思われる。しかし口承文芸の歴史にとって《平家物語》と《太平記》の違いが決定的であるのと似て,《古事記》と《日本書紀》の違いも決定的だといっていい。《古事記》が純漢文でなく変体漢文で記されているのは,そこに口承的なものの伝統がなにがしか生き続けているということとほぼ同義で,現にその点をうっかり忘れているため解読できずにいる話がそこにはまだ多いといえる。文字以前のオーラルなことばの働きに対し,文字言語に飼いならされたわれわれはかなり鈍感にしか反応できなくなっている。そのことがやがて痛切な反省を強いられるときが来るはずだが,歌でいえば枕詞が文字以前の言語の落し子だという単純な事実さえ,まだ一般的にはみとめられていないありさまである。物語だけでなく歌謡についても,口承文芸に固有な詩学の何であるかがあらためて問われねばなるまい。
→歌謡 →昔話
執筆者:西郷 信綱 以下,世界の主要な地域の口承文芸について記述する。
スラブ系の諸民族はかつて単一の言語を話す統一体をなしていたと考えられ,現在にいたるまで言語はむろんのこと,口承文芸や民間信仰,風俗習慣などの点で顕著な共通性を保持しているが,同時に,長い歴史的過程のなかで各民族の文化がそれぞれ独自の発展をとげていることも明らかである。東ヨーロッパにひろがった東スラブ人(ロシアあるいは大ロシア,ウクライナあるいは小ロシア,白ロシアあるいはベラルーシ),中央ヨーロッパに住みついた西スラブ人(ポーランド,チェコ,スロバキアなど),バルカンに進出した南スラブ人(ブルガリア,マケドニア,セルビア,クロアチア,スロベニア)は言語上の分類でもあるが,このうち東スラブ人と一部の南スラブ人(ブルガリア,マケドニア,セルビア)は,東方正教圏に属し,南スラブ人の他の一部(クロアチア,スロベニア)と西スラブ人はカトリック圏に含まれることによって,二つのグループの口承文芸のあり方にかなりの差異が生じた。概して言えば,カトリック教会は異教的な色彩を帯びた口承文芸に非寛容な態度でのぞみ,正教会は二重信仰という形で異教時代の汎神論的な自然崇拝をつつみこんだのである。隣接した諸民族の文化も個々のスラブ民族の口承文芸に刻印を押した。すなわち東スラブ人は北方のフィン人,東方のアジア系遊牧民と早くから交渉があり,13世紀から15世紀までモンゴル・タタール系のキプチャク・ハーン国の支配を受けたし,南スラブ人はギリシア人やロマンス語系の民族と接触し,14世紀から5世紀にもわたってオスマン・トルコの支配下にあった。また西スラブ人はゲルマン民族との交流がながく,とくにチェコとスロバキアは16世紀から20世紀初頭までオーストリア帝国の一部をなしていた。さらにウクライナ,ポーランド,スロバキア,クロアチアなどの諸民族の居住する地域はハンガリーに接していた。むろんこれらの場合の影響は相互的なものであったと考えなくてはならない。古い時期のスラブの口承文芸の姿は書記史料によってある程度うかがうことができる。たとえば東スラブ人のもとで編まれた《原初年代記》や《イーゴリ軍記》(ともに12世紀)はより古い時代の叙事詩の断片,昔話,なぞ,ことわざ,泣き歌などを含んでいるし,チェコでは14,15世紀にチェコ語やラテン語で書かれた文献に昔話やなぞが収められ,同じころスミル・フラシカによって最初の俚諺集がつくられた。また15世紀のポーランドの修道僧たちは祈禱書の写本に民謡のテキストを書き入れている。近代になって,主としてロマン主義の思潮の中で民族の過去を再評価する立場から,口承文芸の採録が行われるようになった。ロシアでは18世紀後半にキルシャ・ダニーロフの民謡集が編纂され(出版は1804),1850-60年代にはアファナーシエフの昔話集と伝説集が相次いで刊行され,さらに60年代から70年代にかけてブイリーナと呼ばれる口承叙事詩がルイブニコフとギリフェルジンクによって採録,刊行された。南スラブではセルビアのブク・カラジッチがトルコ支配下の故郷の各地を歩きまわって集めた叙事詩を1810年代以降ライプチヒやウィーンで次々と出版して,ゲーテをはじめヨーロッパ各国の作家や学者たちの注目を集めた。口承文芸の諸ジャンルのうちその分布に地域的な濃淡が最もよくあらわれているのが叙事詩である。