ブルゴーニュ公国(読み)ブルゴーニュこうこく

改訂新版 世界大百科事典 「ブルゴーニュ公国」の意味・わかりやすい解説

ブルゴーニュ公国 (ブルゴーニュこうこく)

中世フランスのブルゴーニュ公家の領国を指す。フランス語でいうエタ・ブルギニョンÉtat bourguignonの訳語である。ブルゴーニュ公家は,カペー家系とバロア家系と二つあるが,〈ブルゴーニュ公国〉を形成したのは後者である。〈ブルゴーニュ〉はドイツ語で〈ブルグント〉であり,ブルゴーニュ公家の呼称とその本来の家領は中世初期のブルグント王国の記憶をとどめている。

フランク王国時代,ソーヌ,ローヌ川流域に,アルプスとジュラ山脈を東境としてブルグント王国が存立していた。9世紀以降フランク王国の分解にともなって,ブルグント王国のうちソーヌ川以西の土地は西フランク王国に属し,ブルゴーニュと呼ばれるようになった。ソーヌ川以東,ジュラ山脈にかけての土地がのちのブルグント自由伯領であり,これは東フランク王国,のち神聖ローマ帝国に属した。オータンの伯リシャールがまずブルゴーニュ公を称したが,この家系は西フランク王家からカペー王家への交替期に当たって安定せず,11世紀初頭,カペー家の当主ロベール2世がその息子アンリに公権を託し,それまでの過程で一時分離していたディジョンが,1016年公領に帰属するに及んで,ようやくカペー家系ブルゴーニュ公家が成立した。ヌベール,オーセール,マコンなどは分離して,それぞれ伯領をつくった。

1361年,最後の当主フィリップ・ド・ルーブルの死後,直系の相続者を欠いた公領は,いったんフランスのバロア王家に吸収されたのち,1363年,王家当主ジャン(ジャン2世)の末男フィリップに与えられた。これがバロア家系ブルゴーニュ公家の起源である。フィリップは69年,フランドル伯の娘マルグリットを妻としたが,彼女は婚資としてヌベール,レーテル,アルトア諸伯領とともに,フランドル,ブルグント両伯領という貴重な財産を公家にもたらした。

ここに公家はブルゴーニュ,ブルグントほかの南の領土と,アルトア,フランドルという北の領土をもつことになった。この公家支配地の南北にまたがる分極構造は,公家4代の歴史を通してみるとき,一つの隠れた全体構造の部分であったと知れる。というのは,やがて第3代当主フィリップ2世の初年,公家はネーデルラントブラバント公領(1430),ホラントゼーラント,エノー3伯領(1431)を取得する。ルクセンブルク,リンブルク両公領も彼の代に公家の統制下に入った。さらに最後の当主シャルル(豪胆公)は,その10年間の短い当主期間に,ブルゴーニュ,ブルグントに隣接するエルザス(アルザス),ロートリンゲンロレーヌ)の領有をねらい,一時はそれを実現し,また上シュワーベン(スイス)にも食指を動かした。北の方では,ホラントの東,ライン川下流域のヘルレ公領もまた,彼の代に公家支配地となった。

 ここで浮かび上がる〈ブルゴーニュ公国〉の全体像は,往時のロタリンギア,すなわちフランク王国が分解した後に一時成立した中部王国からイタリアを除いた版図の再現であった。〈ロタリンギア王国〉再建のアイデアは,すでに初代当主フィリップ(大胆公)の意識におぼろげながら形をとっていた。彼はフランス王家顧問会議筆頭の地位にあって対英和親の方針を打ち出し,またバイエルン公家との和合を図った。イギリスとの通商を重視するフランドル諸都市の立場に同調する政策であり,またバイエルンの諸公家はネーデルラント諸公伯家と姻戚関係をもつ家系集団である。フィリップは自分の子女の配偶者にバイエルン家の者を配し,シャルル6世とバイエルン・インゴルシュタット公家のイサベラ(イザボー・ド・バビエール)の結婚を斡旋した。