ロシアに伝わったブイリーナ,ウクライナに残るドゥーマ,それにセルビアとマケドニアを中心として広まっていた叙事詩(〈勇士の歌〉の意味でセルビア語ではユナーク詩と呼ばれる)はいずれも侵入してくる外敵との戦いを題材としている。ブイリーナは知られるかぎり無伴奏で語られたが,ドゥーマはコブザーとかバンドゥーラとか呼ばれる多弦楽器,ユナーク詩は1弦あるいは2絃の擦弦楽器グスラの伴奏で演じられた。これに対して西スラブではこの種の叙事詩は知られていないのである。興味深いことに,泣き歌の分布も叙事詩の伝わった地域とほぼ一致している。これは死者の肉親の女性あるいはなかば職業化した女性が故人の遺徳や遺族の悲しみを葬式のときに大声でうたうもので,とくにロシアでは結婚式や徴募される兵士の見送りの際にも泣き歌がうたわれた。一般に民謡はスラブ人のもとで非常な発達を示しているが,その内容にも地域的な相違がみられる。農耕や祖先崇拝の儀礼と結びついた歌は正教圏で比較的によく保存され,カトリック圏では異教的な要素がほとんど払拭されている。抒情的な歌謡では南スラブでトルコの影響,西スラブで西欧の影響がいちじるしい。動物の仮面やパントマイムを伴う民衆演劇はさまざまな冬の祭事とむすびついてスラブ全域にひろまっているが,ウクライナ西部でその古形がよく保たれている。ペトルーシカを主人公とするロシアの人形劇はチェコで発達した人形劇が東漸したとする説がある。口承文芸の中で最も主要なジャンルの一つである昔話は東スラブとりわけロシアと白ロシア(ベラルーシ)で最も豊富に伝わっている。ここでは動物昔話,魔法昔話,世態昔話など多くの種類の昔話が非常に完成された形で数多く採録されているのである。一般にスラブの口承文芸は,近代になってスラブ人が民族性を自覚したり民族意識を高揚したりする際に重要な役割を果たし,さらに国民的な文学や音楽を創造するための土台を提供した。
執筆者:中村 喜和
日本の八十数倍という広さをもつアフリカは,人種,言語,文化の面できわめて多様性に富んだ大陸でもある。したがって,そこに散在する1000を超えると思われる諸部族のすべての口承伝承に共通するアフリカらしさという特性を見いだしたり,それらの口承伝承の総体を,一つのまとまり,また一つの独立したものとして世界の他の地域から分離させるという試みは難しい。たとえば,サハラ砂漠以北のアラブ諸国,西アフリカのいくつかの国々,東アフリカ沿岸地域などの場合,口承伝承の中には明白なイスラム文化的共通性が見られるが,それも上記のように大陸の中で特定の地域に話題を限った場合にのみ成り立つことである。
サハラ砂漠以南は,通称〈ブラック・アフリカ〉と呼ばれ,それはその地域の住民に黒人が圧倒的に多いということを意味している。一般的に〈アフリカ〉と言う場合は,この地域を指すことが普通である。そのアフリカの口承伝承は,個々の部族の人々の記憶にとどめられ,ある世代から次の世代へと話し言葉(音声言語)を通じて伝えられてきた伝統的民間表現形式の一例といえる。それは肉声で演じられ,人々に聴かれることにより存続してきたものでもある。しかし,口承伝承は言葉のみで独立して成り立っているものではない。とくに,過去に発表されてきた多くの口承伝承の研究は,アフリカ人の伝統的表現形式の中から言葉の部分のみを拾い出し,かつそれを文字で記述してきたものなので,実際の姿からはやや遠いものとなっている。現場での口承伝承は,それが演じられる特定の機会や特定の場所がもつ意味,付随する身ぶり,しぐさ,踊り等身体表現の面,音楽的な面,演じる者と参加する者の関係などの要素が溶け合って一体化してはじめて成立しているものである。
これらの諸要素の役割は,口承伝承の種類により異なるが,アフリカにおける従来の研究では,言葉より身ぶり,しぐさの面が強くなると〈民間芸能〉の一種として,音楽面が強くなると〈民謡〉として,また言葉の面が多くなると〈口承伝承〉〈口承文芸〉などとして取り扱われてきた。過去においては,アフリカの口承伝承は,主にヨーロッパの宣教師,旅行者,民族学者,言語学者,植民地の役人などにより,広範囲な地域から採集され,分類され,分析され,紹介されてきた。そして,その際それらは,神話,伝説,昔話,ことわざ,なぞなぞ,早口言葉などのような形で分類されてきた。しかしこれらは,アフリカ人からみれば他者が行った分類の試みなのであり,アフリカの各部族が自分たちの方法で行ってきたものとは異なっている。たとえば,口承伝承を8種類に分類する部族の例をみると,ナイジェリアのヨルバ族は(1)神話,(2)伝説,(3)物語,(4)なぞなぞ,(5)ことわざ,(6)歌,(7)呪文,(8)占い行事での対句となり,ケニアのマラクウェットMarakwet族では(1)物語,(2)鬼物語,(3)寓話,(4)なぞなぞ,(5)ことわざ,(6)割礼(かつれい)とその他の儀礼の歌,(7)子どもの歌と遊び,(8)男が歌う歌,となり,ウガンダのガンダ族では(1)物語,(2)歌を伴う物語,(3)ことわざ,(4)なぞなぞ,(5)歴史,(6)伝説と神話,(7)表現技法重視の暗誦,(8)歌,というぐあいに分類する。なお,実際にはある形式,たとえばある種の詩が存在するにもかかわらず,それらを指す特別な総称をもたない例も見いだされる。伝統的生活を送るアフリカの人々のあいだでは,口承伝承はその種類に応じて,老人,大人の男・女,子どもと,人生のすべての層にわたる者により演じられている。
しかし,他方においては職業的な口承伝承の演じ手の存在がアフリカ各地に見られることも注目に値する。その中でも最もよく知られているのは,西アフリカに散るグリオgriot(グリオットともいう)と呼ばれる人々である。彼らは,主に王や権力者の庇護のもとに生活しているが,なかには町や村で自活をしている者もいる。グリオは口承伝承者として,またコラ(弦楽器の一種)などを演奏する音楽家として,王や権力者の栄光をたたえたり,有力な人々の系譜を述べたり,その社会の過去の出来事を語ったり,王の広報官の務めを果たしたりするが,そればかりではなく,特定の人物を賞賛したり,逆に中傷したりすることを金銭による依頼で引き受ける。彼らはグリオの家系どうしで結婚し,その生活が他者への寄生によって成り立っていることから,社会一般からは異なった人々であるとして特別な感情,多くは恐れをもって見られ,かつ差別されることが普通である。これは,同様な表現能力をもつ赤道以南の職業的口承伝承者が一般的に高い社会的地位を享受しているのと対照的である。また,グリオは,被差別という特別な社会的地位に置かれていることにより,かえって社会的な束縛から自由であることができ,一般生活者には世間体上から許されないような内容の表現が可能であるという特権をもつことにもなるのである。
一般人であれ職業的な人間であれ,良い口承伝承者は演じることの一回性を重視する。それが成り立つためには,演じる者自身の表現力の豊富さと,演じる者が聴く側の態度をいかに把握するかという把握力との両方をもたねばならない。
聴く側の態度は,やはり口承伝承の種類により,さまざまな伝統的取決めがある。そこで,一概には言えないが,たとえば物語を例にとっても,ケニアのギリヤマGiryama族の場合のように,非常ににぎやかで活発なことが聴く側に要求される例もあるし,同じケニアでもルオ族のように物語が続く間は聴き手は静かで注意深いことが要求される例もある。
口承伝承で取り扱われる内容,または口承伝承が演じられる機会や場所は,他の世界の場合とそれほど変りはない。夕方のひとときのような暇な時間での子どものための昔話,なぞなぞなど,生業に関するもの(耕作,狩,漁,物づくりなどの開始前や最中やその成果についてのもの),人生上の通過儀礼(誕生,割礼,成人式,結婚,葬儀など),民間信仰(占い,予言,病気治療などや,イスラム,キリスト教も含む),戦争にかかわる事柄,特定の個人(権力者や依頼された人物)を賞賛したり中傷したりするもの,一人前の部族の人間にするための教育の一環としてのものなどがある。
口承伝承の形式は,それを演じる人々が話している言語のしくみと,ときには密接な関係をもっている。アフリカの言語の多くは,すべての単語が高音,中音,低音などの一定の音調(トーン)に支配されている〈音調言語〉であり,それは中国語(北京語)のように音調(声調)によりただ単語の意味が異なるというのではなくて,たとえば動詞の現在形・過去形・未来形のような文法変化もが音調により示される〈文法的音調言語〉である。この性質は,口承伝承にも強く反映していて,なぞなぞでも日本に見られるような種類のほかにも,早口なぞなぞ,音調合せなぞなぞといったものが,とくに西アフリカには多く見いだせる。さらに,文法的音調言語を話す西アフリカ諸部族に見られるような,みずからの言語をそのまま太鼓で表現する太鼓言葉(ドラム・ランゲージ。〈太鼓〉の項を参照)による(口承ではない)口承伝承の存在は,今では広く知られている。