 第3代当主フィリップ(善良公)によるネーデルラント諸公伯領の取得は,この〈公国〉の未来像に豊かな現実味を与えた画期的できごとであった。公家は,これによって,その支配領域の広がりと資力において1.3倍ほどに強大化したと計算される。この時点で公家はフランス王国から離脱し,〈公国〉のあるべき態様の実現へと路線を定めることができたはずであった。新たに〈公国〉の形成に参加したネーデルラント諸邦は,そう望んだ。しかし当主フィリップ(善良公)は,ついにその決断をためらった。その決断をはばむ力が働いたというべきであろう。すなわちそれはフランス王権であり,1435年,アルトアの主都アラスにおける国際会議がこの大いなる歴史のドラマの舞台となった。

1410年代,フランスは内乱状態にあった。初代のフィリップ(大胆公)が1404年に死去したのち,王弟オルレアン公ルイが権勢を張り,第2代ブルゴーニュ公ジャンがこれを謀殺したことに端を発した,いわゆるアルマニャック派対ブルゴーニュ派の党派対立である。アルマニャックの呼称は,ルイの岳父アルマニャック伯の名に由来する。この内乱の渦中にイギリスのランカスター王家が〈フランス戦争〉を再開した。王政府の実権をめぐる党争は,ノルマンディーを占領したイギリス王家という新たな因子を抱えこんで混迷し,19年,ついにアルマニャックの党派によるブルゴーニュ公ジャンの謀殺において破局を迎えた。

 第3代ブルゴーニュ公となったフィリップ(善良公)は,イギリス王家との同盟等に踏み切り,イギリス・フランス連合王家の成立を誘導した(1422)。一方アルマニャック派に擁立され,バロア王家を廃嫡されたシャルル6世の末男シャルル(のちのシャルル7世)は,ロアール河畔に臨時政府を立て,しだいにアルマニャック派色を清算して,ブルゴーニュ公家との和合を図る戦略をようやく明瞭にするにいたった。アラス会議(1435)は,このシャルルの戦略の帰結として企図されたものであって,ねらいはただ一つ,バロア王家対ブルゴーニュ公家の単独講和であった。フィリップは,ランカスター家も加えた3者間に講和を構想したが,これを認めることはブルゴーニュ家をバロア,ランカスター両王家と対等の立場におくことになる。ブルゴーニュ公はあくまでこれをフランス王の一封臣の位置にとどめなければならない。シャルルのこの決意の前に,フィリップはもろくも身を屈した。ホラント総督ヒュー・ド・ランノアは,フィリップの弱腰を手厳しく批判する書簡を彼本人にあてている。

この講和によってフィリップ(善良公)は,父公ジャンの殺害に関する詫状と,一代限りのフランス王に対する臣従礼免除特権,加えてアルトアの南ソンム川流域諸都市の都市領主権を手に入れた。王家にとってこれは何ほどの譲歩でもなかった。一代限りの臣従礼免除特権は,逆にブルゴーニュ公が王の家臣にほかならないことを印象づけるものであった。実のところ王家はもはや臣従に基づく封建的主従関係を問題にしていない。ブルゴーニュ公としてはそのことに気づくべきであった。

 以後,王家は,ソンム川流域諸都市上級領主権の買戻し権を武器に公家を操縦した。王家役人は公領の各所で紛争を醸成し,公家裁判所の上級法廷である王家裁判所への上訴を誘導した。公家は司法の局面で王国の下属機構である。このように公家家政の全局面に上級支配権としての王権の介入があった。北の領邦はこの状況にいらだち,公家に対する反逆傾向を強めた(たとえば1449-53年のガン戦争)。