口承伝承は,〈民間伝承〉と呼ばれることもあるが,アフリカの場合は,この〈民間〉という語の用法には注意が必要である。すなわち,独立以前の諸国のこの面での状況は部族単位で成り立っていたので,〈民間〉とは個々の部族の中の成員を意味していた。そこで,民間伝承とは,個々の部族内でのみ有効なものであったのである。しかし,独立後のアフリカ諸国では,民間伝承とは,個々の部族を越えた全国民が共有する国家の文化遺産としてとらえられるようになってきた。
この背景のもとでは,かつては所作や音楽を伴い,特定の機会や特定の場所で演じられた各部族の口承伝承は,現在では口承面のみが取り出され,国民の共通語に翻訳され,印刷され,学校教育や成人の教養のための教材として使用されており,それはいわば〈口承文芸〉または口承伝承を基準とした〈文芸〉と呼ばれても抵抗のないものへと変貌を遂げつつあると言えよう。
執筆者:西江 雅之
口承文学の最古のものとしては,民族の歴史を誇る神話の伝承がまず考えられるのであるが,中国は古来多種族国家であったので,統一的な神話の伝承を持っていない。辺境の少数民族にあっては,今なおそうした伝承を求めることができるが,文字に写されるものはまれである。《詩経》の305編の詩歌も口承文学の代表になるが,《詩経》については歌謡の項において述べることにする。
詩の分野での代表的な口承文学は,《玉台新詠》に載せられている〈古詩,焦仲卿の妻の為に作る〉(ひとつに初句をとって〈孔雀東南飛〉ともいう)と題される長編の叙事詩である。この作品は,お互いに愛しあいながらも嫁が義母にいためつけられて,ついに二人ともそれぞれに自殺するという題材を,五言353句(現行本では357句に作る)にうたいこんだ文芸で,時代を後漢の建安年間(196-219)にとり,6世紀になって《玉台新詠》に文字として集録されるまで,広く民間各地にうたいつがれてきたものであった。
小説的な口承文学としては,六朝時代の〈志怪小説〉が考えられる。志怪小説は,仏教説話もその中に含まれるが,その話の大筋のみが今日文字になって残されている。唐代になると(とくに中唐以後),寺院の縁日などに仏教説話を絵を示しながら説き語る文芸が流行したが,今日その文字記録は〈変文(へんぶん)〉として敦煌からかなりの数のものが発見されている。〈変文〉は詩も挿入されるので,そうした部分は節をつけて詠ぜられたものであろう。
宋代,特に12世紀以降の南宋の時代になると,都市の市場に〈勾欄(こうらん)〉と称される日本の寄席(よせ)にあたるものが出現し,そこにおいて講釈師による語りつぎ講談が行われ,人気のまとになった。そこにおいては,三国時代の英雄物語が語られたり,水滸伝のはなしが語られたり,孫悟空の物語が語られたりした。やがてそれらは,明代になって作家の手によって文字に整理され,こうして《三国志演義》120回(羅貫中),《水滸伝》120回(施耐庵(したいあん),羅貫中),《西遊記》100回(呉承恩)の,中国の代表的な長編読物(章回小説という)が出現した。
〈勾欄〉における短編の物語を集録したものには,《京本通俗小説》《清平山堂話本》《雨窓欹枕集》《熊竜峯四種小説》などがあり,やがてはそれらが文字としても整理されて,明代の《三言二拍》《今古奇観》になって今日に残されている。明から清にかけては,とくに江南に〈陶真〉という盲目の琵琶語りの芸人が出現し,孟姜女の話や,白蛇伝の話を伝えてきた。中国の民間文芸として伝えられてきているものは,そのほとんどが,語りの口承文学として長い時間を庶民の生活とともに生きてきたものである。
執筆者:鈴木 修次
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
文字をもって記録された文芸に対して、口から耳へと伝えられてきた文芸をいい、神話、歴史、伝説、諺(ことわざ)、唱え言、童唄(わらべうた)、昔話の類を含む。口承文芸の語は、20世紀初頭にフランスのセビヨPaul Sébillot(1846―1918)が用いたlittérature oraleの訳語とされ、日本では柳田国男(やなぎたくにお)の『口承文芸史考』(1947)の刊行以来普及した用語であるが、古く民間文芸とか伝承文芸とかよばれたものと大差はないだろう。
まだ文字を知らなかった時代には、その民族の神話、伝説はもとより、歴史、法律、科学的知識等のすべてがことばを通して伝えられるよりほかなかったわけで、そこにおのずと「語部(かたりべ)」のような専門職を生じた。雄弁と伝承文学の豊かさで知られるケルト人の場合でみると、その育成には非常な努力が払われたらしく、いわゆるドルイド僧の経営する学塾に通って、ときには20年もかかって何十種もの伝承文芸を暗誦(あんしょう)できるようになって初めて「詩人」filidたることを許されたという。用語は記誦の便宜のために当然韻律をもったものであり、それがしだいに用途に従って散文と詩に分化した。また、それらの記誦は祭りの際や、パトロンである首長の功業をたたえたり死を悼んだりする機会が主であったから、どうしても誇張された表現が多くなったはずで、そこに日常の用語とそれを用いた民話などの様式と、宮廷ないし貴族に奉仕することを主とした貴族文学的なものとの分化も生じた。いずれにせよ古い時代の文芸は、まだ個人の自覚が乏しかっただけに、いったん成立した型をそのままに追う、いわば没個性的な叙事詩的なものであった。しかし北欧でみると、8世紀後半のころから、新しい技巧を用いて個人的な心情をほとばしらせた詩人が輩出して、それまでの『エッダ詩編』に代表される叙事詩型から、いわゆるスカルド詩の時代に移る。彼らは各地の宮廷などに自由に出入りし、これが近代詩人の先駆をなし、フランスやドイツの吟遊詩人につながる。
文字の普及につれて、古い口承文学はほとんどすべて文字に移され(フィン人の「カレバラ」はそのもっとも有名な例である)、口承文学はすこぶる勢力を減じた。しかし、アイルランドやアフリカなどの若干の部族でのように、文字による文芸と並んで、まだ口承の伝統が強く生きている地域があり、また世界にはまだ知られない民族とその口承文芸の記録されずにいるものが少なからずある。たとえば、20世紀になって初めて世界に知られた少数民族ティンディカ人の間にもかなりの民話が発見され、コーカサス(カフカス)のオセット人の伝説は、インド・ゲルマン語族の神話の古型を伝えていた。また、有名な民俗学者マリノフスキーが南西太平洋のトロブリアンド諸島で先住民と親しくつきあううち、彼らの間にわれわれの神話、伝説、昔話にほぼ見合う三つの口承文芸のタイプを発見したとか、最近では南米アマゾン地域の土着民の神話が注目されるとか、いろいろ興味ある問題を提出している。しかし、総じて口承文芸の研究で困難なのは、それらの伝承がいつ生じたか、他から伝えられたか、その正確な種類と質はどうであるか、いったん成立した物語が時代の変化と伝承者の好みによってどれだけ変化するか、それとも変化しないでほぼ正確に伝承されるのか、などの問題が見定めにくく、基準となるような法則が民話の領域を除いてはまだ確立していないことである。その収集は民話を中心にしてかなり進んでいるが、その学問的研究はまだ筋道さえもよくついてはいない、というべきであろう。
[山室 静]
口承文芸は民俗学の重要な研究対象であり、およその範囲は、日本民俗学の領域、すなわち有形文化・言語芸術・心意現象の3部門のなかの言語芸術に属する命名・新語と新文句・諺(ことわざ)・謎(なぞ)・唱え言・民謡・童唄(わらべうた)・語り物・昔話・伝説の諸項を含み、「口承文芸大意」(『日本文学』1932。のち『口承文芸史考』に収録)を著した柳田国男により提唱され、研究が推進されてきた。口承文芸は、ことばの表現を通して、口から耳へ、耳から口へと繰り返し伝達されてゆく文芸であり、文字・書物とかかわりのない時代・民族にも文芸が存在したことは、アイヌのユーカラやフィンランドのカレバラなどの叙事詩をみてもわかる。文字により記録化される以前はもちろんのこと、文字の使用が始まり、書物が流布するようになってからでも、文字とかかわりのない常民の生活は久しく続いていた。また、口承文芸が記録された文芸と密接な交渉を保ちながら各種の文芸を育てあげてきたことは、『古事記』撰進(せんしん)の事情、音楽・文学双方の機能をもつ『平家物語』の存在などからも、十分考えられる。口承文芸は、一部の有識階級よりも一般庶民=常民によって管理・伝承されてきたもので、その内容は生命力あふれるものであり、伝承の中心は農民であったが、伝播(でんぱ)の役割を担った遊行民(ゆぎょうみん)の働きも無視できない。