 最後の当主シャルル(豪胆公)登極の前後,フランス王座には実利主義的官僚型の支配者ルイ11世が就き,父王シャルル7世の対公家路線を増幅強化しつつあった。シャルルは北の領邦に対する締めつけを強め,その資力を収奪して一大軍団を養い,王権からの離脱を図った(そのことから,彼は〈向こう見ずle Téméraire〉のあだ名で呼ばれることになった)。公家は4代目にして初めて,その〈明白な宿命(マニフェスト・デスティニー)〉を自覚したのである。ルイ11世はこれに対し,ライン川流域諸公伯,イギリス王家,スイス盟約者団との〈遠交〉の網を張り,シャルルの自滅を待った。シャルルは,この網にひっかかった。

 1477年1月,シャルルはロートリンゲンのナンシーにおいて,ロートリンゲン公のスイス人傭兵隊と戦い,戦死する。彼には一女マリアがあった。マリアはフランドル,ブラバントなど北の領邦の等族会議に支持されて,オーストリア・ハプスブルク家のマクシミリアンとの結婚策に踏み切った。これはすでにシャルルが生前配慮していたことである。南のブルゴーニュ公領,北のアルトア伯領,フランドル伯領の南辺などはフランス王家に横領されたが,ブルゴーニュ公家はハプスブルク家に接木されることによって,なお命脈を保ち,ネーデルラント諸領邦とブルグント伯領を同家の支配にもたらしたのである。

オランダの歴史家J.ホイジンガは,その主著《中世の秋》の標題を,初めは〈ブルゴーニュの世紀〉としようと考えていたという。14,15世紀のフランスとネーデルラントの社会と文化を一つの独特なタイプのものとみて,それに〈ブルゴーニュ〉の形容を与えようとしたのである。ヨーロッパ中世文化の全容がブルゴーニュ的な態様において,ここに姿を現したとホイジンガはみた。

 ブルゴーニュの宮廷文化は,本来フランス王家のそれを本家とする。隠国(こもりく)のブルゴーニュのディジョンの公館において,フランス風宮廷文化は荘重な形式主義の盛儀に仕立てあげられた。階層的身分観,騎士道儀礼,キリスト教倫理に裏打ちされたこの宮廷文化は,公家がフランスの内政に関与する度合が強まるにつれて,パリの上流文化の指導的ファッションとなり,さらに家勢の伸張する方向に流れて,アルトアのエダン,フランドルのブリュージュ,ガンなど各地の公館がフランス・ブルゴーニュ文化の,いわば情報センターとして機能する。

 もとより文化の交流は相互的なものであって,ネーデルラント固有の文化要素,たとえば広く都市文化固有の商人の実利主義,あるいは〈新しい信仰(デボティオ・モデルナ)〉運動に表現された神秘主義が,ブルゴーニュ文化固有の諸要素に作用し,反作用を受ける。生活風俗,文学,造形美術,そのほか多様な生活の表現において,そのような全体的状況が観察されるのであって,ファン・アイク兄弟にはじまる15世紀ネーデルラント画派も,たとえばその一つの見本である。ホイジンガはそのような文化の複合的状況を観察し記述したのであって,そこにヨーロッパ中世文化の終末の様相を看取し,これを〈中世の秋〉と名づけた。

 しかし,ブルゴーニュ公家北方領国がやがてネーデルラント連邦共和国に再生するのと軌を一にして,ブルゴーニュ文化の持続は,たとえば近代市民社会における礼儀作法や紳士の理念と実践にモデルを与えた。あるいは15世紀ネーデルラント画派の直系として17世紀のオランダ画派をあげることができる。ブルゴーニュ文化は,一つの独特のタイプの文化として,その歴史的生命を後代に伝えたのである。
百年戦争
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブルゴーニュ公国」の意味・わかりやすい解説

ブルゴーニュ公国
ぶるごーにゅこうこく
État bourguignon フランス語

中世フランスのブルゴーニュBourgogne公家の領国。

[堀越孝一]