口承文芸が記録文学と異なる大きな特色として、作者と聴き手との関係をあげうる。作者とは口承文芸にあっては聴衆の代表格のごときもので、聴き手の感覚の枠外に出ることはできず、また聴き手も文芸に少なからず関与する力をもち、双方がある一定の約束の下に文芸を変化させてきたといえる。一個人の恣意(しい)による変更は容易になしえぬものとされ、古代の語部(かたりべ)が、信ずべきものとして、カタル・ヨム・ウタウなどの神聖な伝承に携わっていた厳粛な機能を、後代にまで保ち続けてきた。
時代や地域の差や、語り手・聴き手の能力により、口承文芸は伸縮自在に変化し、各地に広められてきたが、日本は口承文芸に恵まれている国柄で、とくに、昔話・伝説・民謡・語り物の研究は推進されている。口承文芸の研究は、まず、現在日本各地に伝承されているものを、その伝承の姿のままに忠実に採集し比較研究することから始め、そこから、民族が有する文芸能力や固有の信仰、また社会的基盤などに目を向けるべきである。
[徳江元正]
中国で口承文芸とよばれているものは、非常に範囲が広く、また種類も多い。大まかに分けて、(1)語り物、(2)唄い、(3)語りと唄い、の三つに分類できよう。
(1)としては、神話・伝説・講談・万歳・謎・早口ことばなどがあげられる。講談は「説書」とよばれ、茶館などで語られた。万歳は北京(ペキン)地方の二人万歳が有名で、ボケと突っ込みがあり、題材も時事関係・声帯模写・パロディーなど多岐にわたる。
(2)としては、労働歌・儀式歌・恋愛歌・英雄叙事詩・子守歌などがある。このなかで、儀式歌の伝承性が比較的高い。たとえば結婚式のときに歌う「撒帳(さんちょう)歌」は、現在でも農村では昔ながらの形式、内容で歌われている。恋愛歌は「対歌」といい、古くは村ごとに代表者を出して勝敗を競った。いわゆる歌垣(うたがき)で、互いに歌いあって配偶者を選んだ。
(3)に属するのは、地方劇(京劇・黄梅戯(こうばいぎ)・越劇(えつげき)など)、評弾などである。地方劇は方言で唄いかつ語るもので、土地により、豪快なもの文雅なものと個性が分かれ、素材としてその内容と劇のもつ雰囲気のあうものが選ばれる。たとえば京劇では『西遊記』が、越劇では『紅楼夢』がといったぐあいである。評弾は江南地方で行われる講談の一種で、琵琶(びわ)・三絃(さんげん)の伴奏をつける。「開篇(かいへん)」とよばれる枕(まくら)に相当する部分で唄い、その後、本題の語りに移行する。
[今西凱夫]
『柳田国男著『口承文芸史考』(1947・中央公論社)』▽『マリノフスキー著、国分敬治訳『神話と社会』(1941・創元社)』▽『山室静著『世界のシンデレラ物語』(1979・新潮社)』
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…民間説話,または口承文芸の一種。その内容が話し手とその周囲の人々に真実であると信じられている,過去のできごとに関して述べられた話をいい,古来,〈いいつたえ〉や〈いわれ〉と称されてきたもの,すなわち由来や口碑(こうひ)の一種といえる。…
…人類の大部分を占める文字を用いなかった人々も歴史を生きてきたのだし,文字記録は過去を理解するきわめて重要な手がかりを与えてくれるが,それが歴史を知る手段のすべてではない。考古学的遺物をはじめ,建造物,図像,道具など,物として過去を伝えている資料のほか,口頭で伝えられてきたことば,いわゆる口頭伝承(口承文芸)は,人間の過去の営みやそれに対する人々の意識を知る貴重な資料である。19世紀以降ヨーロッパ,次いで日本での民俗学の勃興とともに,まず文字をもつ社会内部での口頭伝承の史料としての意義が認識されるようになった。…
※「口承文芸」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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