公国の由来

フランク王国時代のブルグントBurgund王国のうち、ソーヌ川以西の土地に11世紀初頭、フランスのカペー王家によって公家がたてられた。カペー家系ブルゴーニュ公家(ブルゴーニュはブルグントのフランス語読み)といい、これは14世紀中ごろまで存続した。1361年に公家の男系が絶え、公領はいったんフランス王家のバロア家に吸収されたのち、1363年バロア家当主ジャンの末男フィリップ(1世)に与えられた。これがバロア家系ブルゴーニュ公家で、1477年まで4代を数え、ブルゴーニュ公国を形成する。ブルゴーニュ公国は、フランス語でエタ・ブルギニョンという場合の、その呼称の訳語であって、これは厳密にいえばヨーロッパ史における固有名詞ではなく、ブルゴーニュ家が本来の家領、すなわち、ブルゴーニュ公領のほかに、フランドル、ネーデルラント方面に支配地を広げ、フランス王家に対抗して一つの国家的な組織をつくろうとする方向に展開したことに由来する呼称である。

[堀越孝一]

公国の版図

バロア家系のブルゴーニュ公家初代当主フィリップ1世Philippe Ⅰ(在位1363~1404)は、1384年ソーヌ川以東のブルグント伯領を神聖ローマ皇帝より受封し、フランドルとアルトア両伯領をフランス王から受封した。いずれもその妻であるフランドル伯女マルグリットの相続財産である。ここに公家は「北方領国」をもつことになった。やがて、第3代当主フィリップ2世Philippe Ⅱ(在位1419~67)のとき、公家はネーデルラントのブラバント公領、ホラント、ゼーラント、エノー3伯領を取得する。ルクセンブルク、リンブルク両公領も彼の代に公家の統制下に入った。さらに最後の当主シャルルCharles(在位1467~77)は、10年間の短い当主期間において、両ブルゴーニュに隣接するアルザス(エルザス)、ロレーヌ(ロートリンゲン)の領有をねらい、一時はこれを保有し、ホラントの東、ライン川下流域のヘルレ公領もまた彼の代に公家の支配地となった。これら新たに取得された支配地は、いずれも神聖ローマ皇帝の宗主権の及ぶ土地であった。歴史的にみれば、これは往時の「ロタリンギア」、すなわちフランク王国が分解したのちに一時成立した中部王国からイタリアを除いた版図にほぼあたる。

[堀越孝一]

アラスの和約

この公家の動向は、必然的にフランス王家との摩擦を引き起こす。1420年のトロア条約成立後、1435年のアラスの会議に至るまで、ヨーロッパの国際政局は両家の対立を軸に展開した。公家としては、フランス王家との関係を絶ち、独立の公国としてたつ絶好の機会であった。しかし、当主フィリップ2世はついにその決断を下さず、バロア家のシャルル(後のシャルル7世)の巧みな外交術数に踊らされてバロア家と和解する(1435、アラスの和約)。

[堀越孝一]

ヨーロッパの大公

フィリップ2世は「ヨーロッパの大公」であったとよく批評される。公家は、その財政や軍事の局面において、ヨーロッパ諸勢力中バロア家に次ぐ大勢力であった。ブルゴーニュのディジョン、フランドルのブリュージュ、そしてパリの公館を拠点に営まれた宮廷文化が、その荘重な形式主義において中世の騎士道文化の集大成であり、フランドルやネーデルラントの市民生活に豊かに受容され、近代市民文化に遺産を残した事情については、オランダの歴史家ホイジンガがその著『中世の秋』に活写したごとくである。ファン・アイク兄弟を始祖とするネーデルラント画派、ホラントからフランドルにかけて展開したネーデルラント神秘主義の「新しい信仰」運動等々、文化の諸局面にわたってブルゴーニュ文化は、一つの独特のスタイルをもった文化であった。

 しかし、後代は、ブルゴーニュ文化を遺産として受け取りはしても、ブルゴーニュ「国家」については多くを語らない。16世紀後半に成立するネーデルラント連邦共和国(オランダ)がブルゴーニュ「国家」の後身であるという理解は、歴史の幾重もの屈折についての展望を得て初めて定まる。フィリップ2世の死後、1467年に当主となったシャルルの決断について、まず展望をもつことが必要である。

[堀越孝一]

王権との抗争

アラスの会議において王家がブルゴーニュ公家の王国からの離脱を阻止したということは、具体的にいえば一つには公家を王家の司法権の制約下にとどめたということである。以後、王家の役人は公家支配地の各所で紛争を醸成し、王家裁判所への上訴を誘導した。封建宗主としての上級裁判権を武器に公家の消耗を図る作戦である。アラス会議において、王家は公家にアルトアの南のソンム川流域諸都市の都市領主権を譲渡した。このソンム諸都市に対するこの種の工作において、王家が公家に対して仕掛けた、いわば「司法戦争」は、最大の効果を発揮した。公家は、王家の挑発にいらだち、1464年同種の不満をもつ他の諸侯と連帯して内乱を起こした(公益同盟戦争)。バロア王家当主ルイ11世は、各個撃破の形で反逆諸侯の不満をなだめ、公家を孤立せしめた。67年フィリップ2世を継いだシャルルは、王家との協調の不可能を悟り、1472年、再度諸侯がルイ11世と対決した内戦の挫折(ざせつ)を機に、フランスの内政から離脱し、「ロタリンギア王国」の実現へと決定的な第一歩を踏み出したのであった。これは当然神聖ローマ皇帝とドイツ諸侯の警戒を誘う。シャルルは、ネーデルラント、フランドル諸都市の資力を収奪して一大軍団を養い、フリースラント、ヘルレ、ラインラント、ロレーヌ、アルザス、上シュワーベン(スイス)に転戦するが、ついに1477年1月、ロレーヌ公のスイス人傭兵(ようへい)隊とナンシーに戦って敗死する。

[堀越孝一]

ハプスブルク家との婚姻

シャルルのひとり娘マリアは、フランドル、ブラバントなど北方諸領邦の等族会議の支持を得て、オーストリア・ハプスブルク家のマクシミリアン(後の皇帝、1世)との結婚策に踏み切り、ブルゴーニュ公領とアルトア伯領はフランス王家に横領されたものの、ネーデルラント、フランドル諸領邦とブルグント伯領をハプスブルク家の支配にもたらした。このハプスブルク・ブルゴーニュ公家のネーデルラント領は、その後スペイン・ハプスブルク家の支配地となり、16世紀後半、ネーデルラント独立戦争を迎えるのである。シャルル、マリア父娘の決断が、ブルゴーニュ公家北方領国の未来に一つの方向性を与えた。

[堀越孝一]

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百科事典マイペディア 「ブルゴーニュ公国」の意味・わかりやすい解説

ブルゴーニュ公国【ブルゴーニュこうこく】

フランス東部の封建領邦。名称は民族大移動期のブルグント族に由来。9世紀末ブルゴーニュBourgogne北半部に創建され,カペー家と密接な関係を保った。1361年家系は断絶しフランス国王ジャン2世が所領としたが,1363年その子フィリップが公に封ぜられた。以後東部のフランシュ・コンテ,北西部のフランドルを併合し,百年戦争中は英国と結びフランス王権と対抗する大勢力となった。1477年家系が絶えてフランス王領となったが,長く独立性を保った。→ブルゴーニュ派
→関連項目シャルル[勇胆公]フランシュ・コンテブルゴーニュブルゴーニュ楽派

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世界大百科事典(旧版)内のブルゴーニュ公国の言及

【ブルゴーニュ】より

…561年に誕生したフランク族のブルゴーニュ王国は,ソーヌ川流域を本拠地として西や南へと領域を拡大したが,771年にカール1世(大帝)のフランク王国に統一されてしまった。しかし,843年のベルダン条約によってブルゴーニュ公国が誕生した。この公国はのちに支配者をたびたび替えたが,1364年にバロア家のフィリップ(アルディ公)が公位を得たのち,娘むこという関係から義父のフランドル伯領を受け継ぎ,支配圏を北海沿岸にまで広げるにいたった。…

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